シナモンと生姜のチャイ(キャラ紹介8)
梨華が先輩たちにくっ付いて街に繰り出したあとの事は、果々子は知らない。
帰って来たのは門限直前だったらしいが、果々子はレポートをやった後、早くに就寝していた。
夢の遠くに嬌声が響いたような気がしたけれど、脳が空耳だと判断した。
早寝のお陰でまだ明けやらぬ時間に目覚めてしまい、外のベンチでコーヒーでも入れようと、道具を持ってソロリと部屋を出た。
五月二日 木曜日、新年号の二日目。
いつもと変わらない、シンと黒光りする寮の床。でも昨日までと違う景色に見える。
(私は、これまでと変わらずここで過ごす)
でも先輩たちとはあまり関わらないようにしよう。
気を使わせないよう、負担にならぬよう、空気のように、大人しく過ごそう。
居るだけで頭数になれる、それで満足していよう。
明るい空気は、人形のように可愛いヒロイン 白鳥梨華が担ってくれる。
――夕べ、ベッドの中で、独りで結論付けた。
(だって私はもうここが好きなんだ、好きでいるのはやめられない)
無人の食堂を通って外に出ると、朝霞のベンチには先客が居た。
「おはよう、遠山さん。早起きですのね」
赤いヒジャブの佐原手先輩だ。
確か三回生で、昨夜の飲み会にも行った筈。そちらこそ早起き凄い。
話し方がワンテンポずれてゆっくりで、どこかつかみ所の無い人だ。
「お、おはようございます」
「マナスルでお湯を沸かすの?」
「はい、モーニングコーヒーしようかと。あ、うるさいから離れます」
佐原手先輩は、果々子とマナスルの間で少し視線を泳がせて、
「あの、宜しかったら私の入れたお茶を、一緒に飲みませんか?」
と、手元の鍋を示した。
真鍮の小鍋にシナモンと生姜の入ったチャイがいい香りを放っている。
す、す、凄く美味しそうだ! 飲んでみたい!
しかも今日は七輪でなく、手のひらサイズの小さい焚き火台だ。何あれ、あんなのあるんだ、近くで見たい!
しかし果々子はグッと堪えた。
佐原手先輩は自分に気を使って誘ってくれているのではないか。本当は独りではんなりしていたいのではないか。
「ぁ、の……」
「ああ、口がコーヒーになっていらした? 朝一番の胃がからっぽな時はミルクティーの方がいいかしらと、余計な事を」
「いいえっ、ぜんっぜん余計じゃないですっ。スパイス大好きで、美味しそう過ぎて、本当にいいのかなあと」
「ふ、ふ、遠慮しないで」
先輩は果々子のカップにチャイを注いで、ミントの葉を浮かべてくれた。
二人、ピクニックテーブルに差し向かいでお茶を飲む。香り豊かでほんのり甘い。贅沢だ、そして美味しい、なんて素敵な時間。
――また、先輩に、頂くばかりだ……
「実は少しお喋りしたかったの」
「そうですか(本当に? 気を使っていない? 見極めが難しい)」
先輩は自分のヒジャブの両端を少し持ち上げた。
「私のこれ、どう?」
――へ?
「とてもお似合いです」
「ありがとう」
「ただ……」
「うん?」
「先輩みたいに小顔でないと似合いませんよね」
「そんな事は……」
「実は昔憧れて、エスニック洋品店で試着をした事があるんです」
「まあ、本当に?」
「『ほっかむりん』だったので断念しました」
「え、ほっか・・むりん? って、何?」
「妖怪です、こう、二足歩行のカエルの姿でほっかむりをして、夜中に踊る妖怪……知りませんか」
「知らないわ」
しまった地域限定妖怪だったか。話が逸れ過ぎた、先輩が困惑している。
「い、一緒にいた友達も、店員さんまで、ほっかむりんだって言って笑うんですよ。そんな記憶があるから、ここへ来て、私の憧れていた物をピシッと着こなしている方がいて、わあ凄い、羨ましいなあってつい眺めていました。そういうのが感想です」
「あら」
これで返答になっているのかなと思ったが、先輩は両手を頬に当てて嬉しそうにしてくれた。その仕草は癖になっているみたい。そして似合う。
それから
「私って、途中入寮なの。入学時は市内の親戚宅に下宿していたのだけれど」
いきなり話し始めた。
「はい……」
果々子は相づちだけ打って静かに聞く体制に入る。
「一回生の時、憧れた同級生がいてね。イスラム圏からの留学生で、物凄く綺麗で優雅で、思いやりがあって素敵な人だった。友達も多くて周囲の何人かで彼女とお揃いのスカーフを巻いて歩いてみたり」
「いいなあ、私も会ってみたい」
「写真があるから今度見せてあげるわ」
「はい、是非に」
「その人がね、年末のお休みに一時帰国したまま、家の事情とかで急に退学してしまったの。あまりにいきなりだったのでお別れも何も出来なくて。ただ寮のお部屋の片付けを手伝った時、主の帰って来ないぽっかり空いた空間が寂しくて、思わず入寮を申し込んでしまったの」
「…………」
果々子は唾を飲み込んだ。上手い相づちが出て来ない。
「衝動的で何も考えていなかったんだと思う。けれど今の周囲の総てのご縁は、彼女のもたらしてくれた物だと思ってる」
言って先輩は、相づちの出来ない果々子の両頬に手を添えて、
「今度、一番似合う布を見立てて差し上げるわ」
と微笑んでくれた。
艶めいた唇にドキリとする。その女性もきっとこんな笑い方をしたんだ……
「そ、その方が」
ドキドキが止まらない果々子の口から勝手に言葉が転がり落ちる。
「おうちの事情が落ち着いて戻って来られた時、佐原手先輩が居場所を守っていてくれた事を知ったら、きっと大喜びですよ」
先輩の小さな顔の中の茶色い瞳が、これ以上ない程に見開かれた。




