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ビニース・ザ・ウィール -反逆少女と宝石令嬢-  作者: 悠葵のんの
第三章《fly me to the sky blue sky》
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第62話『夜桜のお茶会』

     ☆


 ――ベルナデット様の案内で、白桜《はくおう》の森に入った。


 それから方角としては教会側、つまり北西のほうに五分ほど歩いたところで、私たちはその場所に到着する。

 そこは森の中の広場だった。曰く、学院内の憩いのスポットの一つだという、伐採と伐根を繰り返して円を描くように切り拓かれた空間だ。


 ベンチやテーブルといった設置物はないものの、地面には自然公園のように手入れされた芝生が広がっており――休日の昼間、広い空の下、気持ちの良い風に吹かれながらピクニックをしている生徒たちの姿が、何となくイメージできた。


 とはいえ時刻はもう夜の八時近く。

 実際に目に映る光景は、牧歌的な昼のイメージとは真逆も真逆で。

 いや、しかしそれは、日が沈み切った林中ではもはやまともな視界など確保できるはずもない、という意味では断じてなく。


「――――」


 今夜も月が煌々と輝いているからか。

 あるいは白桜の花弁が、降り注ぐ月明かりを吸って自ら発光しているのか。

 街灯一つない森の中だというのに、ここは、淡い光で満ちていた。


 ――青い夜。眼前に広がるのは、溜め息が出るほどに幻想的な光景。


 中でも一際目を惹かれたのが、広場の中心だ。

 そこには、ほかの木々より一回り大きな樹が一本、周囲を見守るように、あるいは見守られるように佇んでいて。

 どこか朦朧とした、日本画のように幽玄清らかな空気を纏うその樹木が、この場の神秘性をより強固なものにしていた。


 この樹の下で告白をした人は、とか。

 この樹に無礼を働いた者は、なんて。

 そんな言い伝えがあってもおかしくない、御神木のような樹よね。


 ……とか言って、実際にそんな伝説があった場合。

 それを桜に変えてしまうという、いかにも罰当たりな真似をした身としては、今後どのような天罰が下るのかと、戦々恐々とせざるを得ないのだけれど。


「…………」


 ……伝説と言えば、ふと。

 いつか受けた美術の授業で、教師が雑談的に話していた絵のことを思い出す。

 確か、とある日本伝説を八枚の連作で描いた作品があるのだが、その最後を締めくくる一枚には、このような美しい白桜が描かれていたのだ。


 舞い散る雪のように描写されたあの花びらを、途方もなく綺麗に感じたことを、ぼんやりと覚えている。


 もつれ合う嘘と執着。逃げる男と追う女。焼身と入水。

 連作の下地となったのは、愛憎の果てに亡くなってしまう二人を描いた、悲恋のお話で。

 結末としては、物語の途中に出てきたお寺の住職が、供養した二人を境内の立派な桜の木の下に埋葬するという中々どうして切ない――ん、あれ?


 ちょっと待った。記憶を手繰っていて思ったけれど。

 時系列的には、二人を埋葬したあとに、同じ場所に桜の木が育ったのだっけ? 

 ……まずい。その辺り、結構曖昧だ。

 というか何なら、あくまで原典においては、二人を桜の木の下に埋葬するという話すらなかったような気もしてきた。

 

 ま、まあ伝説というものは得てして、地方地域によって諸説あるものだろうし。

 そもそも作品の下地にしたからといって、必ずしも細部まで一致しているとは限らず、させる必要もないとは思う……けど。


 もしも事実として、連作の最後を飾った桜が原典にはなかったモノだとするなら。

 かの画家は、一体どのような想いで、物語の最後にあの白桜を描いたというのか。


 報われない悲恋を、色を漂白した桜で表現したのか。

 愛憎の果てにも、綺麗な花が咲くことがあると考えたのか。

 もっと単純に、桜の木の下には死体が埋まっている、という言い回しから着想を得たという線もなくはない。


 なんて――色々考えてみたものの、ヘリオスレッタという異世界に転生した以上、もはや事の正否を確かめる方法はない。

 ならばあとはもう、私が私なりの解釈をするしかない、か。


 絵筆が描き出した、静謐なる白桜。

 ……そして今、目の前に存在している、

 空想が具現化した、稚拙で遠大なる白桜。


 それは離別の象徴、悲劇の徒花《あだばな》か。

 または離別の先に咲く、誇らしき思い出の花束か。

 あるいは、いずれ我が身の墓標となる、弔いの晩鐘か――――。


「――それでは、お茶の用意をいたしますね」


「うむ」


 少なくとも今日のところは……ここは、お茶会の会場だった。


 三十分ほどかけて椅子とテーブル、ティーセット一式を持ち込み、並べた。

 運んだのは当然、使用人である私――というわけではなく。


 道すがらに寄った女子寮で歓待を受けていたラフィーネさん――普段通り放課後に馬車で迎えに来ていたが私が寝ていたためずっと待機してくれていたそうだ――と、校舎前の噴水の縁石に寝転がっていたライナさんが、一応は病み上がりである私を案じ、作業を引き受けてくれたのである。


 セッティングはそのままお二人によって速やかに済まされて。

 そしていつの間にか、その姿は煙のように消えていた。

 気を使ってくれた、ということなのだろう。

 多分これが、ベルナデット様の使用人として過ごす最後の夜だからと。


「夜桜のもとでのお茶会――中々に浸れるシチュエーションだな」


「ふふ、そうですね」


 相槌を打ちながらポットに茶葉とお湯を入れて、抽出を開始する。

 砂時計をひっくり返して、と……よし。

 この手際の良さ。我ながら、あの中庭のお茶会から随分と成長したものだ。

 たった八日間。されど八日間。感慨深い気持ちと共に、私も椅子に座った。


 ベルナデット様とは対面ではなく、テーブルを挟んだ横並びだ。

 お互いの視線は、はらはらと花弁を散らす、白桜に向けられている。


「この景色が見られるのもあと幾許か。砂が落ち切り、淹れた紅茶を飲み終わった頃……君はこの森を、以前の姿に戻している」


「はい。自らの手綱を握りそれが可能になった今、ようやく、変えてしまった責任を果たすことができます」


 空想具現――それは私に宿った魔法でありながら、キリエの生み出すエトランゼ粒子という鍵がなければ使えなかった能力。

 それゆえに私は、学院への入学を決めた。

 この力を独りででも扱う術を学ぶために。

 そして今日、その目標は晴れて達成されたと言っていいだろう。


 そこに至る過程は、時間も経験も、想像していたものとはだいぶ違っていたし。

 思えば期せずして、先輩が教えてくれた起源論を証明してしまったのだけれど。

 それはさておき、だ。


 私は灯火の世界で、運命の剣を掌握した。

 そして『慈愛《じあい》の剣《つるぎ》』という神性――新たな鍵を手に入れたことに、間違いはない。


 剣の法則《のうりょく》はあくまでも『絶対無血領域』として発揮されるが、力の出所は同じ。

 ということは、だ。

 展開された結界の中であれば、私は空想具現の力を使うことができるのだ。


 ……できるはず、なのだ。

 新たな鍵がどこまで扉を開いてくれるか、具現化が同じ出力で発動されるかは、まだ試してないから分からないとしか言えないけども……。


 ……と、さっきまで勢い付いていた気持ちが段々落ち着いてきていた私だった。

 これではいけないと思い、顔を上げて夜桜へと視線を戻す。

 具現化のために、きちんと脳内シミュレーションしてイメージを固めないと。


「個人的な意見を言わせてもらうなら」


 ふと、同じ景色を眺めていたベルナデット様が、桜を見たままおもむろに言った。


「……私は、このままでもいいと思っているよ」


「え?」


「この白い桜だって、学院に沢山の思い出を作れるはずだ。私以外にもこの景色を好ましく思う生徒はいるだろう。君も一人や二人ぐらい知っているのではないか?」


「それは……」


 あの白い桜、すごく綺麗だと思ったんです――そう言って、窓の外を眺めていたクロヴィスの姿が、脳裏をよぎる。


 この場所に来る道中で聞いた話によると、何でも彼はラルエットに協力していた生徒と対峙した際、やむを得ず桜を何十本もダメにしてしまったらしく、式典が終わったあともそのことをだいぶ気にしていたという。

 そこまで心を寄せてくれたこの森が、元に戻ったら……彼はどう思うだろうか。


 また桜に戻せ、なんてことは絶対に言わないはずだ。

 むしろ何だかんだと、私の選択を尊重してくれることだろう。

 でもその胸の内には、まるで爪のささくれに布が引っかかったときのような、些細だけど無視できない感覚を残してしまう……そんな予感がした。


「変えた責任があるという話をするなら、君には同時に、この奇跡を無かったことにしない責任もあるのではないか?」


「無かったことにしない、責任……」


 それは新たな姿を、不可逆の変化として前向きに受け入れるということ。

 変えてしまったことで生じるモノを、きちんと、受け止めるということ。


「無論、すべてをこのままにしろだなんて極端なことは言わないさ。ただ、一部だけでも残してはどうかという、ちょっとした提案だ」


「…………」


 白い前髪越しに桜を見上げ、思案する。

 この森を元に戻すことは、学院に入学した理由の大部分を占めている。

 だからつい、その最初の動機について、思考を止めていた部分があった、けれど。

 この八日間で獲得したものは、決して魔法だけではないはずだ。

 だから……うん。


「……考えが及んでいませんでした」


 私は自分でも驚くほどあっさりと、そう言うことができた。


 ――利己的利他主義。


 矛盾と共存して生きていくための、私の流儀。反逆の作法。


「ありがとうございます、ベルナデット様。まずは意見を集めるところから始めてみます。そうしてできるかぎり、皆が納得できる形にしたいです」


「納得か。ああ、それがいい」


 それは、一人で責任を負うのとは違った形になってしまう。

 どうしても私は……身勝手さを振り翳すというなら、最後までそれを貫き通して、何もかもを傷付きながら受け止める姿勢のほうが、重く価値のある真実めいたものに思えて、そうするべきだと考えがちだけれど。

 まさしくそんな生き方をするベルナデット様に、憧れを覚えているけれど。


 もしもそれで悲しむ人がいるなら――いや、悲しむ人がいるかどうか、それを回避する第三の道があるのかをまず知るためにも、対話するところから始めなければならないのだろう。

 ベルナデット様が今、私に対してそうしたように。


 ――ピリオドを打たなければならないことがある、なんて格好付けた手前、すぐに方向転換してしまうことに、情けない感じはするけどね。


 砂時計の砂が落ち切る。

 私は紅茶をカップに注いで、そして。

 ベルナデット様と二人、カップに口を付けてそっと、熱い紅茶を喉の奥に通した。


「…………」


 それから何となく。

 夜桜を心の内にしまい込むような、言葉を探るような、そんな静寂が流れた。

 しばらくして口を開いたのは、ベルナデット様のほうだった。


「……先ほど、ライナとも話したのだが。落ち着いたらミリエルに顔を出そうと思っている。シスターたちと話をして、支援の継続を求められなかったときは――終わりを見届けるつもりだ」


「終わり、ですか」


「私はミリエルの存続を望んだ。だから与えた。そうすればあの場所にあった眩しい温もりが永遠になると思った。子供たちも、それを受け入れてくれた。……だが」


 ベルナデット様は手元のカップに視線を落とす。

 鏡花水月。水面に映っては揺れて消える、幻の桜を見つめるように。


「ミリエルは子供たちの今を守っても、より良い未来を築けるとは限らない」


 より良い未来。玲瓏とした……未来。


「現状を維持することもまた戦いだ。しかしミリエルという場所が、子供たちを縛り付ける鎖になるのは本末転倒だろうという話さ」


 持っている者だから与えるのではなく。

 与えるために持っている者で在りたい彼女は言う。


「与えると一口に言っても、やり方は一つではないはず。ライナを使用人として雇ったように……」


 ほかの子供たちをプティ・シムティエールで雇うのか。

 あるいは他の施設で引き取ってもらえるよう人脈を駆使するのか。

 引き取った先の待遇やその後の支援はどうするのか。

 それは何年後まで続き、自立させるためにはどうすればいいのか。

 そして巣立った子供たちは、いずれ自分や社会に何をもたらすのか。


「―――――」


 顔を上げるベルナデット様。その眼差しは、果てなどないように遠くて。

 金銭的支援という、一つの手段のみを映していた瞳は過去のものとなり。

 今や無数に枝分かれする道の、その枝先までをも見通しているように感じられた。


「我々は今を生きるだけで必死だが、しかし誰かが、後ろに続く者たちのことを考えなければならない。……おっと、今のは委員会に対する批判ではないからな? ただそれこそが、永遠を宿す私の役割ではないかと、漠然とだが考えているのだ」


 それはまるで、盤上を見下ろすプレイヤーのように、冷徹な思考が滲む声だった。


 ……同じだ。あの日のラザリオ・ミラーと。

 やはりこの方も、前世の記憶を持たずに生を受けた、未来玲瓏協会の一員なのだと実感する。

 過去と向き合うこと、後悔に寄り添うことに重きを置いている青春履行委員会の在り方とは真逆で。

 それこそが、これまで世界を、命を存続させてきた掛け替えのない想いで。


 だけど、過去が無意味なわけではない。

 ベルナデット様という鏡を通して、私は過去の私を受け止めた。

 それはまだ、受け入れたとは、決して言えないだろうけど……。

 だけど少なくとも、未来を求めることは過去を捨てることではなくて。

 そして過去と向き合うことは未来を捨てることではないのだと、そう思えたから。


 だから、私は。

 委員会《かこ》と協会《みらい》――そのどちらでもない、私の往く道は。


「…………」


 カップを傾けて、唇を紅茶で濡らす。

 それから私はポットの中の紅茶を、それぞれのカップに注いだ。

 空になったポットをテーブルに置く。

 空洞が響くその音を聴いて。


 この一杯を飲み干したら、いよいよ、このお茶会は終幕だ――と。


 私とベルナデット様は同じことを考えた。そんな気がした。


「マリモ」


 再び、ベルナデット様のほうから言葉が紡がれる。


「君のことを、名前を呼んでも構わないだろうか?」


「――――それは」


 予期せぬ問いだった。

 声が詰まり、私は目を伏せる。


 そうしたい理由を問い返すことはしない。

 なぜならベルナデット様はただ、終わりを見据えて、少しでも多く何か残るモノがあるようにと希っただけなのだと、そう思ったから。


 だから私が返すのは。返せるのは。


「申し訳ございません。私の過去にまつわる個人的な理由で、どうか……今はまだご容赦を」


「……そう、か」


 それに応えられない心苦しさ――と、そして。


「ですので、愛称というのはいかがでしょうか?」


 お互いが納得できる可能性を探るための、新たな提案だ。

 私の言葉に、ベルナデット様は一瞬、不意を突かれたように口を開けてから。


「……愛称……ああ、ふふ」


 確かめるような色で声にして、そっと微笑んだ。


「一足飛びな感もあるが悪くないよ。参考程度に聞くが、メニューはあるのか?」


「一つだけ――マリー、と。キリエしか呼んでいない変なあだ名ですが、ベルナデット様もよろしければこちらを」


 そう提案してみると、ベルナデット様は途端にえらく神妙な顔をして、一言。


「…………いや」


「い、嫌……?」


「いやいや。待ちなさい。私にだってプライドはある。プライドしかない。……それが十人目とかその他大勢ならまだしも、二番目というのはどうにもな……。悪いが今この場で、新しい愛称を考えさせてもらう」


 言って腕を組み、思索に耽ってしまうベルナデット様。

 ……二番目、か。そういう言い方をされたら、まあ気持ちは理解できなくもない。

 大切なのはそこに込める想いだ。形なんて唯一である必要はない、けれど。

 やっぱり、唯一であることの嬉しさってあると思うし。


 せっかく特別を遺すのだから。できるだけ多くの喜びを詰め込みたい。

 そんな、夜桜に降られる少女心を見守りながら、ベルナデット様の言葉を待った。


「――――」


 しかし中々良いものが浮かばないのか、一分、二分と無言の時間が過ぎていく。

 無理もない。名前で呼ばれることに抵抗がある意思を伝えた以上、ベルナデット様は配慮して、マリモという苗字のみを素材に愛称を考えてくださっているはず。


 とすると選択肢は必然的に絞られてくるが、真っ先に浮かぶだろうマリーは既にキリエが取ってしまっている。

 いや、取っているという表現が正しいかは分からないけどね。


 別に私としては全然マリちゃんとかでもいいのだけど、ちゃん付けで呼ぶイメージがベルナデット様にあるかと言われると……うぅむ。

 眉間に皺を作るベルナデット様に引っ張られて、私も謎の焦燥感を覚えてきた。

 ならばここは一つ、気分転換がてらに。


「そ……そういえば、近日中にラザリオとも契約を結ぶのですよね?」


 と、新たな話題を提供してみる。こちらも密かに気になっていたことだ。


「ん――ああ。彼とジャン・マルシャン、そして私。これで必要なピースが揃うからな。中々どうして敵が多そうな道行きだが、プロジェクト再始動の時だ」


「おめでとうございます」


「人工魔石の普及は世界に変化をもたらすだろう。『致命的で運命(ルージュ・)的な破滅の赤(ファタール)』を人々がどう乗りこなすのか、私の名が後世にどう刻まれるのか、老後の楽しみにしていてくれ。そのためには早速明日にでも、ミラー商会に出向いてマルシャンのことを認めさせなければな。ふ、彼はさぞ私の翻意におどろ――」


「ベルナデット様?」


 途切れた言葉。とっさに表情を窺うと、ベルナデット様は口元に指を当てていて。

 まるで無数のピースから一つの推理を組み上げた名探偵のように、にやりと、得意げに口角を上げた。


「不覚にも、彼の名前から一つ思いついた。屋敷の書斎に非統一言語の辞書を置いていた父に、今だけは感謝するよ。……君は、使用人名については知っているな?」


「はい」


 使用人名とは、ロードナイト家の伝統で精鋭に送られる二つ名、称号のことだ。

 ――まさか、と私は予感し、ごくりと息を呑んだ。


「それに倣って、君にも名を送りたい。受け取ってくれるだろうか?」


「――――――」


 声が……出なかった。

 代わりに、涙が流れそうだった。

 ただひたすらに、喜びに心を貫かれて、打ち震えた。


「……とても……」


 それでも何とか、目尻に湛えたモノより先に、私は声を流す。


「……とても光栄です、ベルナデット様……」


「ふふ、その顔が見れただけでも気分は最高だが、感激するにはまだ早いぞ」


「で……ですが、よろしいのですか? 私はお屋敷を去る身です……」


「構うものか。いつか、月《てん》と海《ち》が私たちを別とうとも。君が私の使用人である現在《いま》に、変わりはないのだから」


 天と地。月と海。冥府と――この惑星《ほし》。

 たとえ永遠の果てまでも。

 一度記された事実は、決して無かったことにはならないのだからと。

 ベルナデット様は不敵に笑ってみせて。


「君は私という宝石を映す鏡。ゆえに――」


 騎士に勲章を授ける女王の如く、厳かにその言葉を告げた。



「――――『主人の鏡(ミロワール)』。この名を授ける」



 そっと……胸を押さえる。

 嬉しくて。苦しくて。切なくて。

 私に差し出されたその想いを、何にも渡したくなくて。

 心の中に納めるように、私という存在のすべてで、それを抱き締める。


「………………っ」


 ……分かっている。これは欺瞞だ。我が儘だ。

 だけどいつか、この瞬間が、時の流れの中に消え去ったとしても。

 どうか、残るモノがあるようにと、万感の想いを込めて、祈った。


「ミロワール――確かに頂戴いたしました。ありがとうございます。ベルナデット様」


「……マドレーヌ。そう呼んでくれないか」


 主人は少し照れるように、言う。

 私も少しだけ、恥じらうように声にする。


「よろこんで。マドレーヌ」


「……二人きりの時、だけだからな」


 頷く。自分でも驚くほど穏やかに笑って。

 それは、幼い頃に行った悪戯のような、何よりも楽しい小さな小さな秘め事。

 使用人名であるミロワール。ミドルネームであるマドレーヌ。

 鏡合わせのM――彼女がそこにどれだけの特別を込めたのか。

 言葉にするなんて野暮だ。


「…………」


 カップを手に取り、いつの間にか空になっていたことに気付く。

 ポットの中を見る。こちらも、もう空っぽだ。

 ……ああ、そうか。

 寂しいけれど。終わりの時間が、やってきたようね。


「――――――――」


 ……いつの間にか。

 マドレーヌの切なげな眼差しは、卓上の砂時計へと向けられていた。

 最後の砂はとうの昔に、重力に引かれて、落ち切ってしまっている。

 微かに指先を震わせて、彼女は手を伸ばす。

 もう一度だけ、砂時計をひっくり返させて欲しいと。


 この時間をいつまでも、いつまでも引き延ばしていたいのだと。


「なあ、マリモ」


 静けさに波を立てるように、名前を呼ばれる。

 静寂さえなければ、その先に続く言葉を形にしてしまえば、終わってほしくないものがずっと終わらずにいられると信じているかのように。


「もし……もし君さえ、よければ……」


 だけど、そのスカイブルーの瞳は捉えてしまう。

 伸ばした手の向こう。己の指先を見つめた先で。


「――――、――――――――――――――」


 ゆっくりと首を振る、私を。


「ああ……本当に……」


 すると彼女は、普段の凛々しい姿とも、お屋敷での年相応の姿とも違う――まるで生まれたばかりの赤子のように潤んだ目で。


「……名残り、惜しいな……」


 静かに、けれど世界そのものに訴えかけるように、涙を流した。


 きっと――あの運命の夜から堪えていた、涙を。



「君との時間が、永遠に続けばいいのに――――」



 その嘆きは、しかし断じて、未練などではなかった。

 叶わない夢を言葉にするには、現実に目覚めていないといけない。

 だからそれは、涙という刃で己が未練を断ち切ったがゆえの、儚い幻想《ユメ》。


 ――現実を前に。

 空想を形にすることで反逆の翼を広げた、マリモジュナとは逆に。


 ――現実を前に。

 砕け散った空想の欠片で傷を負い、その痛みで輝くことを、宝石《かのじょ》は決めたのだ。


「………………」


 これは、決して声には出さない。

 けれど――あなたが本気で命じてくださったなら。

 私はきっと、あらゆる信念や誇りを捻じ曲げてでも、投げ打ってでも。

 お屋敷に留まることを選び、残りの人生をあなたに捧げたことでしょう。


 私はそれほどまでに、あなたに焦がれ、憧れています。


 でも、だからこそ分かるのです。

 あなたは断じて言わないのだと。

 伝えたくても。伝えたいからこそ。何も言わないのだと。


 与えるということは、手放すということでもある。

 そのための覚悟を決めた以上、最後まで守り通すために。

 そんなあなただから、使用人としてお仕えできたことを、誇りに思うのです。


 あのお屋敷で、私は沢山の思い出をいただきました。

 振り返るだけで光が溢れる……色鮮やかで大切な、宝石のような、幸いの日々。

 それさえ持っている限り私は――――、いえ。


 ……やっぱり私も、お別れは寂しいです。

 だけど、そのたびに胸に手を当てて、この八日間を思い出します。


 それが私の心を温めて。

 やがてまた寂しくなって。

 何度でも何度でも記憶を取り出して。

 そうして遠く離れても、あなたのことを想い続けましょう。

 いつか思い出が薄れたとしても、きっと残るモノはあると祈って。

 それは即ち、永遠、ゆえに。



「―――私の永遠を、あなたに捧げます」



 私はそっと手のひらを差し出した。


「マドレーヌ。あなたにお仕えできて―――幸せでした」


 いつか取り戻したかった、幸せを。

 いつの間にかこの手に掴んでいた幸せを、分かち合うように。


「君はこれ以上ない、忘れられない働きをしてくれた」


 主人は手を重ねて、それを受け取るように、優しく指を絡めた。

 熱を感じ合って。線をなぞり合って。爪痕をつけ合って。

 ひとつがふたつに離れる最後の瞬間《とき》まで、心を満たし合った。


「ご苦労だった―――愛おしき、ミロワール」


 与えられたハッピーエンド。

 宝石の中に響いて、跳ね返ってきた愛。

 それらを確かに受け取り、目蓋を閉じる。


 未練はない。

 終わるモノが終わる。それはきっと尊いことだから。

 これでお互いに、胸を張って、違う道を歩き出せる。


 さようなら。毬萌樹奈《まりもじゅな》。


 愛を受け取ることができなかったと絶望した、かつての自分自身。


 さようなら。ベルナデット・マドレーヌ・ロードナイト。


 マリモジュナの、生涯でただひとりの、ご主人様――――――――。


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