第7話:悪役の顔を使う時
フリードリヒが動いた。
ウルスラの報告によれば、教会が各地の酒場や市場で「ハルツ家は禁術を使っている」という噂を流し始めたらしい。
「禁術?」
「はい。死霊魔法、肉体改造、呪詛。闇市の物資は禁術で汚染されている、と」
「根拠は」
「ありません。ただの中傷です。しかし、民衆は魔法の仕組みを知りません。『禁術』という言葉の響きだけで恐怖を抱きます」
私は帳簿を閉じた。
予想していた手だ。情報戦で攻めれば、相手も情報で返してくる。こちらが事実を使うなら、向こうは恐怖を使う。事実と恐怖が衝突した時、短期的には恐怖が勝つ。人は知らないものを恐れるように作られている。
「放置すれば、禁術の噂が定着する。定着すれば、うちの荷を受け取る村が減る。信頼が崩れる」
「対抗策は?」
「否定しても無駄だ。否定は弁明であり、弁明は弱者の行動だ。弱者の言葉は信じられない」
では、どうするか。
「見せる」
「……見せる?」
「この身を、人前に出す。禁術を使う悪の一族の令息が、どんな人間なのかを。噂ではなく、実物で」
―――
レーゲンブルクで、再び貴族の社交の場が設けられた。
夏の夜会。広間には燭台が並び、楽師が弦を鳴らしている。貴族の令嬢たちが色とりどりの衣装で笑い合い、男たちが酒杯を傾けている。
私は会場の隅にいた。
前回の集会と同じだ。何もしない。挨拶をし、酒を舐め、誰とも深い話をせず、ただいる。
だが、今回は一つだけ違う。
ウルスラが事前に仕込んだ語り部たちが、この夜、この街のいくつかの酒場で話をしている。
「グリーンフィールドで疫病が流行った時、教会は何もしなかった。だが、どこからか薬が届いた。名前のない薬が。村の子供たちは助かった」
語り部たちは名前を出さない。私の名前も、ハルツ家の名前も。
ただ、事実だけを語る。
この夜会に来ている貴族たちの何人かは、すでに酒場でその話を聞いているはずだ。語り部の話は、噂として広がる。噂は酒場から屋敷へ、屋敷から夜会へ流れてくる。
そして今夜、禁術の噂を流されている令息本人が、何食わぬ顔で夜会に出席している。
禁術を使う闇の令息が、穏やかな顔で酒を飲んでいる。
誰にも害を加えず、誰とも諍いを起こさず、ただそこにいる。
人は、噂と実物が食い違った時、実物のほうを信じる。完全には信じなくても、噂への確信が揺らぐ。揺らぎは疑問になり、疑問は思考の隙間になる。
その隙間に、「疫病の時、薬を届けた誰か」の話が滑り込む。
計算通りだ。
――いや、計算通りになるかは、まだ分からない。人の心は帳簿ほど正確ではない。だが、確率は上がった。
広間を歩いていると、不意に声をかけられた。
「あなたが、ハルツ家の」
振り返った。
白い法衣。柔らかい栗色の髪。大きな目。勇者一行の聖職者――エリン・ソルファが、そこにいた。
夜会に勇者一行が出席していることは把握していた。だが、エリンが私に直接話しかけてくるとは想定していなかった。
「ルートヴィヒ・フォン・ハルツだ」
「エリン・ソルファです。勇者セリウス様の一行で、聖職を務めています」
丁寧な挨拶。だが、目が泳いでいる。何かを聞きたいが、聞いていいのか迷っている目だ。
「用件があるなら聞く。私は嘘はつかないが、聞かれたことにしか答えない」
エリンが少し驚いた顔をした。それから、意を決したように口を開いた。
「グリーンフィールドの薬のことです。ホルスト村に届いた解熱剤。あれは――あなたが届けたものですか」
「知らない」
「……知らない?」
「誰が届けたかは知らない。人が必要としていたなら、誰かが動いた。それだけのことだ」
嘘はついていない。名前を出さない、と決めた。だから「知らない」と答えた。答えたことは事実だ。誰が届けたかを公言する立場にない、という意味で「知らない」。
エリンは黙った。
私の顔を見ている。何かを読み取ろうとしている。
「あなたは、悪役令息だと聞いています」
「そう呼ばれている」
「……でも」
エリンの声が小さくなった。
「教会に嘆願した時、誰も答えてくれませんでした。大司教様にお手紙を出しても、返事はありませんでした。私は勇者一行の聖職者で、教会に仕える身です。それでも、助けを求めた時、教会は答えてくれなかった」
私は何も言わなかった。
「そして、名前も知らない誰かが、薬を届けてくれた。あの村の子供たちは、助かりました」
「そうか」
「……あなたは、なぜ闇市を動かしているのですか」
「利益が出るからだ」
「それだけですか」
「それだけだ」
エリンは唇を噛んだ。信じていない目だった。だが、追及もしなかった。
「困ったことがあれば、連絡しろ」
私は懐から小さな紙片を取り出した。
名刺のようなものだ。ハルツ家の紋章と、連絡先として使える伝書の宛先が書いてある。
「これは……」
「伝書を出せば、私の部下に届く。私に直接届くかは保証しない。だが、必要な情報は伝わる」
エリンは紙片を受け取った。
手が震えていた。
「……ありがとうございます」
「礼は要らない。紙片一枚の原価は、ほぼゼロだ」
エリンは小さく笑った。困惑と、かすかな安堵が混ざった笑いだった。
私は歩き去った。
紙片一枚。原価はほぼゼロ。
だが、あの紙片がエリンの手にあることの意味は、帳簿の数字では測れない。
勇者一行の聖職者が、悪役令息への連絡手段を持っている。
それはいずれ、使われる。
いつ、どんな形で使われるかは分からない。だが、道を作っておくことに意味がある。道があれば、人は歩く。歩けば、接点が生まれる。接点は、情報になる。
計算だ。
――そう、思うことにした。
―――
夜会の帰り道。馬車の中で、アナスタシアが言った。
「見ていたわよ。あの聖職者の子と話していたでしょう」
「見ていたのか」
「当然。弟が若い女性と話していたら、姉は見るわよ」
「そういう話ではない」
「分かっているわ。情報戦の一環でしょう。勇者側との接点を作っておく。万が一の時の保険」
私は頷いた。
「でもね、ルートヴィヒ」
アナスタシアが窓の外を見た。月明かりが街道を照らしている。
「あの子に紙片を渡した時のあなたの声、少しだけ柔らかかったわよ」
「気のせいだ」
「そうかしら」
馬車が揺れた。砂利道の振動が座席に伝わる。
「ルートヴィヒ。あなたは優しいわよ。隠すのが下手すぎるだけで」
「前にも同じことを言われた」
「何度でも言うわ。事実だから」
私は窓の外を見た。
月が出ていた。雲の切れ間から、冷たい光が差している。
優しさ。
帳簿に載らないもの。
載らないものは管理できない。管理できないものは危険だ。
だが、今夜は――
月が明るい。
それだけのことだ。
―――
翌日。
ウルスラが報告してきた。
「夜会後、レーゲンブルクの社交界隈で噂が広がっています。『ハルツ家の令息は礼儀正しかった』『禁術を使う人間には見えなかった』『むしろ教会の対応のほうが気になる』と」
「禁術の噂は?」
「弱まっています。完全には消えていませんが、確信を持って語る者が減りました」
「想定通りだ。人は実物を見た後で、噂を同じ強度では信じられない」
「それと、もう一つ。街の商人たちの間で、グリーンフィールドの薬の話が広がっています。語り部の話に加えて、村から出てきた農民が直接語り始めた模様です」
「制御していない情報か」
「はい。こちらからの仕掛けではなく、自然発生的に広がっています」
自然発生的。
つまり、事実が独り歩きを始めた。
これは良い兆候であり、同時に危険な兆候でもある。制御できない情報は、予想外の方向に流れることがある。
「監視を続けろ。介入はするな。流れに任せる」
「承知いたしました」
ウルスラが出ていった。
私は帳簿を開いた。
今月の収支。まだ赤字だ。だが、カインの村単位取引が三件に増えた。来月には五件になる見込みだ。安定収入の基盤が少しずつ育っている。
赤字は縮小している。
噂は弱まっている。
接点は増えている。
一つひとつは小さい。だが、小さなものが積み重なれば、やがて形になる。
帳簿の数字が、少しずつ改善している。
それだけでいい。
それだけで、十分だ。




