鈴、バイトする③
side R
大学時代のバイトの話はおしまい。
「では、はじめは書類の分別からにしよう。真澄さん」
「私が教えるわね」
久保田の指示により、真澄と共に書類の分別を行うこととなった。
しばし、真澄の説明と鈴の質問、久保田と猫田がパソコンを打つ音が響く。
「そうだ、鈴君は結城君…お父さんが仕事しているときの話、誰かに聞いたことある?」
「ありませんね」
直の口から仕事の話が出ることもあるが、それは本当に細やかなことぐらいだ。
専務の暴走や逃亡、新規事業の拡大化。
頭を抱える父親の姿を思い出す。
…だいたい、晴人のせいであった。
「まあ、結城君は自分の成果を誰かに言いふらすタイプじゃないものね。…ねぇ、お父さんの仕事の話、聞きたくない?」
素早い動きで書類を分類して、それぞれの山を築く真澄は笑いながら、小説のあらすじでも話すかのようにすらすらと直の逸話を語り出す。
その語り口は、ちょうど良く鈴の興味を引くものだった。
「営業のときの人脈で、遅延していた備品の代替品をなんとか集めてくれた話」
直が元々は、営業部にいたことを珠稀より聞いていた鈴は、素直に尊敬の念を強めた。
そういった話が続くのだろうと、内心期待していた鈴だったが少しずつ雲行きが怪しくなる。
「取引先の社長が突然、竜宮専務に会いに来るも不在。結城君が対応して、何故か愛妻家ということで気に入られる話」
何故、愛妻家だと社外の人にも知られている。
母の何を話した。
鈴は戦慄する。
「取引先の担当に『若僧』と言われるものの竜宮専務の『結婚何年目?』の質問に答えて、担当者が謝り倒すってこともあったみたい。なんでも、担当者よりも年上だったらしいわ。その後、不老不死の薬の開発を疑われた話」
「えっ、あるんですか?不老不死の薬」
先程の晴人の熱弁を思い出し、『まさか』と思いつつ真澄に問う。
しかし、真澄は微笑むだけで何も答えなかった…。
…本当に作ってそうで、恐ろしい。
「最後は赤ちゃん背負い出勤事件。おすすめはこの四つ。どれが聞きたい?」
「赤ちゃん背負い出勤事件!?」
何故、最後だけ事件。
しかも、先の三つは直が優秀だという話だったのに、一つだけ毛色が違う。
「うふふ、それが気になっちゃう?冷静沈着で何でもそつなくこなす結城君のやらかしだからこそ、当時は事件だったのよ。今から二十年以上前ね。当時、営業部から秘書室に異動してきたばかりでね。端から見れば教えをすぐに吸収して、バリバリ働いているように見えたんだけど、本人はだいぶ苦戦していたみたい」
その頃であれば、父は二十代後半だっただろう。
いくら優秀だと言われていても、営業部から畑違いの秘書室に異動となれば苦戦するのも当たり前だ。
ただ書類を分類しているだけで四苦八苦する鈴とは、難易度も仕事に対する責任も量も全て違うけれども、それだけはわかった。
「今時では考えられないのことに、始業時間の三十分前出勤が暗黙の了解のところ、結城君は更に一時間前に出勤して仕事の準備をしていたの」
鈴は直の仕事に対する真摯な姿勢を知っている。
だから、始業時間前に出勤しているのは不思議ではないが…今のご時世からするとちょっと恐ろしい。
「赤ちゃんの夜泣きがひどくて疲弊する結城夫妻。二人で交代しながら背負ってあやしていたみたい。時間は結城君の出勤時間。直前まで奥さんが背負っていたものの、倒れそうになり、慌てて赤ちゃんを受け取り背負う結城君。さすがに寝不足よね。判断力が下がったまま、その状態で出勤。始業時間ニ時間近く前に会社に着いたの。本来なら、人はいないよね、そんなに早く。…だけど、別の部署の係長に見付かっちゃって、怒鳴られたのよ。『そんな子供をつれて出社など、何を考えているんだ!!』って。係長としては、言い方はともかく、間違ってはいないわ。だけど相手は判断力の下がった結城君。『そんな』という部分にカチンと来たのよ。そして返しが『俺のかわいい妻によく似た、かわいい息子ですが、何か?』何を見たのかしらね?短い悲鳴を上げた係長」
そんな早くから会社に来ていたのだ、その係長も真面目な人なのだろう。
しかし、見てはいけないものを見て、言ってはいけないことを言ってしまった。
「そこから怒涛の妻子自慢が始まる!30分過ぎた辺りで、半狂乱になった奥さんが結城君と同じ濃い隈を作ってふらつきながらやって来るまで、延々と続いていたらしいのよ!あははははっ」
笑い事ではない。
係長が可哀想だ。
幸いなのが、仕事が始まる前に全てが終わったことだろう。
仕事には影響しなかったそうだ。
「そんなことがあって、その係長は結城君を見かける度に逃げるようになり、会社には要望が多かった子どもの一時預かり所が出来たってわけ」
「父さん…」
まさか、何かした?
「…真澄さん、仕事中になんの話をしているのですか」
静かな声に、鈴は手を止める。
顔を上げれば苦笑した父の顔。
直はパソコンに向かう久保田へと視線を向ける。
「久保田君」
「真澄さんの作業速度が上がります」
「そうだったな…」
真澄が噂話をすれば仕事の作業速度が速くなるのは、公然の事実のようだ
「結城君、どうしたの?書類は千名木君がさっき届けてくれたけど?」
「一枚追加が出たので、専務のせいで遅れに遅れた休憩を取るついでに届けに来ました」
「愛妻弁当があるのに?あぁ、また何かして奥さんからお弁当の中身を全部プリンにされたの?さすがに、しょっぱいもの買いに行きたくなる…」
「ここでその話はちょっと……」
「でね、その高校には怒った鬼が居るって書いて鬼怒居先輩って人がいてね、すごく怖いらしいよ!」
「強そうな名前ねぇ。あら、鈴おかえりなさい」
「兄貴、おかえり~」
「ただいま」
いつもの風景に、はじめてのバイトで緊張していた鈴はやっと肩から力が抜けたのを感じた。
「お疲れさま。バイト初日、大変だったでしょ?」
脳裏に晴人や久保田たちが浮かんでは消える。
「まあ、そうだね。でも、楽しかったよ」
ここでふと、母にはバイトのことを聞いたことがないことに鈴は気付いた。
「母さんはバイトしたことある?」
「高校生のとき、友だちと一緒に短期のアルバイトしていたけど。長期だと、家のこと出来ないでしょ?兄貴…志良伯父さんに家のこと任せられないし」
愉快犯な伯父を思い出し、鈴は納得した。
「それに家にいれば、……来てくれたし」
「えっ、なに?」
「な、なんでもない!」
「ただいま。どうした母さん、真っ赤になってて可愛いけど」
珠稀は噴火した。




