第9話:教会の手が届く
フリードリヒが本気を出した。
ウルスラの報告は二つあった。一つは、ゲルシュタイン辺境伯がフリードリヒと密約を結び、ハルツ領との境界に兵を動かし始めたこと。もう一つは、王都の議会で「商業規制法」の草案が提出されたことだ。
「商業規制法。内容は」
「認可のない商業行為に対する罰則の強化です。具体的には、ギルドに登録されていない流通に関わった者に対して、財産没収と投獄を認める内容」
「つまり、闇市を法的に殲滅するための法律か」
「はい。提出者はゲルシュタイン辺境伯。背後にフリードリヒがいるのは明白です」
私は地図を広げた。
ゲルシュタイン領はハルツ領の東に接している。兵を境界に配置すれば、物資の東方搬送が困難になる。グリーンフィールドへの供給が絞られる。
同時に法的な締め付け。
軍事と法律の二面攻撃。
フリードリヒは本気だ。禁術の噂では不十分と判断し、実力行使に切り替えてきた。
「コストへの影響は」
「東部経路の迂回で、輸送コストがさらに一割五分増。商業規制法が通れば、取引先の農村が萎縮して契約を切る可能性があります」
「カインの村単位取引は?」
「現在七件。うち東部が四件。ゲルシュタインの圧力で、東部の契約が維持できなくなる恐れがあります」
七件のうち四件。過半数だ。
カインが一つずつ足で稼いだ信頼が、政治の力で潰されようとしている。
―――
父が怒った。
当然だ。ゲルシュタインが境界に兵を配置したという報せは、ハルツ家にとって直接的な軍事的脅威だ。
「あの狸爺め! フリードリヒの犬に成り下がったか!」
父の拳がテーブルを叩いた。三度目だ。食器が跳ねるのを見るのも三度目だ。
「ルートヴィヒ、今度こそ黙っていられんぞ。兵を出す。ゲルシュタインの連中を境界から追い払ってやる」
「追い払ってどうなる」
「……なに?」
「ゲルシュタインとハルツが境界で衝突した。
世間はそう見る。
先に手を出したのはゲルシュタインだが、応戦したハルツも同罪だ。
フリードリヒはそれを待っている。
『闇市を運営する反乱貴族が、ついに武力行使に出た』――そう喧伝するための口実を作りたいんだ」
父が歯を食いしばった。
分かっている。この人も分かっている。だが、理屈と感情は別だ。辺境伯として領地と民を守ることが父の誇りであり、その誇りが踏みにじられている。
「では、どうする」
「情報で返す」
「また情報か」
「また情報だ。ただし、今度は規模が違う」
私はウルスラを見た。
「準備はどこまで進んでいる」
ウルスラの目が光った。
この問いを待っていた、という目だった。
「年単位で集めてまいりました。フリードリヒの不正蓄財、聖職売買、教区長への恫喝の記録。贈賄の帳簿の写し。教会運営資金の流用先。すべて物証付きです」
「量は」
「書簡の写しが四十七通。帳簿の写しが十二冊分。証言を文書化したものが二十三件」
父が黙った。
この量の情報を、ウルスラが何年もかけて集めていたことに驚いている。私は驚いていない。ウルスラを雇った時から、この日のために情報を蓄積するよう指示していた。
「使うか」
「まだだ」
ウルスラが、かすかに眉を動かした。
「……まだ、ですか」
「タイミングが来ていない。商業規制法はまだ草案だ。議会で審議される。通過するまでに時間がある。法が通過した瞬間――つまり、フリードリヒが最も自信を持ち、最も油断している瞬間に、すべてを放出する。その方が効果が大きい」
「承知いたしました」
ウルスラは静かに頷いた。年単位の忍耐を重ねてきた女だ。もう少しの待ちは、何でもないのだろう。
「ただし、放出の準備は始めろ。
複数の独立した経路から同時に出す。
語り部、商人の口伝え、そしてレーゲンブルクの地下水路を使った文書の配布。
一箇所から出た情報なら『ハルツ家の陰謀』と否定できる。
だが、複数の無関係な経路から同じ内容が同時に出れば、否定は不可能になる」
「地下水路も使うのですね」
「切り札を使う時が来た」
―――
その夜、伝書が届いた。
差出人はカインだった。東部の巡回中に、思わぬ接触があったという。
『坊っちゃんへ。ブランド村の近くで、勇者一行の聖職者エリンと会いました。あの名刺――紙片を使って、俺のところに連絡してきたんです』
名刺。
第七話でエリンに渡した、あの紙片だ。
『エリンの用件は一つ。「ハルツ家が薬を届けたのか」。俺は坊っちゃんの方針通り、名前は出しませんでした。ただ、「上は結果を名前より重んじる」とだけ言いました』
カインらしい言い回しだ。指示通りでありながら、自分の言葉で伝えている。
『エリンは泣いてました。泣きながら、こう言いました。「私は勇者一行の聖職者なのに、名前すら名乗らない誰かより、何もできていない」と』
私は伝書を畳んだ。
エリンの涙は帳簿に書けない。だが、彼女がカインに接触したという事実は書ける。
勇者一行の聖職者が、闇市の運び手と接点を持った。
これは線だ。細い線だが、つながっている。
この線が、いずれ何を結ぶか。
まだ分からない。だが、道は作っておくものだ。
―――
カインの伝書には、もう一つ報告があった。
『それと、東部の契約村のうち二件から、取引を一時停止したいと申し入れがありました。
ゲルシュタインの兵が近くに来ていて、闇市との取引が発覚すれば罰せられると怯えています。
俺の判断で一時停止を受け入れました。
無理に続ければ村に迷惑がかかるので。
――これ、坊っちゃんの許可なく決めちゃいましたけど、怒りますか?
』
私は帳簿を開いた。
東部の契約が七件から五件に減った。月あたりの安定収入が三割近く落ちる。
だが、カインの判断は正しい。
取引を強行すれば、村人が捕まる。捕まれば、闇市の拠点が芋づる式に露見する。短期的な売上を守って、中長期の信頼基盤を失うのは最悪の選択だ。
カインは、それを自分の頭で判断した。
私は返書を書いた。
『判断は正しい。怒らない。東部の一時停止分のコスト減は、西部と南部の増便で補う。詳細は帰還後に打ち合わせる。――なお、「坊っちゃん」はやめろ』
書き終えて、少し考えた。
それから一行を足した。
『お前が自分の判断で村を守ったことは、帳簿に記録しておく』
カインに褒め言葉は通じない。だが、帳簿に残るということは――この組織の中で、事実として認められるということだ。
それが、私なりの評価だ。
―――
夜が深まった。
執務室の窓から、星が見えた。
商業規制法。ゲルシュタインの兵。東部の契約減。コスト増。
包囲網が狭まっている。
だが、手札はある。
ウルスラの情報爆弾。地下水路。語り部のネットワーク。カインの村との信頼関係。アナスタシアの社交網。
そして――セリウスに植えた種。エリンとの細い線。
すべてが、一つの点に向かって収束しようとしている。
タイミングだ。
早すぎれば不発に終わる。遅すぎれば包囲網に潰される。
帳簿を開いた。
今ある数字を、すべて書き出す。在庫、コスト、収支、契約件数、人員、経路。
数字は嘘をつかない。数字が示す現実は厳しい。
だが、数字は同時に、まだ終わっていないことも示している。
赤字だが、ゼロではない。
経路は狭まったが、切れてはいない。
契約は減ったが、残っている。
残っている限り、動ける。
動ける限り、薬は届く。
蝋燭を替えた。
四本目。今夜は長い。
だが、夜が長いのは昔からだ。前世でも、この世界でも。
長い夜の向こうに、何があるか。
分からない。
分からないが、帳簿は書ける。
だから、書く。




