金曜日の夜に。
私たちのティーならぬコーヒータイムは、時の流れを忘れてしまうほど和やかなものだった。
彼女が憧れているという例の『お兄様』の話から、互いの食事の好みや趣味、愛読書の紹介など、本当に他愛の無い話ばかりをした。
もちろん、彼女の夢を壊さぬよう自分の情報については多少の脚色をして話したが、極力嘘はつかないよう心がけたつもりだ。正体を隠している時点で、今更だろうけど。
家族と他人を心の天秤にかければ、もちろん家族を乗せた器が圧倒的な重量を持って勢い良く沈む。
だが、色々な偶然が重なった結果にしろ、自分のことを『お兄様』と呼んで慕ってくれる女の子を騙しているという状況は、あまり気分の良いものでは無い。
だからせめて、『明希』として彼女と接している間だけでも誠実でいるべきだと思った。
結局それも、自己満足でしかないけれど。
「あ、そうだ! お兄様聞いてよ。今日学校でね、すごく暗くて失礼な男子がいたの!」
「ぶふっ!?」
と、私が意味の無い懺悔を心の中で零していると、お嬢様の口から引っかかるワードが聞こえてきた。いやまあ九割九分九厘、見当はついてるんですけどね。
「く、暗くて失礼な男子、ですか?」
「そうなの! 朝からまるで地面と見つめ合ってるみたいに背中を丸めて歩いてたから、何か悩み事でもあるのかと思って声を掛けたら、すっごく迷惑そうな顔するし。しかも、その時は時間が無くて詳しい話を聞けなかったから、放課後に聞こうと思って待ち合わせしたらいつまで経っても来ないし! そうよ、そのせいでここに来るのも遅れたんだから!」
ですよね私のことですよね。分かってました、ええ。
さて、どうしたものか。このまま他人事として聞き流しても良いが、万が一、正体がバレた時にこれ以上ややこしい事になるのも厄介だ。
まあ、この状況自体がややこしいことこの上無いわけだが。
兎にも角にも、この場は適当に誤魔化してうやむやにしてしまおう。
そういえば、そろそろタイムリミットも迫っているはずだ。
「お、お嬢様、お時間はまだよろしいのですか?」
そう言いながら、私は胸ポケットにしまっていた懐中時計を開いてみせる。時計の針は、丁度午後九時を指し示していた。
高校生である私が働けるのは、労働基準法で定められた午後十時まで。つまり、お見送りや後片付けの事を考えれば、お嬢様にはそろそろお帰り頂かないと不味い。
話を逸らす口実のつもりで時間を確認したが、差し迫ったタイムリミットに気付けたのは不幸中の幸いだ。
「わっ、もう九時!? そんなに時間が経ってたなんて、全然気付かなかった……」
彼女は惚けたような顔でじっと時計を凝視している。
その横顔が可笑しくて、ついつい私も苦笑を漏らしながら相槌を打ってしまう。
「私もです。お嬢様とのお話があまりにも楽しくて、つい時間を忘れてしまいました」
執事が時間を忘れてお喋りに興じていたというのも、我ながらどうかと思うが。
「も、もう! お兄様ってば!」
うん。なんか嬉しそうだし、別に良いか。
「でもそっか……もう九時なんだ。あぁ〜、帰りたくないなぁ」
お嬢様は駄々をこねる子供のように、と言うのは失礼だが、今日見た中では一番幼い、拗ねたような表情で溜息を漏らしていた。その姿に、私は妙な既視感を覚える。
そしてその既視感が、記憶の扉をこじ開ける。
今この状況で思い出すようなことではないと頭では分かっているのに、たった一六年と少しの短い人生の中で最も深く刻まれた記憶は、あっという間に心の視界を埋め尽くしていく。
「お兄様?」
「っ!」
と、危うく自分の内側へ沈みかけたところで、カンナお嬢様の鈴の音のような声が、過去から現在へと俺の……いや、“私”の意識を引き戻してくれた。
「も、申し訳ありません! 少し、考え事を……」
「大丈夫? なんだか、すごく寂しそうな顔に見えたけど?」
普通に考えれば、仮にも執事がお嬢様のお相手中に考え事など言語道断なのだが、彼女はそんな事を気にした素振りも無く、寧ろこの場において余計な感情が表情に出てしまった私を、気遣うような言葉をかけてくれる。……まったく、私は何をやっているのだろうか。
「いえ、本当に何でも無いのです。お気遣いありがとうございます。それよりもお嬢様、お時間の方は?」
今やるべきことは、彼女が笑顔で帰れるよう、執事として、そして彼女の理想のお兄様として振舞う。それだけだ。
「あ、そうだった! もう帰らなきゃ! あの、お兄様……うんう、明希さん」
カンナ嬢はどこか不安げな眼差しを私に向け、もじもじと身をよじる。
「いかがなさいましたか? お嬢様」
私は出来る限り優しい声音を意識して、彼女の次の言葉を促した。
すると、お嬢様は何かを決意するように瞼をきつく閉じ、口を開く。
「あ、あの! 今日はいきなりお兄様とか呼んじゃって、意味分かんないとか絶対思ったはずなのに、明希さん、全然嫌そうにせず私とお話ししてくれて、すごく嬉しかった! だから、そのぉ………っ」
お嬢様はそこまで一気に捲し立てると、一呼吸置いて、じっと私の目を見つめ返しながら、再び口を開く。
「今日だけじゃなく、これからも、私のお兄様でいてくれますか?」
その潤んだ瞳と、耳をくすぐるような甘やかな声は、圧倒的な破壊力を持って私の理性を強襲した。
「っっ……」
“執事の明希”ではなく、“普段の秋宏”であれば、間違いなく絶句したまま硬直していただろう。
だが、今の私は執事で、そしてお兄様。
その意識があったお陰で、なんとか理性の手綱を握り直せた。かなりギリギリだったけど。
「……もちろん。お嬢様がこの『レイブンヴィル』にいらっしゃる限り、私は貴女の執事であり、そして、貴女だけのお兄様です」
「ほ、本当? 本当に本当!?」
彼女は私の顔に自分の顔をぐっと近づけ、先ほどまで潤んでいた瞳をキラキラさせながら早口に捲し立て……というか近い近い近いっ!?
「じゃあ、今度来たときも、また私と一緒にコーヒー飲んでくれる!?」
「え、ええ。お嬢様がお望みなら」
「やったぁ!」
あまりの勢いに私も若干笑みが引きつったが、お嬢様はそんなことお構い無しと言わんばかりに、というか恐らくまったく気付かずにキャッキャとはしゃいでいる。
「じゃあ、じゃあ! 毎週金曜日、今日と同じくらいの時間に来ても良い?」
「ま、毎週!?」
「え? ダメ?」
「はっ!? いっ、いえいえ! そのようなことは決して!」
あ、あぶねぇー!? 思わず素が出る所だった……。
だが、私の動揺は仕方がないと思うのだ。何せ、毎週顔見知りの同級生に執事姿で会うことが確定してしまったのだから。
いくら仕事とは言え、いや、仕事だからこそ、逃げ出すわけにはいかないというこの状況。 しかも私の心労を度外視すれば、これはかなり美味しい話だ。
蓮花さんとの約束通り次のお帰りの約束を頂けて、しかも「お兄様」役である私は恐らく半永久指名(だと思いたい)。
必然的に私の昇格は確定し、一人分の指名マージンを週一日分は確実に得られるわけだから、今よりも給料は上がる。故に、私の選択は一択。
笑顔で頷くだけだ。
「もちろん。喜んでお帰りをお待ちしております。因みに、どうして金曜なのですか?」
「やった! えっとね、私、今年から生徒会長になったんだけど」
「っっ!?」
マ、マジか……。まさか会長とは。
新たな衝撃の事実に目を丸くしそうになるが、私はどうにか表情筋を意思の力で締めつけ、笑顔を保つ。
お嬢様はそんな私の様子に気付かず、ぽつぽつと語り続けた。
「私ってこんな感じだから、あんまり生徒会長って感じじゃないでしょ? だから、普段は出来るだけビシッと気を引き締めて、会長らしく振る舞えるように心がけてるんだけど……その、お兄様に会っちゃうと、気が緩んじゃいそうな気がして」
「なるほど。それで、休日前の金曜日なのですね?」
私はお嬢様の言葉に頷きながら、その続きを引き取った。そして言葉には出さないが、もう一つの事柄にも納得していた。
やはり、今朝の高圧的な態度は、本来の彼女の姿ではなかったようだ。
そう思うと、学校で会長の仮面を被る彼女と、『レイブンヴィル』で執事の仮面を被る自分が、何だか少し似ているような気がして妙な親近感を覚えた。
もっとも、私と彼女では偽りの度合いに雲泥の差がある。というか、彼女は別に自分を偽っているわけではなく、生徒会長として正しくあろうと努力しているだけだ。まあ今朝の様子だと、少し空回り気味のようだが……。
それでも、理由はどうあれ変装や偽名まで使い、しかも同級生である彼女を騙してまで、学校に禁止されているアルバイトで金を稼いでいる私なんかと一緒にされたくは無いだろう。
もちろん、そんな事を口に出すつもりは無いが。
代わりに私は、この会話を、そして、彼女との時間を締め括るための言葉を口にした。
「では、私も来週を……いえ、毎週の金曜を楽しみにさせて頂きます。その為にも、今日のところは、奥様が心配される前にお嬢様をお送りさせて頂きますね」
「うん。来週も会えるもんね。えへへ」
カンナお嬢様は少し寂しそうに、それでも笑顔で、立ち上がった私に手を差し出す。
私は恭しくその手を取り、彼女をエントランスまでエスコートする。
その短い道のりの間、私も彼女も、何故か互いの手を離そうとはしなかった。




