結城家の騒がしい夜
Side N
「…あぁ、明日の会議の資料はこれで大丈夫だよ。準備ありがとう、万戸部君」
「確認、ありがとうございます」
直が確認した万戸部に資料を返せば、やっと彼の表情から緊張が解ける。
もちろん、彼一人に全ての資料作りをさせたわけではないが、肩に力が入り過ぎてないだろうか。
年若い後輩の肩越しに見えた、かつて営業部から異動して来た自分を鍛えてくれた先輩に視線を向ける。
四十沢は直の視線を受けて、穏和なその顔ににこやかな笑みを浮かべてに頷いてみせた。
ずっと年の離れた後輩の様子も見ていた彼女は、直が何を頼みたいのかを察してくれたのであろう。
自分のデスクに戻る万戸部を追い掛けて、声を掛けている。
…フォローはまかせても大丈夫そうだ。
「千名木さん、添付資料の方は?」
「準備は万端よ」
すかさず返す千名木が今度は直のデスクに近付き、何枚かの申請書類を差し出す。
「申請書類が出来たわ。これ、提出して来ても良いかしら?」
「確認します。……はい、大丈夫です。総務部に提出をお願いします」
「はぁい」
すぐに書類を受け取り、ランウェイを歩くモデルのように長い足を優雅に動かして自分のデスクに取って返す千名木はふと、肩越しに直を見遣る。
その整った顔が、悪戯を思い付いた悪ガキのように歪む。
「ご自分で行かなくて良いのかしら?愛しのご子息がいるのに」
「まだ、仕事中ですよ」
ここで溜めでも作ろうものなら、更に追撃されていただろう。
しかし慣れたもので、直は涼しい顔で返した。
…直は涼しい顔だが、このやり取りをハラハラ聞いていた万戸部が、同期とはいえ上司に対してあんな軽口を叩く千名木に対して青い顔になってしまっている。
その後、そのフォローもすることになった四十沢に、直と千名木は良い年をした男なのに辛辣に注意を受けたのであった……。
終業時間となり、四人はそれぞれ帰り支度を行う。
残業は申請が必要で、昔のように暗黙の了解で残る必要もない。
良い時代になったと、直はしみじみ思う。
「お疲れ様でした。明日もよろしくお願いします!」
「お疲れ様、そんな気負わずに」
ぺこぺこ頭を下げる万戸部と、そんな彼をやんわりフォローする四十沢。
「さーて、ジムに寄って良いでも筋肉鑑賞しましょ」
語尾にハートマークでも付いてそうなご機嫌な様子の千名木。
自分だって、そこそこ身体を絞っているだろうに。
それとこれとは違うらしい。
よくわからない。
「結城君はいつも通り?」
「えぇ、いつも通り母さんを迎えに行きますよ」
四十沢は直の即答に笑みを返した。
千名木も笑ったが、笑みの種類が違ったため黙殺した。
万戸部はきょとんとしていた。
「いつもそうおっしゃっていますね。結城さんのお母様、お加減が悪いのですか?」
「ん?」
今朝の珠稀の様子を思い出す。
「母さんは今朝も可愛かったが?」
それがどうした?
「えっ、はぁ?!えええ…ドユコト?」
何かに混乱するが、やっぱりそれをフォローするのは四十沢だ。
おかげで直は、悠々と妻を迎えに行ける。
「お先に失礼します」
「万戸部君、結城君の言う『母さん』って言うのはね、実母の方じゃなくて」
「あ、四十沢さん待って下さい!それは俺が聞いて良いやつですか!?心の準備がっ」
「いる?心の準備?」
千名木が、最後に追い討ちを掛けたらしいが、専務秘書室のフロアから出た直には『新婚さん!?』という絶叫だけが届いたのであった。
「いらっしゃいませ。こんばんは、結城さん。もうすぐ来るわよ」
「こんばんは、卯月さん。ありがとうございます」
フランス語で贈り物という意味を持つパティスリー・カドーのドアを開けると、店長が声を掛けてくれる。
この店長との付き合いも長い。
彼女も慣れたように、珠稀の退勤を伝えてくれた。
「直さん、お疲れ様!」
店内に客がいないためのんびりと卯月と世間話をしていると、慌てなくても良いのに慌てた様子で珠稀がやって来る。
乱れた髪を整えようと伸ばした直の手は、厨房のドアが開いた瞬間に止まった。
「結城さん!」
こちらも慌てた様子で、もう一人の結城である直には気付いていない。
「どうしたの、犬田君?」
「いえ、長々と練習に付き合わせてしまったので!これ、よろしければ食べて下さい!」
「いいの?」
小さな紙袋は、この店のものではない。
わざわざ、他のパティスリーにて購入したのだろう。
直はモヤモヤした。
「練習は大事だよ、だから次からは気にしないで。でも、これありがとう」
「いえ!喜んでもらえて嬉しいです!近所なんですよ!」
構ってもらった中型犬みたいな勢いで顔を上げたまだ年若い青年は、ここでやっと直に気付く。
喜んでいたその顔が、ぱあっと更に輝いた。
「結城さんの旦那さん、こんばんは!今日、結城さんに絞りの練習に付き合ってもらったんです」
効果音に『わふっ、わふっ』と聞こえる。
元気だ。
「少ないですけど、お礼なんです!お二人で食べて下さい!」
そう言って笑う彼は好青年だ。
フリスピーをキャッチした犬のような顔で笑う犬田に、何だか複雑な気持ちでお礼を伝える直であった。
「仲良いね」
帰り道を歩きながら、直はポツリと溢した。
それを拾い上げる珠稀の声は、のんびりしたものだ。
「そう見える?頑張りやさんなんだよ、犬田君。今日も仕事終わりに絞りの練習しててね…」
「そう」
モヤモヤ。
胸に再び、複雑な感情が浮かぶ。
「流行の話とか私、わからないからね。犬田くん気を遣ってケーキの話をしてくれるんだよ。優しいねぇ」
「それはたぶん、気を遣っているんじゃないよ」
「あと、川沿いとか広い公園とか、おすすめのお散歩コースの話とか教えてくれるんだよ」
犬か?
一瞬で、直は正気に返った。
「私も、直さんと行った河川敷の話をしてね…そうだ、犬田君の教えてくれた公園、花がキレイなんだって!今度、行こうよ」
「一緒に?」
「もちろん!」
当たり前のように、珠稀は笑う。
とてもキレイに、直の複雑な感情を吹き飛ばすかのように笑った。
「なんか、浄化された気分だ」
「えっ、何か言った?」
「いや?母さんは可愛いと思って」




