9日目-1
道中、身が竦むほど豪華な宿で二泊し、馬車は予定通り<エーデの裂け目>に到着した。大橋の手前に設けられた関所を抜ければ断崖絶壁は目と鼻の先だ。
「足元気を付けて。地面が波打っている。足首を捻ったら事だよ」
「自分で治癒魔法かけるから大丈夫。というかお姫様扱いが板についてるね。女の子はみんなお姫様とか言っちゃう性質?」
「少なくとも君は一国の姫より大事な存在だよ。私にとってもね」
「…………」
春の花が咲くような笑顔になぜか気勢を削がれ、ユイは無言で馬車を降りた。レヴィンが差し出した手は無視した。
「あ、殿下がフラれてるッスー」
「アイラックの魔獣って良い脂が乗ってそうだよね」
「ひえっ、物騒なこと言わないでくださいッス!」
口元だけでにこりと笑うレヴィンにアイラックが悲鳴を上げる。楽しそうで何よりだ。
危なげなく地面に降り立ったユイは周囲を見渡した。剥き出しの地肌が水平な崖に沿って遥か遠くまで続いている。このあたりは魔獣が頻繁に出没するため人は滅多に近寄らない。小さな町も村もない未開拓の土地はひたすら雄々しい。
久しぶりに見た<エーデの裂け目>は相変わらず大きかった。自然の所業か、はたまた神の御業か。向い岸の人影が判別できないほど幅がある。絶壁の終わりは見通せないほど遠く、国境の三分の一を占に及ぶというのも納得だ。
縁に立ってぽっかり口を開いた崖下を見下ろせば、足元からぞわりと悪寒が這い上がってくる。冷たい風が頬に吹き付け、ユイの脳裏に一周目の記憶が蘇った。
魔族の襲撃により封鎖されたマリスレイス側の関所が魔獣の巣窟となり、一番近い村に大型の魔獣が出現、騎士団が討伐に乗り出した出来事があった。
討伐は成功したが大量の瘴気が空気中に溶け込み、放置すれば自然や村民に悪影響を及ぼす。そのため浄化処理の依頼がユイに回ってきた。
順調に進む作業中、突如はぐれ魔獣に襲われ、ユイは死を覚悟した。あの時はまだ、涎を牙先から滴らせて目を爛々と光らせる凶暴な魔獣に慣れておらず、身が竦んで動けなかったのだ。
『ユイ、お願いだ。私を信じて。絶対に君を傷付けさせない。私の命を賭して守るよ』
フェルティスは約束通り、浄化魔法に専念するユイに襲いかかった魔獣を悉く屠った。ユイの信頼を裏切らなかった。あの時は。
ユイは切なく痛む胸をきゅっと押さえた。
「ユイ? どこか調子でも悪いのかい?」
「えっ、大丈夫ッスか? 関所の寝台で休むッスか⁉」
「……ううん。何でもない、大丈夫。それにしても大きい橋だね!」
わざと明るい声を出す。二人が誤魔化されてくれたのかは分からないが、それ以上何も言ってこなかった。
<エーデの裂け目>の両岸を繋ぐ大橋は縦に長いのはもちろん、幅員もかなりある。余裕で荷馬車がすれ違えるほどだ。
飾り気のない欄干には結界石が等間隔で吊り下げられていた。建設作業中の仮設結界だよ、とレヴィンが補足してくれる。結界石は橋を延長するように伸び、関所の周囲をぐるりと囲んでいた。
大橋の中央付近に一際存在感を放つ建築物があった。門塔だ。
堅牢な構えの門を二つの細身の塔が挟んでいる。門は引き上げられており、奥に橋の続きが見通せた。
「門の上部に大きな結晶柱があるだろう? 横向きの。あれが結界柱だよ。あそこを基点にした結界で、大橋全体と二つの関所を守護するんだ。といってもまだ稼働前だからあまりいい例とは言えないが」
「えっ。結界柱は未完成なの?」
だとしたら話が変わってくる。さすがのユイも部品の足りない装置は動かせない。
ふいに立ち現れた当惑が焦りとなって胸を焼いた。
「完成はしているよ。十分な量の神聖力さえ注げばすぐに稼働させられる。今は建設作業中だからね、仮設で事足りる。本格的に稼働させるのは完成披露式典前後かな。その時は君の出番だよ。楽しみにしていて」
「責任重大だね」
ユイは安堵から乾いた笑みを浮かべた。
「そう気負わなくていいよ。何も今すぐにとは言わない。他の結界柱の補強もね。君の不安が晴れるまで私や大聖堂の神官がきっちり指導する」
「……ありがとう」
笑みの理由を誤解したレヴィンが力強く頷く。そういう意味じゃなかったんだけどな、と思ったが口にはしなかった。嘘も方便。誤解もまた方便だ。
真新しい大橋を渡って門塔へ向かう。左の棟の前に一人の若者がいた。
年の頃は二十代半ばから後半だろう、身なりの整った好青年だった。
「お待ちしておりました、殿下。それに聖女様も」
恭しく礼をした青年は名前に次いで、所長代理だと名乗った。
「代理? 所長はどうしたんだい。本来なら彼が案内するはずだろう」
「所長は流行り病で臥せってしまわれまして。代わりに私が」
「えっ、それってすぐ治る病気なんですか。良かったら私が治癒しましょうか?」
「いえいえっ、聖女様のお手を煩わせるわけにはまいりません。お心遣いありがとうございます。数日安静にしていれば治りますから、どうかご安心ください」
「……それならいいけど……。いやよくはないけど」
ユイは自分が熱を出した時を思い出した。高熱に霞む視界と全身に張り付く悪寒。一日二日寝ていれば治ると頭では理解していてもあの瞬間に限っては無限の苦しみだった。
大人になってから罹る病は子どもの時分より症状が重くなると聞く。
所長があっという間に回復しますように、とユイは胸中で祈った。
「ユイは優しいね。だからきっと神は君をこの地へ招いたんだろうね」
「優しくても何もできなきゃ意味ないよ」
ユイは頬を赤らめた。気恥ずかしさとともにじんわりと胸に広がる温かな熱を感じる。
ややあってユイははっと我に返った。油断ならない相手からの賛辞を素直に受け取ってどうする。
歯の浮く台詞を吐くレヴィンにアイラックがじっとりと湿った目を向けた。




