第8話:情報戦という名の対話
書簡が届いた。
差出人は勇者セリウス・ライトフォード。宛先はルートヴィヒ・フォン・ハルツ。
公式な書簡だった。封蝋にセリウス個人の紋章が押されている。教会の紋章ではない。つまりこれは、教会の命令ではなく、セリウス個人の意思による接触だ。
『ハルツ家嫡男ルートヴィヒ殿。貴殿の関わる流通について、確認したき事項がございます。つきましては面会の機会を賜りたく――』
堅苦しい文面の中に、刃がある。「確認したき事項」。つまり、証拠がある、と言っている。
「ウルスラ」
「はい」
「セリウスが何を掴んでいるか、分かるか」
「断定はできませんが、おそらくグリーンフィールドの薬の件でしょう。匿名で届けたとはいえ、経路を辿れば闇市に行き着きます。村人の証言もある」
「エリン経由か」
「可能性は高いです。エリンがセリウスに情報を伝えたかは不明ですが、勇者一行が東部を巡回した際に直接耳にした可能性もあります」
私は書簡を机に置いた。
会うか、会わないか。
会わなければ、セリウスの疑念は疑念のまま残る。疑念は膨張する。膨張した疑念は、やがて確信に変わる。確信を持った勇者は、もう止まらない。
会えば、情報の一部を渡すことになる。だが、渡し方を制御できる。
「会う」
「場所の指定は」
「こちらから指定する。レーゲンブルクの中央市場。昼間。人目のある場所だ」
「……人目のある場所? 普通、密談は人目を避けるのでは」
「密談ではない。対話だ。人前で行えば、セリウスは剣を抜けない。光の勇者が市場で闇市の令息を斬った、となれば世論が持たない。こちらの安全を保証する最も確実な方法は、人の目だ」
「なるほど。勇者の力を、勇者の名声で封じるわけですね」
「そうだ」
―――
三日後。レーゲンブルク中央市場。
昼時の市場は賑わっていた。野菜を並べる露店、肉を焼く煙、子供の笑い声。日常の音と匂いが溢れている。
私は市場の一角にある食堂に入った。屋外の席を選んだ。通りに面した、誰からも見える場所だ。
セリウスが来た。
白銀の鎧は脱いでいた。代わりに簡素な旅装。だが、腰に光の剣を佩いている。それだけで、彼が何者かは周囲に伝わる。市場の人々が「勇者様だ」と囁き合っている。
セリウスは私の向かいに座った。
随行はいない。一人で来た。
私もカインを下がらせてある。ウルスラは市場のどこかにいるはずだが、姿は見えない。
「来てくれたか」
セリウスが言った。真っ直ぐな目。裏がない。前回の集会で見た、あの曇りのない目。
「断る理由がなかった」
「……率直だな」
「回りくどい話が好きなら、教会に行け。私は帳簿の人間だ。数字と同じように話す」
セリウスの眉がわずかに動いた。挑発と受け取ったか、あるいは単純な驚きか。
「では率直に聞く。ハルツ家は闇市を運営しているか」
「している」
セリウスが目を見開いた。
否定しなかったことに驚いている。当然だろう。普通、犯罪の首謀者は犯罪を否定する。
だが、私は嘘をつかない。聞かれたことには答える。
「……認めるのか」
「事実だ。否定しても仕方がない」
「闇市は違法だ。王国の法を犯している」
「その通りだ」
「搾取的な取引だ。正規の流通を乱し、民衆を欺いている」
「搾取的かどうかは、数字で判断しろ」
私は懐から一枚の紙を取り出した。
クルンプ峠の第三倉庫の在庫リストだ。焼失前の。
「これは」
「お前が焼いた倉庫の中身だ。解熱剤百二十。干し肉四百。経口補水塩八十。毛布二十枚。お前はこの倉庫を『闇の拠点』と呼んだ。では聞く。この在庫のどこに、搾取の痕跡がある」
セリウスは紙を見つめた。
「……薬?」
「解熱剤だ。三つの村に配送する予定だった。お前が焼いた後、その三つの村で薬が不足した。子供が発熱した。一週間、薬なしで耐えなければならなかった。その後の死亡者数を知りたいか」
「…………」
「ゼロだ。別の経路から補充した。だが、間に合わなかった場合の話をしているのではない。お前が焼いたものの中身の話をしている」
セリウスの顔色が変わった。白くなった。
「教会に言われたのだろう。『闇の流通拠点を浄化せよ』と。お前はその指令に従った。正しいと信じて。だが、お前を指名した人間の動機を調べたことはあるか」
「……動機?」
「フリードリヒ大司教が闇市の排除を命じる理由は何だ。正義か。民衆の保護か。それとも、教会以外の流通経路を潰して、経済の独占を完成させることか」
沈黙が落ちた。
市場の喧騒が、二人の間を流れていく。肉の焼ける音。子供の笑い声。値切りの声。
セリウスが口を開いた。
「……教会は、光に仕える組織だ」
「そうだ。だが、光に仕える組織が、光のために動いているとは限らない。お前は光の剣士だ。剣を振るう腕は確かだろう。だが、その剣を振るわせた者が、光のために動いているかどうか――それを検証したことはあるか」
セリウスが拳を握った。テーブルの下で、手が震えていた。
怒りか。動揺か。おそらく両方だ。
「……お前の言葉を信じろと言うのか。闇市を仕切る人間の言葉を」
「信じなくていい。検証しろ。私の言葉ではなく、数字を。焼かれた倉庫の中身を。その後に何が起きたかを。そして、お前に指令を出した人間が、なぜその倉庫を標的に選んだかを」
セリウスは答えなかった。
私は立ち上がった。
「お前の正義を否定するつもりはない。お前は善人だ。本気で人を救いたいと思っている。それは分かる」
「……なぜ」
「お前の目を見れば分かる。あれは嘘をつけない目だ。私にはない種類の目だ」
セリウスが、かすかに息を吸った。
「だが、善意は免罪符ではない。お前が焼いたものの中身は、善意では元に戻らない。数えろ。何が焼けたか。何人が困ったか。それが、検証の第一歩だ」
私は食堂を去った。
背後で、セリウスが座ったまま動かない気配がした。
―――
市場を抜けると、カインが待っていた。
「どうでした?」
「種を植えた。芽が出るかは分からない」
「あの勇者、聞く耳ありそうでしたか」
「聞く耳はある。だが、聞いたことを受け入れるかどうかは別の問題だ。人は、自分が正しいと信じてきたことを疑うのに、想像以上の時間がかかる」
「坊っちゃんは、あの勇者に分かってほしいんですか」
「分かってほしいわけではない。検証してほしいだけだ。検証すれば、事実に辿り着く。事実に辿り着けば、行動が変わる。行動が変われば、焼かれる倉庫が減る。結果として、薬が届く人が増える」
「……やっぱり回りくどいですね、坊っちゃんは」
「効率的だと言え」
カインが笑った。
―――
その夜、セリウスは宿に戻った。
一人だった。
部屋の椅子に座り、テーブルの上に広げた紙を見つめていた。ルートヴィヒが渡した、倉庫の在庫リスト。
解熱剤、百二十。
干し肉、四百。
経口補水塩、八十。
自分がこれを焼いた。
正義のために。
「……セリウス」
隣室から、マグナスが顔を出した。
「どうした。顔色が悪いぞ」
「マグナス。お前、前に言っていたな。北部の村を通過した時、何かが変わっていたと」
「……ああ」
「あれは、俺たちのせいだったのかもしれない」
マグナスは黙った。
否定しなかった。
「マグナス。教会の指令書の写しは、お前のところにあるか」
「ある。なぜだ」
「見たい。全部」
マグナスは少し驚いた顔をした。だが、すぐに頷いた。
「……分かった。持ってくる」
マグナスが出ていった。
セリウスは紙を見つめた。
数字が並んでいる。
冷たい、正確な数字が。
あの男――ルートヴィヒ・フォン・ハルツ。鋼色の目をした、表情のない十七歳。
あの男の目には、何が映っていたのだろう。
怒りではなかった。憎しみでもなかった。
ただ、数字だけが映っていた。
そして、その数字の一つひとつに、人の命が紐づいていた。
セリウスは在庫リストを畳んだ。
畳んで、懐にしまった。
捨てられなかった。
数字が、重かった。
―――
翌日。
ウルスラが報告してきた。
「セリウスが教会の指令書の写しを入手したようです。マグナスから受け取った模様」
「動き出したか」
「ただし、すぐに教会に疑念をぶつけることはないでしょう。彼は慎重です。善人だからこそ、自分の信念を覆すには時間がかかる」
「時間はある。急ぐ必要はない」
私は帳簿を開いた。
セリウスの件は種を植えた段階だ。水をやる必要はない。事実という日光が、勝手に芽を出す。
今やるべきことは別にある。
コストの回収。カインの村単位取引の拡大。ギュンターとの次の納品調整。
日常の数字を、日常のように書き込む。
帳簿に変わりはない。
だが、この帳簿の意味が、少しずつ変わってきている。
守りから、攻めへ。
耐えるための数字から、動かすための数字へ。
蝋燭の炎が揺れた。
今夜は、風が弱い。




