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801号室の花子さん(前編)

 多くの人間が寝静まるであろう深夜の時間帯に机に向かい、夢中で筆を走らせる。


 テレビもつけていないこの部屋で唯一音を発するのは、便箋を書き綴る筆の音のみ。


 幽霊マンションと名高いここ天野国レジデンスの夜は、都内駅近の物件であることを忘れさせるほど静謐で不気味だ。


 無音と暗闇が広がる空間のどこかで怨霊が蠢き、照明にぽつんと照らされている僕にいつ襲いかかろうかと舌なめずりをしているかもしれないなんて被害妄想が時折首をもたげる。


 しかし、そんな胸に小さく燻る不穏を軽く吹き飛ばしてしまうほど、僕は恋文を書くことに集中している。

 令和の今では絶滅に等しいであろう文通と呼ばれるものだ。


 パソコンで作成した方が楽だって意見もあるだろうが、コンピューターが書いた文字は画一的で機械的だから僕は嫌いだ。

 手書きの方が気持ちや感情が乗るし、その人の個性が文字の形となって表れる。


 僕は手紙を通して彼女のことをもっと知りたいし、僕のことももっと知ってほしい。


 だからこれまでもずっと手書きで書いてきたし、これからも手書きで書き続けるだろう。


 そんな彼女と出逢ったのは、マンションの規約変更を巡る臨時総会が集会室で開催された時だった。

 30人以上が集った集会室の中で背景に溶け込んでいるのかと思ってしまうくらい影の薄い女性がいた。


 長い黒髪に白のワンピース姿という、清純を絵にかいたような女性だった。

 影が薄いというか、色素が薄いというか、病人のように色白で身体が細く、どこか儚さを感じるような雰囲気を纏っていた。


 総会での話し合いの最中も僕は討論そっちのけで彼女へと視線が釘付けになっていた。


 肝心の規約変更の内容は何だったかというと、毎週金曜日の夜、マンションの廊下や階段、共用玄関等に魔除けとして塩撒きをするという仕事を、今後各住民が1週間交代の持ち回りでこなしていくという内容。


 負担を嫌った一部の住民が反発していたことをよく覚えている。

 土日が一生来ない俺にこれ以上仕事をさせる気かとかって喚き散らしている頭のおかしいサラリーマンもいて、集会室内は一時騒然としていたっけ。


 そのリーマン男は、その後もマンション外のどの建物の扉を開いても金曜の夜の次は月曜日の朝に繋がっているとか、ワケの分からないことを錯乱したように喋り続けた挙句、他の住民数人がかりで集会室を強制的に追い出されていた。


 この幽霊マンションには、幽霊よりも怖い頭のネジが外れた人間が住んでいるようだ。


 それはともかくとして、幽霊マンションという悪評判で居住者が減少していることからマンションの資産価値がこれ以上落ちていくことに危機感を覚えている住民が大半だったのだろう。


 議論は終始紛糾したが、最終的に案は可決された。

 マンションの資産価値を強く主張する者、面倒な仕事を嫌い反発する者、両者を宥める管理業者のフロントさんなど混沌とする集会室の中で、彼女だけはひっそりと佇み、周囲のどの意見にも耳を傾けてけなげにうんうんと頷いていた。


 僕がこのマンションに引っ越してからこれまで彼女のことを一度も見たことがない。恐らく彼女はここ最近このマンションに越してきたのだろう。


 こんな幽霊マンションに住む僕が言えることではないが、こんな所に住むなんて彼女も相当物好きのようだ。


 いつもは退屈な集会もこの時はあっという間に時間が流れていき集会は終わった。


 生まれてから今日に至るまで35年間女性経験のない僕は、当然彼女に声をかける勇気があるはずもなく、いつ会えるかもわからない彼女を見納めようと再び視線を向けたとき、心臓が喉元まで跳ね上がった。


 彼女もこちらをじっと見つめているのだ。

 地蔵のように固まった表情で、人間味のない冷たい目で。


 心臓が射抜かれて声が出ない僕は、口をパクパクとさせる。

 さながら餌を食べる金魚のように。

 そんな僕を滑稽に思ったのか、彼女は固まった表情を崩して小さくほくそ笑んだ。


 甘い微笑はまるで僕を異界の淵へと誘うように。

 フワフワした意識の中、理性と自制心が溶けた僕は夢遊病者のように集会室を出ていく彼女の後を追っていく。


 階段を1階、2階、3階…………。


 樽のようにたるんだ身体を持ち上げる両足は、なぜか羽が生えたように軽い。

 辿り着いた先は8階だった。

 共用廊下の奥にある801号室の中へ彼女は入っていった。


 インターホンを押す勇気はなかったが、彼女とどうにかコミュニケーションを取りたいと思い、恋文を書くことにした。


 それが僕と彼女との文通の始まりだった。


 僕が最初に送った手紙の返事には、彼女の名前らしい”花子”と文字が記されていた。


 花子さんとの手紙は1週間に1回のペースで、僕がどれだけ早く書いて801号室に投函しても、毎回返事は1週間くらい経った頃。


 もっと頻繁にやり取りしたいのでLINEのIDを聞こうとしたが、スマホは持っていないと次の手紙で返事が来た。

 少々残念ではあったが、スマホに依存しない、どこか古風で世俗的ではない雰囲気を漂わせる彼女に一層惹かれた。


 心を躍らせながら次の手紙の内容を考える。

 そろそろ彼女をデートに誘ってみようか?

 無難に映画とかがいいのかな。


 彼女はどんなジャンルの映画が好きなんだろうか。

 こんなマンションに好き好んで住むくらいだからやはりホラー好きかもしれない。

 あれやこれやと膨らむ妄想を膨らませている最中、夢を醒ますかのように、上の部屋から足音が響き渡った。


 ――――ペタペタペタ。


 ――――ペタペタペタペタペタペタ。


 毎日きっかり深夜2時に踏み鳴らされる足音。

 こんな夜遅くに室内ウォーキングなんて迷惑甚だしい。


 気が散ってしょうがないので、いつものごとくベランダに引っ掛けてある洗濯棒を持ってきて、天井に向かって何度も突き立てる。


「毎晩毎晩くっそ迷惑なんだよ。ウォーキングなら外でやれよ!!」


 しかし、何度棒を突き立てても上階の部屋の住民の歩みが止まることはなく、それどころか不気味なくらい乱れのない一定のペースで歩き続けている。


 10回くらい棒を振るう頃には身体が汗だくになり、腕が上がらなくなってきたので止めた。


 疲労で手紙を書く気力も失せてきたのでもう寝ようかと思ったその時、インターホンが鳴り響く。

 こんな時間に一体誰が何の用なのだろうか。


 幽霊マンションらしく幽霊が訪問してきたのかと思うと、火照った身体が徐々に冷えていくのを感じる。

 念のためインターホンカメラで訪問者を確認して…………軽くため息をついた。


「夜分遅くにすいませんね。隣の402号室の青木です。夜間の塩撒き当番の交代です。次の週は吉岡さんなので、今日のうちに渡しておきますね」


 青木と名乗ったジャージ姿の中年は、くたびれた顔を隠さず当番表と塩撒き用の塩の入ったペットボトルを渡してくる。


 もう僕の番が回ってきたのか……一週間交代だしこんなものか。


「これってもしかして市販で売っている塩ですか。こんなのマンションに撒いて本当に効果あるんですか」


「文句なら理事長とか副理事長に言ってくださいよ。こっちだってやりたくてやってるわけじゃないんですから……」


 くっそ意味わかんねぇ仕事。

 まだまだ文句は言い足りなかったが、こちらの怒りを察した青木さんは逃げるように立ち去っていった。


 深いため息を吐き出しながら当番表と塩の入ったペットボトルを机の上に置く。


 当番表には、居住者名簿に登録されているであろう住民全員の名前と部屋番号、巡回日と巡回終了の記名欄が設けられていて、これまで当番が回ってきた住民の名前と毎週金曜日に巡回した日付、サインが記されている。


 みんな真面目だなぁ。

 フリーターで適当に楽して暮らしている僕が自堕落なだけか。


 だらしなくたるんだ腹を叩くと、ポン!という気持ちの良い音が鳴る。

 肥えた身体には良い運動かもしれない。

 いずれ銀座や六本木あたりを花子さんの隣に立って歩くのだからスタイルの改善も計っていかねば。


 彼女の巡回の時に僕もついて行ってあげるのもいいかもしれない。

 うら若き女子一人を夜に出歩かせるのは危険だ。

 さて、彼女の巡回予定日はいつだろうかと当番表に目を這わせていったが、彼女の名前、部屋番号が見つからない。


 何度もリストの上から下まで見返したがどこにも花子という名前が載っていない。

 住民の名前を書き忘れるなんて失礼にも程がある。

 なんて杜撰な管理会社だと憤慨し頭がカット熱くなった。


 僕は怒りで両足を踏み鳴らしながら階段を走って降りていき、管理人室の扉をノックする。

 定年間際くらいの年齢の管理人であろう爺さんが、気怠そうに顔を出した。


「夜の巡回かい?ご苦労さん」


「なぜ801号室の彼女の名前が名簿にないのか。管理不行き届きもいいところだ。うっかりミスであろうが、書き忘れされた本人からしてみれば、これほど悲しいことはないだろう。ただちに当番表の修正と本人への謝罪を要求する」


 挨拶する間もなく当番表を掲げて猛抗議する。


「あれ、当番表の記載漏れだったかなぁ~。どれどれ……」


 管理人が慌ててPCを立ち上げ、居住者名簿のデータをチェックしたのだが――――


「801号室は今空き室だよ」

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