第12話:悪役の道の果て
フリードリヒが去って一ヶ月。
闇市は――いや、もう闇市とは呼ばれていなかった。「ハルツ式流通」。いつの間にか、そんな名前がついていた。誰がつけたのかは知らない。
正規のギルド流通と並行して、ハルツ家が運営する流通網が存在している。違法ではある。だが、商業規制法が死文化した今、取り締まる者はいない。取り締まらないのは、取り締まれば困る人間が多すぎるからだ。
半合法。灰色。
それで十分だ。白でも黒でもなく、灰色のまま機能する。それが、この国の現実に最も適した形だ。
数字を見る限り、順調だ。カインの村単位取引は十二件に増えた。ギルドからの転換組も安定している。ウルスラの情報網は教会の新体制の動向を追い、アナスタシアは社交界で次の波に備えている。
帳簿の数字が、初めて右肩上がりを描いている。
だが、私はレーゲンブルクにいなかった。
グリーンフィールドにいた。
東部の在庫確認が名目だ。カインが村単位取引を再開した地域を巡回し、備蓄状況を点検する。実務上の理由としては十分だ。
だが、もう一つの理由がある。
セリウスがここにいる。
―――
ホルスト村の外れ。
畑の端に、男が立っていた。
白銀の鎧は身につけていない。簡素な麻の服に革のベルト。腰に剣はない。両手は泥で汚れている。畑仕事をしていたのだろう。
セリウス・ライトフォード。かつて光の勇者と呼ばれた男。
今は、一人の人間としてここにいる。
「来ると思っていた」
セリウスが言った。
「なぜ」
「お前は在庫の確認を理由にする男だ。だが、在庫の確認だけなら部下に任せればいい。自分で来たということは、別の用がある」
「……少しは学んだか」
「お前に教わった。数字を見ろ、事実を見ろ、検証しろ、と」
セリウスの目は、以前と変わっていなかった。真っ直ぐで、裏がない。だが、一つだけ違う。以前は迷いがなかった。今は、迷いを知った上で真っ直ぐだ。
迷いのない真っ直ぐさは危うい。だが、迷いを通過した真っ直ぐさは――しなやかだ。
「聞きたいことがある」
「聞け」
「なぜ名乗らなかった。薬を届けた時、名前を出さなかった。名前を出せば、お前の評価は上がっていた。教会との戦いも有利になっていた。なのに、なぜ」
「名前を出せば、教会がハルツ家を攻撃する口実になった。秘匿のほうが継続性が高かった」
「それだけか」
「それだけだ」
セリウスは黙った。
信じていない目だった。だが、追及しなかった。代わりに、別の問いを投げた。
「お前にとって、あの薬は何だった。帳簿の数字か。利益の計算か。それとも――」
「それとも、何だ」
「お前の母親の代わりか」
私は答えなかった。
答える必要がない。
答えてしまえば、それは帳簿の外に出る。帳簿の外に出たものは、管理できない。管理できないものは――
「……お前は残酷だな、セリウス」
口をついて出た言葉に、自分で驚いた。
セリウスも驚いていた。
「残酷?」
「見えているものを、言葉にする。それは時として残酷だ」
「……お前がそれを言うのか。数字で人を追い詰める男が」
「数字は事実だ。事実は残酷ではない。だが、事実の向こうにある意味を言い当てるのは――それは別の種類の暴力だ」
セリウスが、少し笑った。
初めて見る笑いだった。苦さと、諦めと、それでも何かを認めるような――そんな笑い。
「お前は、悪人じゃないな」
「悪役令息だ。世間ではそう呼ばれている」
「呼ばれているだけだ」
「呼ばれているだけでいい。悪役令息のほうが動きやすい」
セリウスの眉が上がった。
「……なぜだ」
「善人は期待される。正しくあれ、清くあれ、すべてを救え。期待に応え続けなければ、失望される。失望は信頼の崩壊だ。だが悪役には誰も期待しない。期待されなければ、失望もない。失望がなければ、自由に動ける」
「それは……残酷だな」
「ああ。残酷だ。だが効率的だ」
二人の間を、風が通り過ぎた。
畑の匂い。土の匂い。春の終わりの、温かい風。
「セリウス」
「なんだ」
「お前はなぜここにいる。勇者をやめて、畑を耕している。それで何が変わる」
「変わらないかもしれない。だが、一人分の畑は一人分の実をつける。それは確実だ」
「……数字で語るようになったな」
「お前のせいだ」
セリウスが笑った。今度は苦くない笑いだった。
「もう一つ聞いていいか」
「聞け」
「お前は、なぜこれを続ける。フリードリヒはいなくなった。教会の脅威は後退した。なのに、なぜ闇市を――ハルツ式流通を続ける」
「フリードリヒがいなくなっても、構造は変わらない。ギルドの登録料は高い。正規の流通は庶民には手が届かない。教会は新しい大司教のもとで再編されるが、本質は変わらない。変わらない限り、闇市に需要がある。需要がある限り、帳簿は続く」
「……永遠に悪役のままか」
「悪役のままでいい。届いた薬は本物だ。それで十分だ」
セリウスは何も言わなかった。
長い沈黙があった。
畑の向こうで、子供たちが走り回っていた。エリンが子供たちと話している姿が見えた。笑っている。以前の、勇者一行の聖職者だった時よりも、自然な笑顔だった。
「セリウス」
「ああ」
「お前の目が、誰かに似ていると思っていた。ずっと」
「誰に」
「分からなかった。だが、今分かった」
「……誰だ」
「私だ」
セリウスが目を見開いた。
「お前と私は似ている。方法が違うだけだ。お前は剣で守ろうとした。私は帳簿で守ろうとした。守りたいものは同じだった。守り方を間違えるのも――同じだった」
セリウスの目に、何かが浮かんだ。涙ではない。涙の手前にある、もっと静かなもの。
「……お前がそういうことを言う人間だとは思わなかった」
「私も思わなかった。忘れろ。帳簿に書かなかったことにする」
「忘れない」
「好きにしろ」
私は背を向けた。
歩き出す。
背後で、セリウスが言った。
「ルートヴィヒ」
振り返らなかった。
「……ありがとう」
足を止めなかった。
止めたら、何かが帳簿の外に溢れ出しそうだった。
歩きながら、右手を見た。
帳簿を持つ手。数字を書く手。薬を量る手。
冷たい手のはずだ。
だが今、少しだけ温かい気がした。
――気のせいだ。外気温が高いだけだ。春だから。
―――
帰りの馬車の中で、私は帳簿を開いた。
グリーンフィールドの在庫確認結果。ホルスト村、ブランド村、ケラー村。備蓄状況良好。供給安定。価格維持。
数字を書き込んでいく。
母の顔を思い出した。
柔らかい手。かすれた声。「いい子ね」。
母上。
私は悪役のままです。
世間はそう呼んでいるし、私もそう名乗っています。
でも、届いた薬は本物です。
それだけは、本物です。
馬車が揺れた。
帳簿の文字が滲んだ。
――揺れのせいだ。
馬車が揺れたせいだ。
それだけだ。
私は帳簿を閉じた。
次の仕事がある。次の数字がある。次の荷が、どこかの村に届くのを待っている。
悪役令息の仕事は、終わらない。
終わらせるつもりもない。




