5日目-3
針葉樹の太い枝に吸い寄せられたユイの瞳が零れ落ちんばかりに大きく見開かれる。半開きの口から声にならない声が漏れた。
そこでは上背のある同年代の少年が幹に背を預けていた。灰色の跳ねた髪に簡素な模様を織り込んだ布を巻いており、暗色の三白眼は猫のように吊り上がっている。唇を彩る不敵な笑みは懐かしい。
アイラック、と呼んだはずの声は、幸か不幸か音にならずに口内で消えた。
やはりあの影は彼だった。もう二度と会えなかったはずの一人にまた出会えた。
堪え切れない涙が一滴、目尻からぽろりと零れた。
「えっ、泣くッスか? 思わず泣いちゃうほど惚れちゃったッスか? うわー、照れるッスね」
アイラックが後頭部に手を遣り、鼻の下を伸ばす。口を開けば嗚咽を漏らしてしまいそうで、ユイは否定したくてもできない。代わりのように容赦なく現実を突き付けたのは侍女だった。
「普通のご令嬢が突然頭上から声をかけられたら驚くでしょう。怯えさせて泣かせたくせにデレデレするな」
「酷いッス! なにもそこまではっきり言わなくてもいいじゃないッスかぁ!」
アイラックがわあっと泣き崩れた。だが地面に降りた時にはもうすっかり元の調子を取り戻している。相変わらず切り替えが早い。ふっと小さく笑った拍子にまた涙が零れた。
ユイはぼやけた視界をぐっと拭い、意識して深く呼吸し気持ちを落ち着けた。ここで会えたのはまたとない幸運だ。泣いてばかりではいられない。
「……急にごめんなさい。その、君が元の世界の友達に似てたの」
「そうだったんスか。オレに春が来たわけじゃなかったんスね……。オレはアイラック・リャッタッス」
「……鳴坂結衣。ユイって呼んでよ」
涙の残滓を振り払い、ユイは瑞々しい夏の果実のような笑みを弾けさせた。アイラックが軽く息を呑む。
ユイは少し考え、なぜか呆けている彼との距離を詰めた。背後の侍女に聞こえないよう潜めた声を耳裏に落とす。
「本当は君自身のこと前から知ってたの。ねえ、第三王子と王太子ってどっちの方が払いがいいの?」
「……⁉」
驚きに染まる瞳を見返し、ユイはにこりと笑んだ。
実は、アイラック・リャッタは二重間諜だ。トゥバキア国第三王子レヴィンの腹心として働きながら、得た情報をマリスレイス国の王太子フェルティスに流している。
アイラックを味方につけられれば向こうの情報を手に入れられる。それ以上を求めることもできるだろう。
「……アンタ何者ッスか。マリスレイスとどういう関係?」
アイラックが頬に汗を滲ませ、口調を鋭くした。
「あれ。聖女って呼んでたからレヴィンから聞いてると思ってたんだけど。違うの?」
本職の間諜相手に心理戦は肝が冷える。肉を切らせて骨を断つ作戦だが背に腹は代えられない。
利用するようなことをしてごめんね、と胸中で謝りながらユイは言った。
「向こうの国が今どうなってるのか知りたいな」
「…………今夜窓の鍵を開けておくッス」
「ありがとう」
長い沈黙の後に告げられた唸るような一言に、ユイは笑みを深くした。
「ユイ様? 何か気になることでも?」
不自然に近い距離で固まる二人を見かねた侍女が声をかけてきた。
「いえ。大したことじゃないです。待たせてすみません、行きましょう!」
ユイは何でもない様子を取り繕い、ととっと彼女の隣に並んだ。




