第四章:壁画の聖域と地母神の涙石
第二の盤面を越えた先。
かつて近衛騎士たちの石像が厳かに並んでいたであろう長い廊下は、やがて崩れかけた細く不気味な地下回廊へと変わっていった。白黒の幾何学的な石床はぷつりと途切れ、足元には砕け散った石材と、異臭を放ちながら黒く濁った毒水の水溜まりが広がっている。
だが、そのぬめりけのある壁面には、古代の色彩を僅かに残した古い壁画が残されていた。
背に美しく優美な翼を持つ女性。両手で大きな水壺を抱え、渇きに苦しむ人々へと清らかな水を与える神聖なる姿――。
「……地母神様の壁画です」
神官戦士アルシエルがそっと足を止め、その壁画を慈しみと痛ましさが混ざり合った眼差しで見上げた。
けれど、その聖なる絵の大半は、無残にも黒い腐敗の染みに覆い尽くされていた。水を受け取ろうと手を伸ばす人々の顔は悪意によって潰され、壺から流れるはずの清らかな水は、どろりとした黒い腐敗の筋に変えられている。壁のひび割れからは、ぬるい毒気が絶え間なく漏れ出していた。
「ちょいとばかし趣味が悪すぎるねぇ。ボクでも落ち着いた後に手直ししてあげたくなっちゃうや」
猫人の魔術師カティアが、不快そうに猫耳を伏せて顔をしかめる。
天井からは、ぽたり、ぽたりと腐った水が不気味な音を立てて滴り、その音に混じって、どこからか低く、掠れた、死んだ肺が無理やり息をしているかのような生々しい異音が漏れていた。
「……進みましょう。ここにも、まだ何かが残されています」
アルシエルの言葉に、全員が慎重に歩みを進める。天井から吊るされた膨れた死体袋、壁の隠し毒針、底の見えない腐敗水を避けながら進むうち、回廊の半ばでサツキとカティアがぴんと耳を立てて足を止めた。
「壁画の流水の下、ここだけ白い? 腐敗に抵抗できてる何かがあるのかな?」
サツキが指差した場所――黒い染みに覆われた壁画の中で、一か所だけ、妙に乾いて白い石肌を残している部分があった。翼を持つ女性が抱いた壺の先である。
「全てが黒く汚れたこの回廊で、そこだけが白いままだと? かつてここが地母神の礼拝堂だった頃の、清らかな加護がまだ残っているのか。あるいは、この嫌な腐敗に対抗できる『何か』が仕込まれているのかもしれん」
身の丈を超える二振りの大剣を背負った鉱人の乙女マールが、渋い年配者のごとき手つきで顎をさする。
「いずれにせよ確認するべきだろうねぇ。或いは誰かが、もしくは何かが助力を待っているのかもしれない。アルシエルさんや、君なら何か感じたりしないかい? 多少の違和感程度でも構わないのだけども」
カティアに促され、アルシエルがその白い石肌にそっと指先を触れさせた。
「はい……はっきりと伝わります。間違いなく、地母神様由来の清らかな気配があります」
「なら、ボクとアルシエルさんの二人で調べてみるのも有りかな。仮に罠でも、いざとなれば『跳躍』で一息に逃れる事もできるからね」
二人が慎重に近づくと、その壁画の前だけ、ほんの僅かに空間の圧迫感が薄れ、空気が軽いことに気づいた。地下の奥深くから、かすかに清らかな清水の気配が漏れ出しているのだ。
アルシエルが指先で水の絵を丁寧になぞると、ぱらり、と黒い腐敗の表面が剥がれ落ち、深い森の朝に似た、澄んだ空気が吹き抜けた。
「向こう側に開けた場所があるね。何かが湧き出る音もする、ガスやらが弾けるものじゃぁないね。森の奥で天然の浄水器で綺麗に濾過された湧き水、それと同じ音だ」
サツキが鋭い耳を傾けて確信する。
「こっちに少し流し込めれば、ここの空気もよくなるかな? 折角の壁画を傷つけちゃうのもイヤだし、トンネルの魔法で行けそうなら一時的に壁を開いてみるね」
サツキが周囲の精霊たちへ優しく語りかける。一度目は濃厚な毒気に阻まれて失敗に終わったが、「も、もう一回やるね~!」と諦めずに紡いだ二度目の精霊術が見事に大成功を収め、固い石壁に小さな抜け道が開かれた!
「まあまあ、こんな毒気に塗れた場所じゃぁ精霊さん方にだって乗り気になってもらえないでしょうや」
カティアがクスクスと笑う。
開かれた抜け道の向こうには、腐敗毒から完全に隔離された、美しく小さな隠し部屋が存在していた。
中央には、両手で壺を抱いた翼を持つ女性の石像。そこから滔々と流れる水は小さな清らかな泉を作り、暗闇の中で淡く澄んだ金色の光を放っている。
「……地母神様」
アルシエルは自然と膝をつき、胸元で深く祈りを捧げた。
「まだ、守られていました。こんなにも外側が穢されて。こんなにも、長い時間を越えて。それでも、ここだけは……」
「水、光ってる」
「きれい……! さっきの不気味な黒い水と全然違う!」
昼歩く者のネージュと妖精のリリエルが、その清らかな輝きに目を輝かせる。後方の学者ミリアムも「凄いです……強力な結界術式が、何百年もの間この湧き水を守り続けていたのですね!」と感極まった声をあげた。
泉のそばには、古びた石箱がひっそりと置かれていた。蓋には古い神聖文字で、こう刻まれている。
『盤上に迷う者へ。なお歩む者へ。水と慈悲をここに置く。』
カティアがその文字を静かに読み上げ、青い目を細めた。その声音にはいつもの皮肉めいた調子があったが、どこか柔らかい響きが混じっている。
「……盤上に迷う者へ、ね。随分と洒落た置き土産じゃないか。ここまで来る誰かがいると信じていたのか、あるいは来てしまう誰かを哀れんだのか」
「……きっと、どちらもだと思います」
アルシエルが静かに水面を見つめ、自身の胸に手を当てた。
マールが深く感銘を受けたように、背中の巨剣の柄に太い手を置く。
「これほどの穢れの中にありながら、なおこれほど清烈な加護を残し続けていたとは。戦女神の信徒としても、この地母神様の慈悲には深く敬意を表さねばならんな。『盤上に迷う者へ、なお歩む者へ』か……」
「遺してもらった希望と慈悲に応えて、ここもまた昔みたいに礼拝に人が訪れる場所に復元してあげたいね」
サツキが優しく微笑む。
「全くだな! この場所を奴らの汚い手から綺麗に奪い返してやろうではないか! アルシエル、ネージュ、カティア! 目指すべき結末は決まったな!」
マールの威勢の良い言葉に、カティアも力強く頷く。
「ふむ。死者を駒にして遊ぶ盤面よりは、よっぽど健全で良い願いだねぇ。まあ、そのためにはまず、奥でふんぞり返ってる王様気取りを盤上から引きずり下ろす必要があるわけだけど」
「ん。王、倒す」
「そしてここを綺麗にする!」
ネージュとリリエルが言葉を繋ぐ。
「ええ、そうですね。マールさん、サツキさん。戦女神は、困難に『挑む者』を愛される……というお話は存じておられますか?」
アルシエルの問いに、マールが誇らしく胸を張った!
「ぬはは! 我らが戦女神様はな、安逸に甘んじる者を好まぬ! どれほど分が悪かろうが、どれほど無謀に見えようが、己の牙を研ぎ澄まし、不条理な運命へ果敢に立ち向かう『挑む者の魂』を最も愛し、その背を押されるのだ! 元はしがない一人の剣奴に過ぎんかった御方が、己の武器を手に困難へ挑み、大冒険の果てに神の座へと上り詰めた。だからこそ、剣に限らず、鍬でも学問でも、己の武器を手に困難へ挑んでいく者の魂を愛されるのだ!」
「『挑戦や困難に打ち勝つものに加護を!』っていうフレーズが素敵ですよね。私は信徒じゃないですけど、色んな事にチャレンジする後押しになりそうで勇気がもらえる気がします!」
サツキが八重歯を覗かせて目を輝かせる。
「……己の武器を手に」
アルシエルはそっと、自分の首元にある鉄の首輪、そこから垂れる切られた冷たい鎖に触れた。それはかつて彼女が物として扱われていた、忌まわしき奴隷の証。
「そうですね。剣でなくとも。槍でなくとも。誰かのために祈ることも、前へ進むための武器になり得るのですね」
カティアがその鎖を見つめ、真面目な声で語りかけた。
「剣や槍だけが武器じゃないさね。魔法だけが切り札じゃない。祈りだって、目だって、知恵だって、誰かの背を押す言葉だって、立派な武器になる。そう考えるなら、ここにいる全員、ちゃんと最強の得物を持ってるってわけだ」
「ん。アルシエルの祈り、武器。サツキの感覚も、武器」とネージュ。
「マールの大きい声も武器! あと大きな二本の剣も武器!」とリリエルが笑う。
「がはは! 我らが女神様が仰る『己の武器』とはな、運命に抗うための知恵、窮地で真実を見抜く目、そして何より……誰かのために、明日を掴むために一歩前へ踏み出そうとする『意志』そのものじゃ! 誰もが己の最高の得物を握りしめている。ならば、私たちのダイス目が腐るはずがなかろう!」
マールの力強い叫びが、聖域の静寂を心地よく震わせる。
「んー、私も『意志』になっちゃうかな。武器は何のために使う物かって考えると『生き残るための道具』かなって思うから。『生き残る意志』があってこそ武器は武器になるんじゃないかなって。後は何を『武器』にするかはその人次第」
サツキの深みのある言葉を、アルシエルは自身の過去の傷跡を見つめながら静かに繰り返した。
「……生き残る意志。わたしは……この首輪を、武器だと思ったことはありませんでした。これは、わたしが一度、物のように扱われた証です。けれど……サツキさんの仰る通りなのだと思います。これが私を縛るだけのものなら、ただの鎖です。ですが、これを身につけてなお歩くと私が決めたのなら。この痛みを忘れず、同じように誰かが物として扱われることを許さないと決めたのなら……それはきっと、私の祈りを支えるものになります」
「……なるほどねぇ」
カティアが深く息を吐く。
「傷跡を消せないなら、使い道を自分で決める。過去を無かったことにできないなら、そこから先の意味を自分で選ぶ。まったく、神官様方の言葉は、たまに猫の毛並みより手触りが良いねぇ」
「カティアさん、褒めてます?」
「もちろん褒めてるとも。ボクなりにね。あと、アルシエルさんはとんでもなく酒に強そうなところかな」
「カティアさん……?」
アルシエルがジト目を向けると、カティアは「おっと、怒られる前に戻そうか」と肩をすくめてお茶目にごまかした。
重く沈みかけた空気が和らぐ。一同は再び聖なる石箱へと向き直った。
カティアが手で蓋を開けると、中には六つの小さな白い石が静かに納められていた。雫の形をした半透明の美しい石。その奥深くで、淡い金色の奇跡の光が揺れている。
「これは……地母神の涙石」
アルシエルが息を呑む。
それは外敵からの凶悪な呪文攻撃を一度だけ自動で完全に無効化し、引き換えに砕け散るという、先達の深い慈悲が込められた守りの奇跡の石であった。
「実にありがたいねぇ。ただまあ、こういうものが用意されているということは……この先で恐ろしい呪文を撃ってくる邪悪な相手がいる、と考えるのが自然かな」
カティアの言葉に、全員の表情が引き締まる。先達たちが遺してくれたこの強い意志と慈悲を、無駄にするわけにはいかない。
「なら、配分は簡単だ。六個ある。こちらも六人。一人一つずつ持つのが一番無難だろうねぇ」
カティアの提案で、涙石は全員の手へと手渡された。リリエルの分は、ネージュが大切に預かることになった。
「リリエル、落とさないよ! たぶん!」
「その『たぶん』が一番怖いんだよぅ!」
「『一度だけでも、誰かが倒れずに済むように』か……。ふん、かつての先達どもの、どこまでも優しく、そして途轍もなく強固な意志を感じるな。全員に行き渡ったな。リリエル、お前もネージュの側を離れるなよ」
マールが背中の巨剣を叩いて声をあげる。
「優しいだけじゃ、ここまで残らない。強いだけでも、たぶんこういう形にならないさね」
カティアが静かに呟いた。
「先達たちの優しい祈り、しかと受け取ったぞ! この石の輝きが消えぬうちに、奥で待つ邪悪な術者どもを盤上ごと叩き潰しに行くぞ! 出発じゃ!」
マールの豪快な号令が聖域に響き渡る。
「ああ、行こうか。王様気取りがどんな手を用意しているか知らんが、こっちも随分と良い手札を貰ったさね」
カティアが不敵に微笑む。
「王、倒す。死者、眠らせる。ここ、綺麗にする」
「みんなで帰る!」
「はい、皆で帰りましょう。サツキさんも、ね?」
「だね!」
確固たる絆と、新たなる守りの力を胸に、一党は再び腐敗の満ちる暗黒の回廊へと足を踏み出した。一歩外へ出れば、再び喉を焼くような不快な毒気と悪臭が戻ってくる。しかし、彼女たちの瞳から迷いは完全に消え去っていた。
腐敗の盤上を壊し、誇り高き戦乙女を連れ戻すための死闘へ向けて――手練れの一党は、ついに狂った軍師の待つ最終決戦の地へと躍り出るのであった!




