801号室の花子さん(後編)
管理人室で801号室には誰も住んでいないという事実を知って以来、正体の分からない花子さんのことがなんだか怖くなってしまい、手紙を書くのを止めてしまった。
総会の日に見た彼女は一体誰なのだろうか。
801号室に投函した手紙の返事が毎回必ず返ってくるということは、彼女はあの部屋の中に住んでいると考えるのが妥当だろうが、管理人が合鍵を使って実際に部屋の中を確認したところ、部屋の中には誰もいなかった。
人が住んでいる形跡もなく、空き室ということでもちろん電気水道も通っていない。
「花子さんなんて住民聞いたこともないなぁ。吉岡さんの勘違いとかじゃないんかね?それか、もしかしたら…………ねぇ?ここって有名な幽霊マンションだから」
皮肉の混じった管理人の言葉に全身の鳥肌が立った。
彼女を初めて目にしたあの日の総会のことをよくよく思い返してみると、僕が一目惚れしたはずの彼女の容姿に関する記憶がひどく朧気というか希薄というか、ある種のフィルターがかかり、美化されて映っていたような気がしてくる。
綺麗な色白な肌……というよりは、血の気がないくらい病的な青白さ。
すらっと細い身体……ではなく、肉がほとんど残っていないくらいに骨ばっていて。
ぱっちりとした大きな瞳……どころか、爬虫類を思わせる温度のない無機質な眼差しで。
一目惚れという淡い恋心なんてものはその者を惑わせるただの幻想で、これまで感じたことのない強い恐怖感を前に、その幻想は脆く崩れ去ってしまった。
魔法が解けてしまった後の彼女の姿はもはや別人だった。
もう筆を取る気にはなれなかった。
ソファに座り、つい先日届いた花子さんからの手紙を改めて眺めると、それは女の子らしい可愛い丸みを帯びた文字で書き綴られている。
やはりここ天野国レジデンスは噂通りの幽霊マンションのようだ。
そういえば、1ヶ月くらい前の月曜日の朝、サラリーマンがこのマンションの高層階から飛び降り自殺をしたらしい。
その日は、というかほぼ毎日昼まで寝ている僕は全く気付かなかった。
そして2週間ほど前、ここのちょうど上の階である503号室に住んでいた女性が、マンションのエントランス付近で男に刺し殺された。
こちらはニュースにも報じられ、僕も夕方のニュース番組で観た。
心霊系の元動画配信者で、自ら配信動画がヤラセだったことを告白して炎上、住所と名前を特定された挙句、怒りを募らせたリスナーに殺されてしまったというなんとも自業自得な事件。
これらの事件が心霊と関係あるかどうかは別として、このマンションが負の感情を引き寄せているのは間違いないだろう。
僕の身にも何か不幸なことが起きる……というのは考えすぎだろうか。
鬱々とした想像は突如室内に鳴り響く、インターホンの高い音で遮られる。
こんな深夜の時間帯に一体誰が何の用だというのか。
数秒の暇もなく2回目のインターホンが立て続けに鳴らされる。
3回、4回、5回……………………。
テレビを消し、呼吸を殺して居留守を決めこんでいると、インターホンの雨は鳴り止んだ。
その代わりとでも言いたげに、ポストに何かが投函される。
謎の訪問者が立ち去るまで数分ほどじっと待ってからドアポストの中を確認し、身体が凍り付いた。
それは淡いピンクの手紙封筒、花子さんからの手紙だ。
『吉岡さんへ。
以前の手紙の返事が頂けないまま1週間以上が立ちました。
どうにも待ち遠しくて仕方がなかったので、こちらから改めてお手紙をお送りすることにしました。
こうして文通をするようになってから数か月が経ち、文字だけでのやりとりでは満足できないほど私の吉岡さんへの感情が膨れ上がっております。
次回私が吉岡さんのお部屋へ訪問したときは、挨拶程度で構いませんので扉から顔だけでも出して直接お話できないでしょうか。
吉岡さんのことを間近で見たくてたまりません。
あなたにも是非私の御姿を今一度見てほしいです。
花子より』
それから彼女が再び訪問してきたのは三日後の深夜だった。
繰り返し連打されるインターホン。
居留守を決めこんでいるとまた手紙がドアポストに投函されてくる。
手紙の返事は書かなかったが、彼女の訪問が止むことはなかった。
あれから数日おき、昼夜問わず繰り返される彼女の訪問と手紙。
手紙の内容は徐々に苛烈なものへと変わっていった。
それは恋慕から執着への変貌でしかなく。
好意という拒絶しがたい感情が黒い衣を纏って僕の心の領域内を侵しにきていることに僕は言いようのない嫌悪感を覚えた。
『吉岡さんへ。
なぜ居留守をしているの?
なぜ扉を開けてくれないの?
私はこんなにあなたのことを想っているのに。
あの日私に微笑みかけてくれたのは噓だったの?それともただの遊び?
そんなの絶対に許さないから。
それとも直接顔を合わせるのが恥ずかしいだけなのかしら。
もしかしてけっこう照れ屋さん?
明日から毎日訪問しにきますのでよろしくお願いします。
花子より』
彼女は毎日訪問してくるようになった。
インターホンを連打し、扉を引っ掻き、殴打し、蹴り、もはや獣としか思えない行為の数々を繰り返して。
扉が軋む振動が部屋中に伝わるたびにいつ壊れてしまうんじゃないかという不安が波のように押し寄せ、感情一帯を支配した恐怖が精神を摩耗させていく。
また、最近になって上階の503号室から再び足音が響き始めるようになった。
それもまた、毎日深夜の2時。
前居住者の女性が最近殺害されて以来、503号室は空き室だったはずだ。
新しい入居者が入ったのだろうか。
前居住者だった女性にも言えることだが、足音には十分に注意してほしいものだ。
とはいえ、日々蓄積されていく精神的疲労のせいで、洗濯棒で天井を突っつくなど抗議的な行為を起こす気力はなく、耳を塞いでやり過ごした。
そんな地獄の日々が1週間ほど続いたある日の深夜、再びインターホンが鳴らされた。
部屋の中に響くピンポーンという高い音だけで肩がビクッと震え、額からじっとりと脂汗が流れ始める。
――――しかし、恐る恐る扉カメラを確認してみると段ボールの箱を抱えた宅急便屋だった。
……最近なにかアマゾンでなにか注文したっけな。
半信半疑のまま、とはいえ久しぶりに生きた人間と接触できることに内心ホッとして扉を開けたのだが――――
扉を開けた瞬間に枝のように骨ばった青白い腕が伸び、扉ノブを掴む僕の右手を引っ掴んできた。
ヒッ、と喉の奥から漏れ出る小さな悲鳴。
骨ばった腕とは思えない強烈な握力で、マニキュアなのか血のように真っ赤で鋭い爪が腕に食い込んでいく。
幸い扉にはチェーンをかけていたおかげで扉が開ききることはなく、受取サイン用に手にしていたボールペンを彼女の腕に突き立ててやると、掴んでいた僕の右腕からようやく離し、スッと扉の隙間から抜けていった。
扉の隙間から垣間見える白のワンピースと長い黒髪。
急いで扉を閉めて鍵をかけた。
彼女に掴まれていた右腕は赤くなっていて、爪が食い込んでいた部分からは血が滲んでいる。
右腕にタオルを巻くと、白い布地にじんわりと赤い染みが広がっていった。
この日以来、僕は部屋の扉を開けることができなくなってしまった。
配達員、光通信の営業マン、宗教の勧誘……、この部屋にやってくる誰もが信じられない。
あの女が再び姿を変えてやってきたのではないかと、日々強まっていく猜疑心。
それに反比例して衰弱していく精神と身体。
部屋にあった食料は1週間も保たずに尽きた。
水道水で飢えを凌ごうとしたが2日も経つと意識が朦朧とし、立ち上がることすらままならなくなった。
部屋のゴミ箱に溢れかえる冷食やカップ麺の空き容器の山。
ネットスーパーで食料品を注文しようかと迷ったが、注文したところでこの部屋にやってきた配送員が本物の配送員であるという保証はどこにもないので扉を開けることはできない。
部屋の前に置き配してもらうのも一つの手だが、彼女がずっと扉越しの向こうで僕が再び扉を開けるのを今か今かと待ち構えているかもしれないと思うと、とてもじゃないが一瞬でも扉を開けることなどできなかった。
青白い肌色、骨ばった両足、爬虫類のような無機質な瞳。
人の形を模した怪物と対面する恐怖よりも、この閉ざされた牢獄で緩やかに死に向かっていく絶望を僕は選んだ。




