9日目-7
「聖女サン? 何する気ッスか?」
おもむろに結界柱に駆け寄るユイをアイラックが訝る。ユイは説明する間も惜しんで簡潔に告げた。
「黒虎を帰してあげて。結界を立ち上げる!」
「な、何言ってんスか! 無理ッスよ、アンタにまだそこまでの技量は……。それにその結界柱の仕組みは……!」
「無理じゃない! 私は聖女だよ。不可能を可能にしてこそ救世主でしょ!」
駆け寄ってこようとするアイラックを制し、ユイは両腕を結界柱へと突き出した。アイラックがまだ何か騒いでいたが意識から追い出す。悪いと思うが結界構築に集中したかった。
細く長く息を吐き出す。意識の糸が修練されていく感覚があった。余計なものを削ぎ落した精神で体内の神聖力に触れる。
偶然にも結界柱が馴染み深いマリスレイス式で助かった。どこに意識して力を注げばいいか、勝手が良く分かる。
どこか懐かしさを感じながら、細部まで丁寧に編み上げた神聖力を結界柱に捧げる。
透き通った翡翠色が薄ぼんやりと輝きを放ち始めた。ぽかんと口を開けたアイラックが慌てて黒虎を帰す。
ユイは疲労感と眩暈を押し殺し、さらに神聖力を熾した。
清らかな光を纏わせた結界柱が静かに空中に浮かび上がった。ゆっくりと高度を上げていく。
ユイの身長をゆうに超え、さらに高度を稼いだところで緩やかに静止した。途端、結界柱が目も眩むような輝きを放った。
様子を見守っていたアイラックだけでなく、橋上で戦闘を繰り広げていたレヴィンたちもそれぞれ反応を示した。魔獣からすれば恰好の隙だったが、奴らは一匹としてレヴィンたちに襲いかからなかった。いや、できなかったのだ。
結界柱から広がった光がユイの身体を通り抜け、門塔を越え、橋に広がる魔獣を押し退けた。
目の前の餌を取り上げられた魔獣は苛立ち任せに抵抗した。結界に体当たりを仕掛ける。結界と魔獣、両者の力が拮抗し、結界の広がりが阻まれた。ユイは喉から気合いの声を迸らせ、あらん限りの力を振り絞った。
結界が徐々に魔獣を押し始める。そしてついに、魔獣を橋の外へと押し出した。空中に投げ出された魔獣が為すすべなく<エーデの裂け目>に落ちていく。
「やっ……た……」
ユイは両腕をだらりと落とした。空気を貪るように荒く呼吸する。肌が汗でべとべとだ。
あ、と思った時には遅かった。辛うじて立っていた足から力が抜け、ふらりと身体が傾いだ。
「聖女サン!」
アイラックが慌てて手を差し伸べる。ユイは硬い床に激突する寸前、安心感のある腕に抱き留められた。
「……ありがとう、アイラック……」
口元に淡い笑みを浮かべ、ユイは力なく垂れ下がった瞼を薄く開いた。ぼんやりとした視界が次第に焦点を結ぶ。
そこにあったのは、青みがかった黒髪に美しく整った怜悧な顔立ち。そして切れ長の赤い瞳だった。
「レヴィン……⁉」
ユイは掠れ声で驚いた。橋の上にいたはずなのにあの一瞬でどうしてここに。それになぜ自分を抱き留めているのか。ユイの頭を疑問が埋め尽くす。落ち着いて考えれば分かるはずのことも今のユイには理解が及ばない。
「まったく。君はいつも私の想像の斜め上をいくね」
ユイは不覚にも呆気に取られた。レヴィンが見たことのない表情で笑ったからだ。
どきん、と胸が不自然に高鳴った。
「…………」
いやどきんってなに、と自分で突っ込みを入れる。
「これだけの無茶をしたんだ。頭が痛いとか吐き気がするとか、どこかおかしなところはないかい?」
「……大丈夫……。でも本来の結界の範囲を維持できなかった……」
一時的に橋の大部分まで広がった結界は、今は門塔を囲むだけに留まっている。今のユイではこれが精一杯だった。時間が経てば、無防備な橋の上にまた魔獣が現れる。
「十分すぎるよ。この隙に簡易結界を張り直せる」
「本当に?」
「ああ。怪我人はいるが死者はいない。ユイ、君がみんなを救ったんだ」
「……そっか……。良かった……」
ユイは瞼を閉じた。目裏に刺さる青空が眩しい。本当に良かった、と胸中でもう一度繰り返した。
「やったッスね。すごいッスよ聖女サン! オレ感激したッス!」
アイラックが飛び上がらんばかりに目を輝かせた。ユイは身を起こしながら彼に笑みを向けた。
「そう思うなら名前で呼んでよ」
「お安い御用ッスよユイさん! ……あ、なんか今寒気がしたッス」
頬を引き攣らせたアイラックがそろりと視線を横に向ける。そこで何を見たのか、彼はぐりんと首を戻した。なぜか顔中脂汗を浮かべている。
ユイは怪訝に思い、背中に手を添えるレヴィンを横目で見た。だがいつもの整った微笑があるだけだった。
「門塔は君のお陰でもう安全だ。二階に仮眠室があるから休むといい。兵士用であまり質は良くないが、横になるだけましだと思う。アイラック、連れて行ってあげてくれ。私は戻って残党の魔獣を片付ける」
「了解ッス! 立てるッスか、聖女サン。……そんな不満げな顔しないでほしいッス」
「だって呼び方戻ってるし」
結局名前で呼んでもらえず頬を膨らませるユイに、アイラックが苦り切った顔をした。
ユイはアイラックの手を借りて立ち上がった。レヴィンの見送りを受け、緩慢な動作で仮眠室へと向かう。




