第11話:経済という最後の戦場
フリードリヒの防壁が崩れ始めた。
情報爆弾の放出から二週間。レーゲンブルクの空気は確実に変わっていた。
教会への寄付金が減った。三割減。ウルスラの情報網が捕捉した数字だ。信者が減ったわけではない。信者はまだ教会に通っている。だが、財布の紐が締まった。不正蓄財の証拠を見た者は、自分の寄付が大司教の懐に消えることを恐れる。
「ゲルシュタイン辺境伯が距離を取り始めました」
ウルスラの報告は続いた。
「境界の兵を一部撤退させています。フリードリヒとの密約が公になることを恐れたのでしょう。今のフリードリヒに付いていることは、沈む船に乗り続けることと同義です」
「商業規制法は」
「施行はされていますが、実際に適用された例はまだありません。議会の空気が変わっています。法を提出したゲルシュタインが距離を取り始めた以上、積極的に適用する者がいない」
法律は紙だ。適用する人間がいなければ、紙のままだ。
「今が攻め時だ」
私は帳簿を開いた。
「ギルドの顧客に、直接取引を提案する」
カインが顔を上げた。
「ギルドの顧客に? それって、正規の流通に殴り込みってことですか」
「殴り込みではない。比較だ。品質、安定性、価格。この三つでギルドの正規流通と闇市の流通を並べて見せる。顧客に選ばせる」
ギルドの正規流通は、教会の影響下にある。登録料が高く、価格は不安定で、供給が途絶えることもある。対して、私の闇市は品質検査を通し、価格は原価に固定利幅を乗せただけ、供給は分散備蓄で安定している。
数字で比較すれば、どちらが優れているかは明白だ。
「具体的にどうやるんです」
「カイン。お前の村単位取引で実績がある。月に何回、何をどれだけ、いくらで届けるか。その実績を見せればいい。ギルドの顧客は、これまでギルド以外の選択肢を知らなかった。選択肢があると知れば、比較する。比較すれば、数字が語る」
「でも、闇市との取引は違法なんじゃ――」
「商業規制法は死文化しつつある。フリードリヒの権威が揺らいでいる今、法を盾にして闇市を攻撃する者はいない。攻撃すれば、フリードリヒの不正に加担していたと疑われる」
カインは少し考えて、頷いた。
「……分かりました。やります。ただ、ギルドの卸先って大口が多いですよね。うちの供給量で足りますか」
「足りない場合は断る。供給できない量を約束するのは、信頼を壊す最速の方法だ。できる範囲で約束し、約束を守る。それを繰り返す」
「坊っちゃんらしいですね」
「合理的なだけだ」
―――
カインが動き始めた。
一週間で、ギルド経由の卸先のうち三件が、闇市との取引を試験的に開始した。小口からだ。全量を切り替える勇気はまだない。だが、一度取引すれば、品質と価格の差は明白になる。
ギルドの品物は仲介手数料が乗っている。三割。その三割分だけ、闇市のほうが安い。しかも品質検査済み。
「ギルド側が動揺しています」
ウルスラが報告した。
「卸先が離れ始めたことに気づいたようです。ギルドの幹部が教会に泣きつきましたが、教会は今それどころではない」
当然だ。フリードリヒは自分の身を守ることで手一杯だ。ギルドの面倒まで見る余裕はない。
「教会の経済基盤はギルドからの上納金に依存している。ギルドの売上が落ちれば、教会への上納金も減る。フリードリヒの懐が、二方向から削られている形だ」
情報で信頼を削り、経済で収入を削る。
二つの刃で、同時に切る。
これが、帳簿の戦い方だ。
―――
その頃、アナスタシアは別の戦場にいた。
レーゲンブルクの社交界。
フリードリヒの不正が表に出た今、貴族たちの間で「次の体制」についての囁きが始まっていた。大司教が退いた後、教会をどう立て直すか。誰が後任になるか。そして――ハルツ家はどうなるか。
アナスタシアは社交の場で、一つの種を蒔いた。
「大司教様のご退任は避けられないのではないかしら。であれば、穏やかに退いていただくのが、教会のためにも、王国のためにも良いことだと思いますわ」
穏やかに退く。逮捕ではなく、自主的な引退。それが政治的妥協点だ。
教会を完全に敵に回すわけにはいかない。教会は王国の制度の一部だ。破壊すれば、混乱が生じる。混乱は物流を止める。物流が止まれば、薬が届かなくなる。
だから、穏やかに退かせる。
フリードリヒを排除しつつ、教会の機能は温存する。
これは正義ではない。政治的計算だ。
アナスタシアはそれを理解していた。弟の計算を、弟とは違う手段で実行していた。笑顔と社交辞令という、帳簿に載らない武器で。
―――
フリードリヒが「自主的に」退任した。
退任。逮捕ではない。
教会の発表は短かった。「大司教フリードリヒは健康上の理由により、その職を退く」。
健康上の理由。嘘だ。だが、全員がその嘘を受け入れた。フリードリヒを逮捕すれば、教会そのものの権威が傷つく。教会の権威が傷つけば、治癒魔法の信頼が揺らぎ、医療体制に影響が出る。誰もがそれを望まなかった。
フリードリヒはレーゲンブルクを去った。
去る日、彼は笑顔だったという。
最後まで笑顔だった。
だが、ウルスラの報告によれば、馬車に乗り込む瞬間、一度だけ笑顔が消えたらしい。ほんの一瞬。唇の端が下がり、目が細くなった。
それが、フリードリヒの本当の顔だった。
六十五年間笑顔で隠してきた、権力を失った者の顔だった。
私はその報告を聞いて、何も感じなかった。
――何も感じないということが、すでに一つの感情なのかもしれない。
だが、それも帳簿には書けない。
―――
セリウスが動いた。
勇者一行を解散し、個人として復興支援に参加すると宣言した。
教会の英雄としてではなく。誰の指令も受けず。自分の意思で。
グリーンフィールドに向かったと聞いた。疫病の復興が遅れている村々で、一人の人間として汗を流すのだという。
エリンが同行した。ドルフも付いていった。
マグナスだけは、別の道を選んだ。
「マグナスは『考えたい』と言って、レーゲンブルクに残ったそうです」
ウルスラが報告した。
「考える、か」
「はい。彼は知識人です。行動より思考を選ぶ人間です」
「それは弱さではない。思考もまた、一つの行動だ」
ウルスラが少し驚いた顔をした。私がそういうことを言うのは珍しいのだろう。
珍しいかもしれない。だが、思ったことを言っただけだ。
マグナスは、勇者一行の中で唯一、最初から違和感を覚えていた男だ。そしてその違和感を声にできなかった。それは弱さだ。だが今、彼はその弱さと向き合おうとしている。考えることで。
考えた結果、何を選ぶかは彼の問題だ。
私の帳簿には関係ない。
―――
夜。
執務室で帳簿を開いた。
ギルドからの顧客転換。現在六件。月あたりの売上が二割増。コストの圧迫が緩和され、収支が黒字に戻りつつある。
東部の一時停止していた村単位取引も、ゲルシュタインの兵が撤退したことで再開できた。カインが翌日出発する予定だ。
数字が改善している。
地図の上で、物資の流れが太くなっている。山岳路。河川路。地下道。分散備蓄の拠点。村との固定取引。ギルド顧客との新規取引。
網が広がっている。
フリードリヒがいなくなっても、教会はある。ギルドはある。腐敗はある。新しい権力者が現れ、新しい支配を試みるだろう。
世界は変わらない。
だが、帳簿の数字は変わった。
倉庫の数が増えた。河川路が整備された。固定価格の取引先が生まれた。
構造が変わった。
構造は、個人よりも長く続く。フリードリヒが去っても、セリウスが方向を変えても、私が死んでも――構造は残る。
それが、仕組みの力だ。
私は帳簿を閉じた。
蝋燭の炎を見た。
穏やかに揺れている。
明日、カインが東部に出発する。ウルスラが教会の新体制の情報を集め始める。アナスタシアが社交界の余波を整理する。
歯車は回り続ける。
回り続ける限り、薬は届く。
それでいい。




