第七章:相棒という名の武器、千切れた懐中飾り
崩落した礼拝堂の最奥、白黒の盤面が粉々へと砕け散った静寂の中で、マールは背中の巨大な二刀を床へと突き立て、倒れ伏すエルンヒルデの前へ静かに片膝をついた。可憐な少女の容貌をしたその顔から、先ほどまでの不敵な笑みは消え去り、ただ一人の高潔な戦士に対する、魂の底からの深い敬意に満ちた眼差しだけがあった。
「感謝を言うのは、わしの方だ、エルンヒルデ。貴様のその魂の輝き、そして果敢に放たれた見事な槍の冴え……どれもがこのわしを、アンドわしら一党の『意志』を限界の先へと引き上げてくれた。誇りは砕けてなどいない。貴様の誇りは、最期の瞬間まで確かにその胸の中で、これ以上ないほど美しく燃え上がっていたぞ」
マールはそっと、彼女の傷ついた冷たい手に、己の暖かな手を重ねた。
「盤面は崩れ去り、お前を縛る鎖はもう何一つない。お前は自由だ、誇り高き戦乙女よ。だからこそ……だ。ここでただ消え失せるには、貴様という戦乙女はあまりにも惜しい! そこで提案がある。エルンヒルデ、このまま天へ還る前に――守護を持たぬわしの、今度は『真の守護』として、わしに力を貸さぬか?」
「真の守護、か」
エルンヒルデはその言葉を、噛み締めるように繰り返す。
「わしは不屈の戦乙女、お前は戦女神の誇り高き神官。ならば、貴様が戦女神様の使徒として、守護の霊としてわしの背を支え、これからも共にこの世界の不条理へ挑み続ける……クッ、これほど胸が躍る『大冒険』が他にあるか! 操り人形の駒ではなく、わしの頼れる相棒として――もう一度、運命の賽をわしと一緒に振ってみないか!」
重ねられたマールの手の熱が、死者の冷たい指先へと伝わっていく。エルンヒルデの身体が、かすかに震えた。
「……まったく。敗者の胸を、ここまで躍らせるな。立ち上がりたくなるではないか」
彼女の痩せた頬に、歪ながらも穏やかな苦笑が浮かぶ。
「ふふん。マールの勧誘、なかなか熱量が高いねぇ。相手が相手だから、心に深く刺さってるねぇ」
カティアがからかうように言うと、肩の後ろから顔を出した小妖精リリエルも「エルンヒルデ、すごく嬉しそう!」と声を弾ませた。
その時、エルンヒルデの足元で、切断されていた片足がずるりと不気味に動いた。黒い血と肉の糸が、失われた脚と本体を強引に結び直していく。骨が軋む痛烈な音が静寂に響く。
「……便利な身体だろう。美しくはない。だが、立つには足りる」
痛みに顔を歪めながらも、彼女は繋がったばかりの脚で、再びしっかりと砕けた石床を踏みしめた。
「焦る必要はない、エルンヒルデ。じっくりと考えるが良い。貴様がどのような答えを選ぼうとも、わしはその選択を、全力で祝福して受け止めよう!」
マールの言葉を受け、エルンヒルデはしばらく黙り込んでいた。命令ではない。押し付けでもない。「選べ」と、己の意思で動けと言われたのだ。
「私は負けた。だが、奪われなかった。誇りも。名も。次に進む道も。ならばこの敗北は、私にとって勝利と同じくらい価値がある」
「やっぱり君、面倒だけど嫌いじゃないねぇ」
カティアが口元を和ませる。
「命令はない。盤面もない。王もいない。ならば、次の一手は私が決める」
エルンヒルデの強い決意に、胸元で涙石を抱くアルシエルが静かに頷いた。「それが、あなたの自由なのだと思います」と。
「自由、か。思ったより重いものだな」
「軽かったら、軍師様みたいなのが好き好んで他人から奪ったりしないさ」
カティアの言葉に、エルンヒルデは低く笑った。そして、彼女はマールの手を見つめ、静かに、しかし断固とした口調で告げた。
「お前の提案は、胸が躍る。いつか、その道を選ぶこともあるだろう。だが……今はまだ、この足で立っていたい」
全員が固唾をのんで息を呑む。
「この身体は美しくない。飢えもある。死の臭いも残る。だが、それでも立てる。ならば私は、この身でまだ学ぶべきだ。戦いだけではない。飢えを律すること。仲間と歩くこと。剣を抜かぬ場で己を保つこと。祈りを、戦場の外でも抱き続けること。死者となってから学ぶには、少々遅いかもしれんがな」
彼女はマールを見つめ、不敵に微笑んだ。
「焦る必要はない、と言ったな。ならば、私も急いで天へ上る答えを出すまい。使徒となる未来は、胸に預けておく。だが今は、背に宿るよりも、共に隣に立ちたい。この身体で。この痛みで。この飢えで。そして、この誇りで。お前たちと、もう少し話がしたい」
エルンヒルデは全員を見渡し、最後に静かな眼差しを向けていた精霊使いサツキへと視線を固定した。
「サツキ。お前は、私を怖いと思うか。屍の身、飢え、戦いを楽しむ心。それを抱えた者が、なお誰かの隣を歩けると思うか」
サツキは、己の心の深いところから言葉を汲み上げるように静かに、けれど力強く語り始めた。
「『怖いか』と聞かれると『分からない』かな。人は知らない物を恐れるけど、知っていけば変わっていくものだし、私は知らずに恐れるよりは知って理解したいって思うから。『誰かの隣を歩けるか』と聞かれたら、私は『歩ける』と答えるよ。『隣を歩く』って選択したのなら、きっと隣を歩く人も、それを助ける人も道を探そうとしてくれるからね」
マールが心底嬉しそうに破顔し、エルンヒルデの甲冑の肩をぽんと叩いた!
「聞いたか、エルンヒルデ! これがわしの誇る仲間、サツキの言葉だ! 屍だろうが、飢えがあろうが、お前が自分の意志で『隣を歩く』と決めたなら、その道を一緒に探す奴らがここにいる! さあ、わしらの盤上に、最高に頑固で誇り高い、新しい『相棒』を迎えようじゃないか!」
「新しい相棒」という眩しい響きに、エルンヒルデはそっと目を伏せた。その笑みは、先ほどまでの戦場で見せたものとは違い、どこか懐かしさと、胸の奥の凝りが静かにほどけていくような柔らかさを含んでいた。
「随分と……久しく聞いていない響きだ。私は、長い間……自分がもう帰る場所を失ったものだと思っていた」
彼女は、砕けた胸甲の内側へと不器用に手を差し入れた。取り出されたのは、黒く錆び、鎖のち切れた小さな金属製の飾り――古びた懐中時計の蓋であった。表面には血と泥がこびりついていたが、その蓋を開けると、中には擦り切れた二つの面影が残されていた。
幼い少女と、若い戦乙女の姿。
「……妹がいた」
その一言で、地下空間の空気が、冒険者たちの間で一変した。
「私とは違い、剣よりも帳面を好む子だった。槍よりも、整った文字を好む子だった。戦場の臭いより、焼きたてのパンとインクの匂いを好む子だった。臆病で、真面目で、融通が利かなくて。けれど、誰よりも人をよく見ていた。冒険者が無理をしていないか。怪我を隠していないか。報酬を受け取る手が震えていないか。そんなものばかり、よく気づく子だった」
「……その方は」
アルシエルが、恐る恐る、けれど確信を持って問いかける。
「名を、エルゼという」
その名がエルンヒルデの唇から零れ落ちた瞬間、カティアの顔からいつもの軽薄な笑みが完全に消え去った。ネージュが静かに瞬きをし、リリエルの羽音がピタリと止まる。後方で手帳を開いていたミリアムもハッと目を見張った。
彼らはその名を、嫌というほど知っていた。いつもギルドの受付で背筋を伸ばし、書類の不備を細かく指摘し、けれど彼らが無事に帰還するたびに、ホッとしたようにほんの少しだけ表情を緩めてくれる、あの生真面目な受付嬢。
「……エルゼ、さん」
カティアが、普段からは想像もつかないほど静かな声でその名を呼んだ。
「知っているのか」
エルンヒルデの目が大きく見開かれる。
「知っているよ。ボクたちの担当をしてくれている受付嬢さんだ。小言も言うし、心配もするし、依頼書の確認も細かい。……それから、冒険者が帰ってくると、ほんの少しだけ表情が柔らかくなる人だねぇ」
エルンヒルデの手から懐中飾りが落ちそうになり、彼女はそれを慌てて両手で強く握り締めた。死者の身体でありながら、その声は激しく動揺していた。
「生きて、いるのか。あの子は……エルゼは、まだ生きているのか」
それは戦乙女の問いではない。ただ一人、残してきた妹を想う姉の叫びだった。
「生きてる」
ネージュが短く、けれど力強く告げる。
「待ってる。いつも、帰りを」
「エルゼ、みんなが無事だとすごく嬉しそうにするよ!」
リリエルの言葉に、エルンヒルデの顔がくしゃりと歪んだ。凄まじい激痛にも敗北にも耐え抜いた彼女が、今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「……そうか。生きて、いたか。エルゼ……」
黒い血と泥に濡れた頬を、一筋の輝きが伝い落ちる。死者の身体に正しい涙など残っていなくとも、それは間違いなく、再会の喜びがもたらした命の涙であった。
「私は……あの子に、死んだと思われているだろうな」
「おそらくはね。だけど、君の名を聞いて何も感じない人ではないと思うよ」
「会いに、行かれますか」
アルシエルの優しい問いに、エルンヒルデは深く、強く頷いた。
「……ああ」




