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第五章:狂った規則、虚飾の王座

聖域の隠し部屋をあとにし、一歩外へ出れば、鼻腔を激しく突き刺す不快な腐敗臭が容赦なく戻ってきた。喉の奥を直に灼くような、ねっとりとした毒気。壁のひび割れや隙間から染み出す黒い変色。足元で鈍く光る腐敗水は、どこまでも底の知れない深淵のようだ。


けれど、先ほどまでとは決定的に違っていた。


猫人の魔術師カティアの懐には、地母神の涙石が静かにその澄んだ慈悲の輝きを湛えている。神官戦士アルシエルたちの胸には、かつてこの地で倒れた先達の強い祈りと誇りが脈動している。そして何より、誰一人として歩みを止めるつもりなど微塵もなかった。不条理な運命に抗い、己の明日を己の手で手繰り寄せる意志が、一党の五体に満ちあふれていた。


やがて続いていた不気味な黒い水溜まりも、腐った肉のような壁の染みもふいに途切れ、空間が広大な地下回廊の最奥へと行き着く。


そこは、古い礼拝堂の地下とは思えぬほど恐ろしいまでに整然としていた。


白と黒の精緻な石床。規則正しく区切られた巨大な幾何学模様の升目(チェス盤)。崩れた古代の石柱すら、まるで駒の進路や配置を妨げぬよう計算し尽くされて端へ寄せられている。


巨大な盤面。その最奥には、黒い棺をうずたかく積み上げた不気味極まりない王座が設えられていた。


整然とした狂気。それこそが、この地下深層を支配する怪物の本質であった。


王座に腰掛けるのは、一人の男。痩せた顔立ち。鋭く冷徹な眼差し。手には仕込みの施された不気味な軍配。豪皮を纏う豪傑の気配はない。怪物じみた膂力も見えない。けれど、その瞳だけで分かった。これは自ら前へ出る王ではない。兵を動かし、盤面を読み、相手の一手先を静かに潰す者。盤上のすべてを、自身の思考の延長(数値)として冷酷に扱う者だ。


大罪軍師リーボック。彼が薄い唇を開く。


「……来たか」


その声音は、冷たく、薄く、研ぎ澄まされた刃のようだった。感情の起伏を完全に削ぎ落とした、純粋な演算機構が発するような無機質な響き。


「私の罠を越え、消耗を強いる回廊すらも踏破したか。なるほど。ただの冒険者ではない。我が完璧な盤上に置く価値のある駒だ」


「開口一番で駒扱いとは、随分と礼儀正しい王様だねぇ」


カティアが鼻で笑う。肩をすくめ、手にした魔術杖の感触を確かめながら、その鋭い青い瞳はすでに敵の配置と空間の暗黒魔力の流れを見定めていた。


「礼儀とは、相手の価値を正しく見積もることだ。貴様らは雑兵ではない。よって、雑に潰すには惜しい。詰みに至る筋を、丁寧に示してやろう」


リーボックの言葉に、影の中から滑り出た昼歩く者ネージュが低く呟く。


「……喋る王」


「すっごく嫌な感じの喋り方する……!」


使徒の小妖精リリエルが、ネージュの肩の後ろで小さな羽をぶるりと震わせた。


「軍師気取りは、大体こういうものさ。自分の頭の中では、もう勝っているつもりでいるのさ」


カティアの冷ややかな指摘通り、リーボックの視線には一分の揺らぎもない。彼にとってこの戦いは、すでに解の決まった数式に過ぎないのだ。後方で手帳を抱きしめる学者ミリアムも、メガネを直しながら「恐ろしいほど無駄のない配置です……!」と息を呑む。


盤面の前列には、四体の巨大なグールが並んでいた。腐った肉。濁った目。だらりと垂れた腕。しかし、その配置は決して無秩序ではない。斜めの進路を効果的に塞ぐように。前へ出る者を不気味に誘導するように。後衛へ届く魔法のラインを覆い隠すように。それらは死者でありながら、明確な殺意と兵法をもって置かれていた。


死者すらも無機質な駒として完璧に機能させるその采配。だが、その冷徹な数式を正面から力任せに叩き割る雷鳴のごとき大音声が、盤上に轟いた!


「私たちは貴様の薄汚い盤上に大人しく並べられる駒などではない! 己の武器を手に、不条理な運命へ果敢に挑み、その手で勝利を掴み取る『冒険者』だッ!!」


可憐な少女の容貌をした鉱人の乙女マールであった!


背中に担いだ身の丈を超える巨大な二刀の柄を強く握り締め、背筋を伸ばした彼女の絶叫は、地下空間のよどんだ空気と毒気を一撃で吹き飛ばす。少女の見た目に反し、ドワーフ族特有の年配者のような渋く重厚な声には、揺るぎない誇りと怒りが宿っていた。


「貴様の青白い顔を叩き潰してやれば、それですべて終わりだ! 行くぞ、これより『王手』をかけるのは、わしらの方じゃ!!」


マールの声が、巨大な盤上に響き渡る。黒白の石床。腐った空気。死者の兵。王座に座す軍師。そのすべてを、まるで戦場の銅鑼のように震わせる名乗りだった。サツキも八重歯を覗かせ、「あたしたちの歩む道は、あたしたちが決める!」と全身の筋肉を躍動させる。


リーボックは眉一つ動かさず、ただ冷ややかな視線だけをマールへと向けた。


「王手、か。言葉は威勢がよい。だが王手とは、盤面を読める者が使ってこそ意味を持つ。ただ前へ出るだけの駒が叫ぶそれは、盤上では――」


冷酷な反論が紡がれる、その途中だった。


――こつん。


硬い音が、盤面の中央から響いた。


――こつん。再び。


それは、先ほどまでのグールたちの不気味な足音ではない。もっと整った、もっと重い音。強固な白銀の甲冑を纏う者が、一歩一歩、確実に石床を踏みしめる音だった。


四体のグールの背後。盤面の中央に立つ影が、ゆっくりと一歩前へ出る。白銀の鎧。朽ちかけた翼。死者の白さを帯びた肌。手には、槍ではなく聖なる司教杖。けれど、その姿は神官というよりも、戦場に降り立つ戦乙女そのものであった。彼女が歩くたび、腐敗した空気の中に、見えない無数の槍の気配が立ち上る。


「……今の言葉」


現れたもう一人のボス――狂乱の呪縛に苦しんでいた戦乙女エルンヒルデが、掠れた声を漏らす。


だが、マールはその威容に気圧されることなく、さらに言葉を叩きつけた!


「寝言はそこまでだ、軍師! 勘違いするな、これはゲームじゃないんだよ! 貴様が勝手に敷いたお前のルールなんぞ、わしらには一切関係ない! 盤面を読め、だと? くだらん! そんなものに付き合ってやる義理などないわ! 貴様がどれほど美しい詰みの筋とやらを描こうが、その盤面ごと、お前の小賢しい頭脳ごと、ただ力任せにぶっ壊すだけだ!」


盤面など知らぬ。敷かれた規則ごと、踏み砕いて進むのみ。


それは合理性を至上とする軍師にとっては、この上なく愚かで、無価値な「悪手」に見えたはずだ。けれど――。


「……ああ」


盤面の中央に佇む戦乙女エルンヒルデが、再び声を漏らした。その声は、明確に震えていた。


だが、それは怒りでも、冒険者への嘲りでもない。


――歓喜だった。


死者の白さを帯びた肌。朽ちた翼。冷えた鎧。けれどその瞳だけは、ひどく熱を帯びてマールを見つめている。


「盤面を読めなどと。筋を追えなどと。勝敗を数えろなどと。違う。違うのだ」


彼女は、手にした司教杖を爆発的な力で握り締めた。周囲の空気が歪み、目に見えぬ無数の槍が空間を埋め尽くすような圧倒的なプレッシャーが奔る。それは癒しの杖であり、神官の証。しかし、彼女がそこから引き出す奇跡はただひとつ、戦場を貫く絶対的な武の力だった。


「戦女神は、盤面の外から見下ろす者を愛されるのではない。盤上だろうと。泥の中だろうと。鎖の中だろうと。死地のただ中だろうと。それでも己の武器を握り、踏み出す者をこそ愛される」


「……へぇ」


カティアの目が細められる。いつもの軽口を挟むのを躊躇わせるほどの、凄絶な戦士の気配がそこにはあった。サツキも耳を立て、キリリと表情を引き締める。


「軍師よ」


「何だ」


リーボックの問いに、エルンヒルデは氷のような、しかし芯に恐ろしいほどの熱を孕んだ視線を返す。


「お前には分かるまい。勝ち筋。配置。消耗。支配。詰み。それらを積み上げた先にあるものを、私は否定しない。戦において、それらは必要なものだ。だが、それだけでは戦ではない」


死した戦乙女の頬に、歪な、しかし見事な戦士の笑みが浮かびあがった。


「理不尽に吼えること。勝ち目が薄くとも踏み込むこと。己の運命を、己の手で切り開くこと。それを愚かと呼ぶならば、私はその愚かさを愛する」


「……感情論だ」


リーボックが吐き捨てるように言う。


「ああ、そうだ」


エルンヒルデは即答した。一歩の退きも、迷いもない。


「信仰とは、時に感情だ。怒りであり、憧れであり、誇りであり、祈りであり、決して退かぬという熱だ。それを失った者に、戦女神の名は遠い」


アルシエルは、そっと自分の胸元、地母神の涙石に手を添えた。


神の慈悲を受け取ったばかりの彼女には、眼前の戦乙女の叫びが、痛いほど理解できた。彼女は、ただ一方的に救われるだけの存在になることを拒んでいる。死者として縛られようとも、最後の一瞬まで己の戦いを、己の意志で全うしたいのだ。


「感情論だと? 笑わせるな、軍師! これこそが我が戦女神様の、そして戦場を生きる戦士たちの『真実』よ!」


マールが凄まじい咆哮をあげる!


「よう言った、ワルキューレ! 死してなおその瞳の熱を失わず、女神様の愛した“愚かさ”を忘れていなかったこと、このマール、心底嬉しく思うぞ! 理不尽に吼え、勝ち目が薄くとも踏み込み、己の運命を己の手で手繰り寄せる……! そうだ、それこそが、安全な高みから駒を動かすだけの奴らには一生理解できん、私たちの『最高の武器』だ!!」


マールの二刀の先端が、王座のリーボックを真っ直ぐに指し示す。


「リーボック、お前の完璧な盤面とやらは、今この瞬間に内側から崩壊したぞ。ワルキューレ! 貴様が死損ないの操り人形で終わるか、それとも誇り高き戦乙女として立ち塞がるか、その答えは貴様自身の手で示せ!」


マールの力強い言葉に、エルンヒルデは目を見開く。その奥に燃えるものだけは、確かに生者の熱であった。


「……は」


掠れた吐息が、やがて明確な乾いた笑いへと変わっていく。


「はは……。ああ、そうだ。そうでなくてはならない。私の運命は、私が決める。たとえこの身が死者に堕ちようと。たとえ飢えが骨を軋ませようと。たとえ軍師の盤上に縛られようと。最後の一瞬まで、私のものだ」


「……くだらん」


リーボックの声音が、一層冷徹に、そして残酷に響く。


「死者が自由を語るか。操られた肉体が意思を語るか。盤上に置かれた駒が、己の意思を持つなどと。滑稽だな」


「そうだろうな」


エルンヒルデは、もはやリーボックを見ようともしなかった。その視線はただ真っ直ぐに、マールへ、そして彼女の背後に立つ冒険者たちへと向けられていた。


「滑稽で結構。愚かで結構。理に合わずとも構わん。我らが女神は、その愚かさを愛される」


「……これはまた、随分と熱い死人だねぇ」とカティア。


「死んでる。でも、燃えてる」とネージュ。


「なんだか、すごく泣きそうなのに、すごく笑ってるみたい……」


リリエルが小さく呟き、アルシエルが「はい」と静かに同意した。


あの戦乙女は終わりを望んでいる。だがそれは、決して絶望の果ての自暴自棄ではない。戦女神へ捧げるに足る、最高の戦いとしての終わり。


「あの方は、奪われきっていません」


アルシエルが涙石を強く握り締める。


「たとえ身体を縛られていても。たとえ死者として立たされていても。最後に何を選ぶかだけは、まだご自身の中に残している」


「地母神の使徒よ。慈悲に感謝する」


エルンヒルデの視線が、一瞬だけアルシエルを射抜いた。


「だが、今はまだ癒すな。まだ眠らせるな。まだ哀れむな。まずは力を見せろ。私を討つ力を。この軍師の盤面を砕く力を。そして、死者に堕ちた戦乙女の魂を、もう一度揺り動かすだけの力を!」


彼女が司教杖を掲げると、不可視の槍が冷たい空気を激しく震わせた。それは、正真正銘の最終決戦の幕開けを告げる審判の合図だった。


「なるほどねぇ。救うにも、仲間にするにも、まずは殴り合いで証明しろってことかい」


カティアがニヤリと笑い、極大呪文の構築を開始する。サツキも鋭く地を踏み締め、ネージュも聖鞭を構えた。


「そうだ。私は弱き者に終わりを預けぬ。半端な慈悲にも、半端な刃にも、私の魂は渡さぬ。勝て。まずは、私に勝て!」


運命の賽は、すでに一党の手の中にあった。狂った規則を敷く大罪軍師の盤面を叩き潰し、戦乙女を連れ戻すため、手練れの一党は不屈の凱歌を胸に、最終盤上の死闘へと躍り出るのであった!

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