第63話『夢の名残り』
☆
――七月八日。水曜日。お屋敷の屋根裏部屋。
いつもの通り、朝五時ちょっと前に目を覚ました私は。
いつもと違い、学院の制服に着替えてから廊下に出る。
ずざ、と鈍く引っかかるような足音。
湿気を含んだ、床板のせいだろうか。
温かいとも冷たいとも言えないこの纏わりつくような空気は、きっとこの世界特有の、遅れて訪れようとする夏の気配。
まるで、私自身の環境の変化に呼応するかのように。
ヘリオスレッタの季節もまた、変わろうとしていた。
「ふぁあああ………」
隣の部屋の扉が開いた。欠伸をしながら部屋を出て、小窓から射し込む淡い朝日に目を細めたのは、ジスティさんだ。
「おはようございます、ジスティさん」
「……あら。おはようさん、マリモ。せっかく仕事から解放されたってのに、もっと寝てなくていいのかい?」
「この時間に起きるのが、すっかり習慣付いてしまったんです。それに昨夜は挨拶をするタイミングがなかったので」
昨夜は本当に気力も体力も消耗していたのか、あのお茶会の終幕と共に気絶するように寝落ちしてしまった……らしいことを、夕食の残り物――主人の演説成功パーティー仕様でかなり豪華だった――を持ってきてくれたプランから聞いた。
そのときの時刻は既に日付が変わる頃合いで。
最終日らしくきちんと挨拶回りをしようと立てていた目論見は見事にご破算。
プランが私の分の朝食も用意してくれるみたいなので、階下の大部屋で話す機会があるといえばある、けれど。
こういうのって、一対大勢よりも、一対一で話したいから。
だからこうして、早朝に動き出した。
八日間の使用人生活で得た知見を駆使し、忙しない朝業務の、しかし意外と存在する隙間時間に、使用人方のもとを巡ることにした次第なのだ。
「とてもお世話になりました。ジスティさん」
「こちらこそだよ。マリモはまあ……よくできた後輩だった。もう少しボロを出したところを見たいと思うぐらいにはな」
「今のは分かりにくいときの冗談、ですね?」
「でも分かってくれた。そういうマリモなら、どこでだって上手くやっていけるさ。だから正直、特に言いたいこととかないんだけど……」
そうは言いつつも、ジスティさんはその艶のある黒髪をふわりと揺らして。
優しく私の後頭部に手を回し、ちょっとだけ強引に、抱き寄せた。
「――――」
ジスティさんの胸に、顔を埋める。
鼻孔を撫でる大人の香り。確かな熱を感じる柔らかい感触。
とっさのことに全身が強張り、鼓動が跳ね上がる。
だけど、それも一瞬のこと。
「沢山寝て、沢山食べて、沢山楽しいことをしろよ。……いいか、これは大人になったらできないことだから子供のうちにやっとけ、なんて話じゃあない。子供だろうが大人だろうが、それは生きていくのに必要不可欠なことなんだ。人生って案外、それにいつ気付くか、それをいつまで忘れずにいられるかなんだよ」
「…………」
「なあマリモ、使用人生活は大変だったか?」
「……ええ。すごく」
「じゃあそれは、楽しくないことだったか?」
「……いいえ、決して。……本当に、すごく楽しかったです……」
「なら、そんな風に胸張って楽しいと言えることを、一つでも多くやってみるんだ。そうしたらきっと、寝ても覚めても、良い夢が見られるはずさ」
……ぽん、と頭に手を置かれる。
優しく髪を撫でられる。背中を叩かれる。よくやったと褒めるように。
ゆっくり休んで、それからまた歩き出せるように、と。
それがあまりにも心地良くて……久しぶりに思い出した。
誰かに抱き締められることは、こんなにも無防備で、すごく恐ろしくて。
でも、何よりも安心することなのだと。
……ああ。私は馬鹿だ。ジスティさんがこんなにも私を見てくれていたことに、今さら気が付くなんて。
いつか教わった、ハウスメイドの心得を思い出す。
――自分の腕を伸ばしたとき、手の届かない物には触らないこと。
それは逆に言えば。
手の届く範囲の物は自分で掴み、そして取りこぼすなということだ。
私は……星に手を伸ばした。
届くことがないとしても、そうすることが私の、言ってみれば生存戦略だった。
それは今でも変わらない。
私は、私の中に渦巻く虚無への欲望に反逆し続けている。
……だけど。
墜ちないために翼を広げて、手を伸ばし続ける術を手に入れたのならば。
次はその教えを生かして、あまり星を見上げてばかりいないで、すぐ隣にある奇跡にもきちんと目を向けるべき……なのかもしれない。
ええ……大丈夫。目を離しても心配はない。
たとえ夜が明けても、分厚い雲に覆われていても。
私には見えているから―――その向こう側で、きっと輝いている星の光が。
「……ありがとうございます。ジスティさんから教わったことは、これからどんな道を行こうとも、決して無駄にはなりません」
「教えだなんてとんでもない。これは甘言さ。こう見えてあたし、結構甘やかし上手なんだ。特にマリモはラフィーに似てるからねぇ」
「え、ラフィーネさんと?」
「あ――やば。……っと、今のは忘れてくれ。つい口が滑った」
ジスティさんは顔を逸らし、誤魔化すように口角を上げた。
そんな反応されたら、さすがに深く突っ込むつもりはない、けれど。
さっきの言葉が、私がラフィーネさんと似ているタイプだからその甘やかし方を心得ている、という意味だとするなら。
「…………」
勝手に脳内出力される、威厳と品格を備えた麗人の、ちょっと不名誉な映像。
…………忘れよう。
家令の優美さを損なうノイズは、少なくともこの旅立ちの日には相応しくない。
軽く頭を振り、不埒なイメージを頭の外に追いやって、一歩足を引いた。
さて……そろそろ時間だ。
これ以上ジスティさんを引き留めてはいけない。
「んじゃあたし、仕事するからさ。マリモもマリモのやりたいこと、やるべきこと、こなしてこいよ」
「はい、ジスティさん――本当に、お世話になりました」
深く、深く頭を下げた。
そうしてジスティさんはいつも通りの日常へ、私は階下へと降りる。
裏口から外に出て、お屋敷の正面へと回る。
――夕方と見間違う、斜陽の射す庭園。
彼方にまだ夜の青さが残っている空の下、私は門扉のほうに向かう。
すると、近付いてくる私の足音に気付いたのか。
箒の柄の先端に両手を、さらにその上に顎を乗せて、鳥の鳴き声に耳を傾けていたトワルさんが、こちらを振り返った。
「あ、おはよーマリモ」
「おはようございます、トワルさん」
「この時間にその恰好で居るの、なんだか新鮮だね」
「思えば私、学院でもお屋敷でも制服で事足りていたので、私服ないんですよね」
正確には取りに行く機会を逃し続けているだけで、何着かはキリエの家に置いてある。
だけどそれも、お洒落ではなく実用重視の普段着というか。
友人の家に泊まる際にコンビニで買った着替えみたいな感じで。
自分の好みに合わせた私服というのはやっぱりまだないのよね。
「あははっ、分かる。分かるよー。お屋敷に住み込みの時点で、自由に外に出る機会って少なくなるしね。わたしは結構意識して、外出もそのための服も増やすようにしてるけど……そうだ。もしお洒落したくなったら、今度『ミラベラ』ってお店、行ってみて。わたしのおすすめ」
「『ミラベラ』……そこってもしかして『トランクストリート』の細道の、向かいにパン屋さんがあるところですか?」
「そうそう! もう行ったことあった?」
「え――――と」
……しまった。迂闊なことを口にしてしまった。
私は脳をフル回転させ、あの再誕の日々のことを思い出しながら、破綻のない言葉を紡ぐ。
「以前あの辺りを通ったときに、目に留まって。それで気になっていたんです。トワルさんのお墨付きなら、間違いないですね」
「いやー、あそこに目を付けるマリモのセンスも中々と見たよ? あのお店、色んな国の再現服があって、着ても見てても楽しいんだよね。いつかマリモのコーデも見せてよ。楽しみにしてる」
「はい。そのときはトワルさんのも、ぜひ」
「もちろん! あ、ところで前に話してさ――――」
……と、無事話題の軌道修正ができた後。
私たちは閑静な朝の空気の中で、何でもない話を繰り広げた。
トワルさんが完結を見届けられなかった映画シリーズの結末とか。
実は今魔族との同棲や恋愛といった異種交流ブームが来ているとか。
ヘリオスレッタを一番異世界に感じるのはスマホがないことだとか。
そんな感じの話題で、静かに笑い合って。
会話が一段落したところで、私はお辞儀と共に挨拶を切り出した。
「……八日間、お世話になりました。トワルさん、とても接し易くて、一緒に居ると安心して仕事をすることができました」
「うん。そこのところ、年上の威厳を代価に頑張りました。厳しい先輩役しかいない職場って、見てて窮屈っていうか不毛だからねー。同じ目線で見てくれる、いい意味で普通の、先輩らしくない先輩――昔居て欲しかったから、そういう人に」
トワルさんは昔を思い出すように目蓋を閉じて。
再び箒の柄の先に手と顎を置いてから、軽く笑みをこぼした。
「あは、ヘリオスレッタ的発言だったね? でも、マリモから見たわたしがそうだったなら何よりだよ。
……それじゃあ、お疲れ様、マリモ。いつか街で会ったら声かけて。お茶の一杯ぐらいは奢ってあげるから。あ、逆に奢ってくれるのも全然歓迎!」
「……はい、覚えておきます。お疲れ様でした、トワルさん……!」
深く頭を下げて、私はお屋敷の中に戻るため、踵を返した。
その道中、私は何となくトワルさんが言っていたことを反芻する。
いい意味で普通の、先輩らしくない先輩……か。
ただ優しいだけでなく、優しさを意識させない人。
言い換えるならば、相手を自然体のままでいさせることのできる人。
――――、それって。
お互いが分かり合い、変わり合える理想とはまた別の。
お互いが分かり合うことも、変わり合う必要もないという……理想、よね。
「…………」
ジスティさんが、そしてトワルさんが紡いだ……日常に溶け込んで、つい見逃しそうになる、思いやり。
上手く言葉にできないけれど、そこには。
いずれ私が必要とする、新たな選択肢がある。
そんな、私にとってとても大切なピースのような気がした。




