第二章:第一の盤面と炎の洗礼
廃礼拝堂の暗く湿った地下へと続く長い石段を降りるにつれ、周囲の空気は粘り気のある重厚な腐敗毒へと変貌していった。鼻腔を擦り抜け、喉の奥をちりちりと灼くような不快な悪臭が皮膚へと這い寄ってくる。
しかし、幾多の死線を越えて「紅玉等級」にまでその名を轟かせた冒険者一党の強靭な肉体と精神は、これしきの毒気には一歩たりとも屈しない。
猫人の武道家サツキや魔術師カティアは野生の強靭な生命力で肺腑を守り、マールの誇り高きドワーフ特有の頑強な肉体、そして神官戦士アルシエルと昼歩く者ネージュの神聖なる加護が、空間に満ちる濁った悪意を完全に撥ね退けていく。誰一人として足取りを乱すことなく、最奥に広がる冷たい石床へと力強く踏み込んだ。
だが――その先に広がっていた巨大な地下広場を目にした瞬間、一同は息を呑んだ。
広大な地下空間の床には、白と黒の石材が隙間なく交互に敷き詰められ、まるで巨大な「チェスの盤面」のように完璧な規則性をもって設えられていたのだ。崩れた古代の石柱すらも駒の動きを邪魔せぬよう計算されて端へ寄せられている。そして、その異様な盤面の上で一党を待ち受けていたのは、不気味な気配と不可視の防壁を纏った不死者の群れであった。
「――っ! みんな、気をつけて!」
サツキが耳をピンと立て、鋭い警戒の叫び声をあげる!
カティアが知力を集中させて瞬時に周囲の構造と状況を掴もうとしたが、足元の白黒の石畳に仕掛けられた精緻な魔術罠の気配に一瞬だけ思考を割かれ、判断の機先を削がれてしまう。完全に行動の機先を制されてしまったのだ。
前衛に立つアルシエルやネージュ、そしてマールも、盤面全体を覆う歪な高階位魔力の圧迫感に惑わされ、僅かに身構えるのが遅れてしまった。
敵はその絶好の隙を見逃さなかった。
「グォオオオ……!」
盤面の前列に配置された歩兵たる腐肉ども、そして重厚な黒鉄の鎧を纏った盗賊騎士が、まるで何者かに統制された恐ろしい連携で一斉に襲いかかってきたのだ!
不可視の魔導防壁に守られた不死者たちの爪と刃が、一党の防備の薄い一瞬を正確無比に切り裂く!
「くっ……!」
「うおっ、この死損ないどもめ!」
初撃の奇襲を受け、カティア、アルシエル、サツキ、マール、そして影に潜んでいたネージュまでもが激しい猛攻をその身に受ける。鋭い痛みが走るが、誰一人として退く気配など微塵も見せない。
「床に何かが仕込まれているとして、それを焼き払うつもりがこうなるとはねぇ……! だけど、ボクの番だ!」
カティアの青い瞳に、凄絶な魔力の火花が宿る! 初撃で受けた傷の激痛と怒りをそのまま洗練された高速詠唱へと変え、手にした極上の魔術杖を真っ直ぐ突き出した。
「《カリブンクルス(火石)》……《クレスクント(成長)》……《ヤクタ(投射)》……灰すら残さず燃え上がりなさい――《ファイアボール(火球)》!」
ズドォォォォンッ!!
爆音と共に放たれた巨大な火炎球が、チェス盤の敵陣中央へと鋭く着弾した! 凄まじい熱波が三度にわたって波状攻撃のごとく爆ぜ、グールどもの腐肉を灼き尽くし、盗賊騎士の分厚い鎧を真っ赤に熱狂させる!
「ちょっとビックリしたけど、楽にやっつけられるようになったから結果オーライだね!」
サツキが炎と爆風の隙間を縫うように、しなやかな体躯で鋭く地を蹴った!
仕込み杖を鮮やかに操り、雷撃のごとき超速で刺突を連殺! カティアの火球で炙られ、防御の薄れた不死者の核を的確に穿ち、その不吉な生命の灯火を瞬く間に消し飛ばしていく!
「ぬははは! よくやった、次はわしの番じゃぁぁっ!」
二刀流の怪力鉱人乙女マールが、華奢な少女の容姿からは想像もつかない怒号を上げ、背中の身の丈を超える巨大な二振りの両手剣を引き抜いた!
ドワーフ特有の誇りと脈動する超絶的な筋力を全身にたぎらせ、炎に包まれながらも執念深く武器を構え直す盗賊騎士たちをまとめて視界に捉える。
熟練の極致へと至ったドワーフ秘伝の「大剣薙ぎ払い」が、重厚な空気の壁を激しく引き裂いた!
ドゴォオオンっっ!!
肉と骨が同時に叩き潰される重苦しい衝撃音が地下空間に激響する!
マールの圧倒的な腕力から繰り出された一撃は、強固な黒鉄の鎧ごと盗賊騎士たちの肉体をまとめて粉砕し、盤面の上にバラバラの骸として叩き伏せた!
切り裂かれ、粉砕された不死者たちの傷口から、どろりと溢れ出たのは赤黒い生き血ではなく、異臭を放つ「不気味な黒い液体」であった。
「黒い液体……? なんだかすっごい危険な気配がするね……何だか分からないけど、コレが蔓延してるかもしれないし、できれば早めに解決した方がよさそうだね」
サツキが猫耳をぴくつかせ、八重歯を噛み締めながら眉をひそめる。
「まあ、徒に近寄るのはちょいとおっかないねぇ。なるべく触れない様に、先へ向かうとしましょうか。と、その前にちょいと下がってから手当てをさせてもらいましょう。初手の遅れはボクの責任でもあるからねぇ」
カティアは自身の豊かな知識と魔導の造詣を総動員し、その不吉な黒い液体の危険性を慎重に見極めつつ、懐から手早く薬草と軟膏を取り出した。
「まずはネージュ、じっとしておくれ」
カティアの熟練の手際よい応急手当により、ネージュの薄い傷口は瞬く間に塞がった。続いてアルシエル、サツキ、そしてマールの傷口にも次々と効き目の高い軟膏を塗布していく。一瞬、薬効の調合の加減に冷や汗をかく場面もあったが、持ち前の器用さで大成功を収め、全員の深い手負いを完全な状態まで速やかに引き戻してみせた。
小柄な妖精リリエルも「カティアすごーい! みんな傷が治ったよ!」と応援の光を振りまく。
「チェスを模した盤面に、不可視のバリアを張ったアンデッド……。ただのアンデッドが自然発生した事件じゃなさそうだね……」
サツキが周囲の崩れた石柱や白黒の床を見渡しながら、ポツリと呟いた。
「グールがポーンだとしたら、騎士の風貌をした個体はまさしくそのままナイト。と、さてさて、お次は何が待ち受けているのやら」
カティアが冷ややかに口角を上げる。
マールが太い拳を握り締め、背中の巨剣を担ぎ直して床のチェス盤を強く睨みつけた。
「チェスの盤面に、バリアだと? サツキの言う通りじゃ。ただの死損ないどもが、そんな小器用で悪趣味な真似を企てられるはずがないわい。かつての神聖な礼拝堂を穢し、こんな盤面を作り上げて高括りしておる『胸クソの悪い黒幕』が、この奥に潜んでいるということじゃな」
崩れた不死者の残骸、焼け焦げた石床。その上に浮かび上がっていた幾何学的な魔導防壁は、野生の死者が本能で纏う種類のものでは断じてなかった。何者かがこの地下の死者たちを意思を持たぬ「使い捨ての駒」として並べ、この惨酷なゲームを楽しんでいるのだ。
後方で手帳を固く抱きしめる学者ミリアムも「はい……! 制御術式の波形から見ても、上級の魔術師……あるいは軍事理論に精通した者の干渉が感じられます!」と真剣な表情で頷いた。
「ええ……。これは、ただ死者が迷い出ただけのものではないと思います」
神官戦士アルシエルの静かな声が、聖なる怒りで僅かに震えていた。
「神聖なる祈りの場を、血生臭い遊戯盤のように変えている。そして死者を、感情なき駒として扱っている。……断じて、許しがたいことです」
「それならせめても盤面を蹴散らし、奴のくだらない遊びの場を白けさせてやるとしましょうや」
カティアの不敵な言葉に、マールが力強く頷く。
「ぬは! 盤面ごとすべて力任せに叩き割って進みたいところだが……ここは慎重に行くぞ。相手の手札と意図がまだ見えんからな。わしらの絆を見せてやろうぞ!」
手練れの一党は互いに視線を交わし、不吉な黒い液体の痕跡を避けながら、チェス盤のさらに奥――歪んだ支配者が待つ暗黒の深淵へと、警戒を密にしながら足を踏み進めるのであった。




