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婚約解消裏事情  作者: 梶原さくら
第5話 悪役令嬢と放蕩王子の作り方
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15/16

後  編

 ノックの音が届いた。書類に目を通していたアルノルトは顔を上げ、傍らで書類を整理していたモーリッツに頷く。時計に目をやると、きっちり来室予定の時間どおりだ。来訪客を秘書が出迎えに行っている間に、彼自身もソファに移動した。


 やがて姿を見せたのはシュトライヒ侯爵である。一礼してアルノルトの向かいの椅子に腰を下ろすと、持参した書類をテーブルの上に広げた。


 翌月の公式行事に関するスケジュール調整だ。叙勲式やその祝賀式典など、王太子が臨席する日程表が次々と提示される。アルノルトは書類に目を落とし、一つ一つ確認していった。


 定例業務の一つである。宮内府が王族のスケジュール管理を一手に引き受けているのだが、最終調整の確認は長官である侯爵が直接に報告することになっている。


 やり取りは滞りなく進められた。すべての確認が終わり、書類をまとめてテーブル上で揃えているときだった。業務の延長のような口調で、侯爵が唐突に話題を変えた。


「先日、ヴィルヘルム殿下から謝罪をいただきました」


 思いがけない名前に、アルノルトの手が止まる。


「殿下がご指示なさったのでしょうか?」

「いえ、私はなにも指示していません」


 アルノルトが端的に返答すると、侯爵は「さようでございますか」と言いながら、どことなく面白がっているような気配を漂わせた。


「実に意外でした。王妃陛下に呼び出されて伺ったところ、ヴィルヘルム殿下がいらっしゃいましてね。あの方が、深々と頭を下げたのですよ。いったい何事かと思うほど驚きました」


 アルノルトは、自分がどのような反応を求められているのかわからず、黙って次の言葉を待った。


「余計な言い訳はせず、ただ謝罪の言葉のみを述べておいででした。娘との婚約が破棄になった経緯には、少々思うところもありますが、今回きちんとした謝罪を受け、私としては納得いたしました」


 つまりは王妃に免じて、侯爵はヴィルヘルムの謝罪を穏便に受け入れたということだろうか。そう、アルノルトは推測した。王妃と侯爵は従兄妹同士であり、兄弟姉妹のいない侯爵が昔から王妃を妹のように可愛がり、なにかと親身になっていることはよく知られている。


 しかし、侯爵はアルノルトの内心を見透かしたように言った。


「おそらく、殿下が今お考えになった内容は、私の考えとは違います」

「どういうことでしょう?」

「私は、ヴィルヘルム殿下とカミラ嬢について元々知っていた、ということです」

「知っていたとは、その、二人が不適切な接触をもったことを──」

「いえ、お二人が幼いころから想い合っていた、ということをです」


 アルノルトの言葉尻を攫うように、侯爵は答えた。


「は? いや、その、知ってらっしゃったのですか」

「ええ、かなり以前から」

「…………」


 普段は饒舌なアルノルトであったが、言葉が出てこない様子だ。なにしろ数日前に弟から聞き出すまで、自分はまったく知らなかったことなのだ。周囲に知っている者が存在するなど、考えもしなかった。


 驚いたのは、居合わせた側近たち全員もである。いつも取り澄ました顔をキープしている四人の青年たちが、一様に目を丸くする。その姿に、シュトライヒ侯爵は楽しそうに口角を上げた。


「世の中には、アルノルト殿下が知らないことも、多く存在するということですな。他にもいろいろと……」


 侯爵はにっこりと人の悪そうな笑みを浮かべてみせた。


 アルノルトは眉を寄せた。どういうことか問い返そうとしたが、どうにも言葉に詰まる。その隙に、侯爵は用は済んだとばかりに立ち上がり、辞去する素振りを見せた。


「ところで、エルフリーデ嬢はお元気でしょうか」


 とっさにアルノルトは尋ねていた。この八ヶ月というもの、何度となく侯爵に話を持ちかけては縁談の成立を図ってきたのだ。歯牙にも掛けてもらえない状況とはいえ、未練たらたらのまま、未だまったく諦めてはいなかった。


 侯爵は動きを止め、少し考える素振りをして、再びソファに座り直した。そしてまっすぐにアルノルトを見据える。


「殿下が娘との縁談を進めたいとお考えであれば、王妃陛下に対するお考えを改めるのが先かと存じます」


 まったく予想外の言葉だった。エルフリーデの件と王妃の件がどう結びつくのか、アルノルトにはまったく意味がわからない。戸惑いを隠せないアルノルトに対し、侯爵は静かに問うた。


「殿下と王妃陛下のご関係に踏み入る内容になりますが、側近の方々も同席なさったまま、お話を続けてもよろしいですかな? それとも退室していただいたほうがよろしいか?」

「私と母の関係、ということであれば、皆知っております。このまま続けて結構です」

「かしこまりました。では殿下にお尋ねしたい。ご自分が王妃陛下と共に直轄地に行かなくなったきっかけを、覚えていらっしゃいますか」


 アルノルトは記憶を巡らせたが、これといって思い至らない。


「私は祖母上からの課題に追われて保養に行くような時間はなかったからです」

「いえ、そういった当時の状況についてではなく、直接的なきっかけです」

「…………」


 思い当たる節がなく、何を問われているのか理解できなかった。またもアルノルトは沈黙する。侯爵は溜め息ともつかない息を吐いた。


「それでは、もう一つ、殿下が知らない内容をお話しいたしましょう。殿下が王妃陛下に同行しなくなったきっかけ、と申しますか、王妃陛下が殿下を誘わなくなった理由についてです」

「侯爵は、何かしら私に原因があったのだと仰っているのですか?」

「ええ、その通りです。申し上げてもよろしいですかな?」

「お願いいたします」

「殿下が八歳のときでした。夏の保養のため、王妃陛下が一緒に行こうと、殿下をお誘いになりました。しかしそのとき殿下は、こうお答えになりました。『僕は忙しくて遊んでいるような暇はありません。母上とは違うのです。着飾って笑っているだけで務まるのですから、王妃というのは楽でいいですね』と」


 アルノルトの動きが完全に止まった。まったく覚えていない。自分が母に向けてそんな言葉を放った記憶など、どこにもなかった。


「そんなはず──」

「いえ、確かにおっしゃいました。一語一句違っておりません。私はその場に居合わせたのですよ。あのときのことは忘れようにも忘れられない……」

「あ……私は、その……まったく覚えていません」


 そう正直に言うアルノルトに、侯爵はもう一度ふっと息を吐く。


「その日までの王妃陛下は、出かけられるときには殿下を誘い、時には無理矢理連れ出しておいででした。それだけではありません。公務の合間合間に、殿下の元を訪れては、一緒に本を読もうとしたり、遊ぼうとボールを持っていったり、なにかにつけ話かけていましたよ」

「……私の記憶では、母はまったく私に会おうとしませんでした。だから私のほうもあまり良い感情を持っていなくて……」

「存じております。しかしそのご記憶は、王妃陛下が諦めてしまわれた後、ですね」


 アルノルトはかなり混乱していた。侯爵の真剣さに嘘と決めつけることもできず、だが自分の記憶とは乖離している。どう判断すればよいものか、まるで見当が付かなかった。


 その混乱した心情を知ってか知らずか、侯爵は表情を消した顔のまま話を続ける。


「すべては、前王妃が殿下の教育を一手に引き受けることになったためだと、私は考えております」


 幼い頃から優秀だったアルノルトは、五歳で王太子としての教育が開始されるにあたり、その優秀さ故に、教育熱心な前王妃が教育を買って出た。前王妃自身が才覚のある人物として知られていたため、どこからも反対はなく、当初は王妃も大賛成だったほどだ。そして英才教育が始まったわけだ。しかし、前王妃は熱心すぎた。徐々に度を超していき、やがてはアルノルトに関わるすべてを彼女が采配するようになった。


 有り体に言えば、祖母が孫を母親から奪ってしまった形になったのである。


 結果として、母子が触れ合う機会はほとんど与えられなくなった。ちょうど国際情勢が不安定になり始めた頃で、国王陛下は政務にかかりきりとなってしまった。そして城の奥向きは前王妃が依然として力を持っており、王妃はなかなか手出しができなかったのだ。


 それでも王妃は、どうにか理由をつけて息子に会おうとしていた。だが、そのたびに前王妃に阻まれ、たとえ面会が叶っても必ず前王妃が同席するという状況が続いていた。


「だというのに、当のご子息からは『着飾って遊んでばかりいる』と非難されたのです。前王妃の考えを刷り込まれただけというのは察しが付きますが、あまりのお言葉ではないでしょうか」


 侯爵の声は、どこまでも静かだった。


「そのお言葉を向けられた王妃陛下が、どのような思いを抱かれたか。心が折れてしまわれたとしても、誰に責められましょう」


 保養を名目に直轄地を訪れるのも、勉学漬けの息子をたまには子供らしく遊ばせたいという王妃の親心から出たものだったのだと、侯爵は言う。だがこのとき以降、王妃がアルノルトの名を口にすることはなくなった。


「その後は、殿下もご認識の通りです。王妃陛下から殿下に接触することは最小限となり、手元に残されたヴィルヘルム殿下だけを可愛がるようになりました」


 前王妃は、凡庸なヴィルヘルムには興味を示さなかった。そのため王妃は息子を二人とも奪われずに済んだのだが、その結果、母親は次男を猫かわいがりするようになった。そして現在に至るまで、母親と長男の双方の心には引っ掻き傷が残され、数年前に前王妃が崩御したところで傷は癒えず、そのまま月日は経過したのだ。侯爵はそう付け加えた。


 アルノルトの頭の中で、記憶の欠片が組み替えられて、これまでとは別の形を作ろうとしていた。だが、それを正面から受け止めるにはまだ時間が足りない。


 無言のまま固まってしまったアルノルトに対し、侯爵は言った。


「本来は私が口を出すような内容ではありませんが、殿下と娘の縁談に私が賛成できない理由の一つをご説明するべきと考えました。たいへん失礼な物言いをするなら、私には殿下よりも王妃陛下のほうが大切な存在である、ということです」


 侯爵はそう言ってから立ち上がった。


「実を言えば他にも理由はあるのですが、それはまあ、我が家の問題ですので、差し控えます」


 言外に、なにも私怨だけでお断りしているわけではなく、なにかしら侯爵家の事情があるのだ、という意味を伝えてから、侯爵は辞去の礼を取った。


 アルノルトは呆然とした様子のまま、それでも見送るために腰を上げる。体に染みついている優雅な仕草で、宮内府長官に礼を尽くした。


 そして部屋を出て行く侯爵を、静かに見送った。


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