第13話:変わらない世界、変わった数字
世界は変わらなかった。
フリードリヒが退いた後、新しい大司教が任命された。
名前はヴィルヘルム。
温厚な老人で、前任者ほどの野心はないとされている。
だが、教会の構造は同じだ。
治癒魔法の独占。
ギルドとの癒着。
高額な登録料。
庶民が正規の流通から排除される仕組みは、何一つ変わっていない。
ゲルシュタイン辺境伯は健在だ。フリードリヒとの密約が露見しても、政治的に致命傷にはならなかった。「騙されていた」と主張し、新体制への忠誠を表明した。したたかな男だ。いずれまた、どこかで牙を剥くだろう。
王国の貧富の差は広がっている。農村部の疲弊は続き、都市部の富は集中し、その構造を是正する政治的意志は存在しない。
世界は変わらない。
一人の悪役令息が帳簿をつけたところで、世界は変わらない。
だが――
数字は変わった。
―――
朝。
私は執務室で帳簿を開いた。
定例の確認だ。毎朝やっている。前世でもそうだった。出社したらまずメールを確認する。今は帳簿を確認する。習慣は前世から持ち越せる数少ないもののひとつだ。
「おはようございます、坊っちゃん」
カインが入ってきた。手に報告書を持っている。
「坊っちゃんはやめろと――」
「もう二十回は言われてますよ。そのうち慣れます」
「慣れない」
「へへ」
カインの報告。
村単位取引、現在十四件。月ごとの安定収入は半年前の二・三倍。東部、南部、西部に分散。物々交換を含む柔軟な支払い条件が功を奏し、現金の乏しい農村でも取引が成立している。
「リューベン村から追加の要望が来てます。解熱剤に加えて、傷薬と縫合糸も定期配送してほしいと」
「扱い品目の拡大か。ギュンターに確認する。仕入れ可能なら追加する」
「あと、ブランド村の村長が『ハルツの兄ちゃんによろしく』って言ってました。俺のことです」
「お前が信頼されているということだ」
「坊っちゃんのおかげですよ」
「違う。お前が足で稼いだ信頼だ。帳簿はそう示している」
カインが少し照れたように笑って、出ていった。
次にウルスラが来た。
「教会の新体制の動向です。大司教ヴィルヘルムは穏健派ですが、教会の財政基盤が弱体化しているため、ギルドへの依存度が上がっています。ギルドの影響力が増す可能性があります」
「ギルドが次の敵か」
「敵になるかどうかは、まだ分かりません。ただ、ギルドの幹部の中に、ハルツ式流通を吸収しようという動きがあります。提携という名の取り込みです」
「フリードリヒと同じ手口だな。拒否する。吸収されれば、価格の自由と品質管理の独立性を失う。うちの価値は独立にある」
「承知いたしました」
ウルスラが出ていこうとして、振り返った。
「ルートヴィヒ様。一つ、個人的な報告をしてもよろしいですか」
「聞く」
「ターニャ・ブロックから伝言です。『あんたの情報爆弾のおかげで、私はかなり儲けた。お礼に一つ教えてあげる。次に動くのはギルドの商会長ハインリヒよ。気をつけなさい』と」
「ターニャらしい礼の返し方だな。情報で返す」
「彼女はこうも言っていました。『私にはどっちが正しいか分からない。でも、あの坊やの帳簿は嘘をついていなかった。それだけは分かる』と」
私は何も答えなかった。
ターニャはこの物語の最初から、中立の位置にいた。教会にも闇市にも属さず、情報を売って生きる女。彼女の目に映る世界は、善悪の二項対立ではない。ただ、数字が嘘をついているかどうか。
それだけが、彼女の判断基準だ。
奇妙なことに、私と似ている。
―――
午後。
アナスタシアが茶を持ってきた。
「休憩しなさい。帳簿は逃げないわ」
「逃げないから油断する。油断した数字は狂う」
「あなたらしい屁理屈ね」
アナスタシアは向かいの椅子に座った。茶を一口飲んで、窓の外を見た。
「ルートヴィヒ。世界は変わらなかったわね」
「ああ」
「フリードリヒがいなくなっても、貧しい人は貧しいまま。教会は教会のまま。ギルドはギルドのまま」
「そうだ」
「あなたは、がっかりしている?」
「していない。期待していなかったから」
「嘘ね」
アナスタシアが微笑んだ。
「期待していなかったなら、こんなに朝早くから帳簿を開かないわ。期待しているから、数字を確認する。数字が良くなっていることを確認して、明日もう少し良くなることを期待する。あなたはそういう人よ」
「…………」
「認めなくていいわ。私が知っていれば十分」
アナスタシアは茶を飲み干して、立ち上がった。
「あ、そうだわ。エリンから手紙が来ていたわよ。グリーンフィールドの子供たちが元気にしているって。あの名刺を渡された女の子、すっかりカインと仲良くなったらしいわね」
「カインとエリンの関係は業務上の連絡経路だ」
「業務上の連絡経路で文通はしないわよ、普通」
アナスタシアは笑いながら出ていった。
私は茶を飲んだ。
温かい。
温かさは帳簿に書けない。だが、味覚は事実だ。事実として、この茶は美味い。
―――
夕方。
私は帳簿を開いた。
今期の総括。
収入:前期比一・八倍。
拠点数:分散備蓄二十六箇所。河川路三系統が確立。
取引村:十四件。固定価格・安定供給を維持。
ギルド転換顧客:八件。品質と価格の比較優位を確認。
人員:運び手三十二名。情報員十一名。語り部七名。
損失:クルンプ峠の在庫焼失、東部契約の一時停止、緊急発注による赤字月。すべて回収済み。
数字の並びを見た。
半年前と比べて、すべてが変わっている。
倉庫が増えた。経路が太くなった。取引先が増えた。人が育った。
世界は変わらない。
だが、世界の中にある一つの仕組みが、確実に育っている。
この仕組みが続く限り、薬は届く。食糧は届く。必要なものが、必要な場所に、必要な時に届く。
それが、私のやったことだ。
善行ではない。正義でもない。帳簿の数字を合わせ続けた結果だ。
結果だけが、現実に残る。
私は帳簿を閉じた。
新しい帳簿を取り出した。来期の計画だ。
「今期の利益を元手に、次の展開は三つ考えている。カインと相談だ」
独り言を言った。
独り言は帳簿に載らない。だが、次の帳簿の最初のページに書くことは決まっている。
今期:黒字。
次期計画:三案。カインと協議。
帳簿の表紙を開いた。
新しい紙。新しいインク。
蝋燭を灯した。
炎が揺れた。
窓の外に、夕焼けが見えた。赤と橙が混じった空。この世界に来て、何度目の夕焼けだろう。数えていない。数える意味がない。
だが――
きれいだ、と思った。
思っただけだ。帳簿には書かない。
書かないが、思った。
それだけのことだ。
―――
これは正義の物語ではない。
悪が善に勝つ物語でもない。
ただ一人の男が帳簿を書き続けた記録だ。
数字を合わせ、荷を動かし、薬を届けた。
善意ではなく。正義ではなく。
効率と計算と、帳簿に書けないほんの少しの何かで。
世界は変わらない。
だが、届いた薬は本物だ。
それだけで――十分だ。




