前 編
王太子の執務室には、五人の姿があった。
アルノルトは執務机の椅子を離れ、応接セットの正面ソファに腰を下ろしている。向かいの一人掛け椅子にはテオバルトとディートリヒがそれぞれ座り、普段ならソファの背後か脇に控えるモーリッツも、今日は主の指示でローテーブルの両脇に配置された椅子の一方に腰を下ろしていた。
そして残りの椅子には、ルドヴィカが座った。
「さっそくだが、報告を頼む」
アルノルトが先を促した。背筋は伸びているが、ほんの少し前のめりだ。
ルドヴィカは口元に運んでいたカップをソーサーに戻し、膝の上に置いていた紙束を手に取った。この一ヶ月の間、アルノルトの命で学院内にて行ったカミラに対する聞き取り調査をまとめた報告書だ。
「まず、私が把握していたカミラ様に関わる事件について、整理してみました」
ルドヴィカは一同を見回した。
「美術品を壊した件。女生徒を突き飛ばした件。女生徒の髪飾りを取り上げた件。男子生徒の懐中時計を踏み壊した件。言い争っていた女生徒の一方を平手打ちした件。それから三年前の、王宮の茶会で倉庫に閉じ込められた件。以上の六件です」
室内にいた全員が、異論なく頷く。学院の内外を問わず、カミラの悪行として広く知れ渡っている事柄だった。
「調査にあたって、学院内の生徒と教師それぞれの認識を確認しました。生徒については、最近カミラ様のご出産の話が広まっていたおかげで話題にのぼりやすく、それとなく聞いて回ることができました」
「では生徒はどんな様子だった?」
テオバルトが問う。
「私が接した範囲に限りますが、その中のおよそ三分の二の生徒は、小説や芝居に出てくる悪役令嬢のイメージそのまま、という認識でした。残りの三分の一は、噂と違って親切だったとか優しかったという好意的な印象を持っています。こちらはほぼ伯爵家以下の子女でした」
「教師はどうだった?」
「担任を受け持ったことのある先生は、主担任も副担任も、皆さんそろって素直な良い子だとおっしゃっていました。一方で、問題ばかり起こして反抗的だという認識の先生のほうが数では多いのですが、よく確認してみると、カミラ様と直接接したことがほとんどない方ばかりでした」
直接知らない者ほど悪い印象を持っている。その構造は、生徒も教師も同じだった。
「では、各事件の詳しい内容ですが……」
ルドヴィカは書類に視線を落とした。
「まず美術品の件ですが、その場にいた誰一人として、カミラ様が倒す瞬間を見ていません。壊れる音がして皆が振り返ったそうです。その直後、居合わせた五年生の一人がいきなりカミラ様を強く問い詰めたそうです。ただ、複数の証言によれば、カミラ様はその美術品に手が届く位置にはいらっしゃらなかったということでした。風の強い日で、その上級生が窓を開け放っていたという証言もあります」
「上級生に怒られるカミラを見て、皆はカミラが壊したのだと受け取った、とも考えられるということか」
テオバルトが呟く。
「ええ、そうです。当時のカミラ様は中等部一年生で、ヒステリックに詰め寄る五年生を前にしてひどく怯えていたと、その場面を覚えている生徒がいました」
アルノルトは無言のまま、先を促すように軽く頷いた。ディートリヒは黙って手元のカップを見つめている。
「次に、女生徒を突き飛ばした件です。該当の女生徒が私のクラスメイトでしたので、直接本人に確認しました。誰かに突き飛ばされたわけではなく、自分で滑って転んだだけだとの答えでした。恥ずかしくてすぐにその場から逃げ出すときに、カミラ様とぶつかりそうになったのだそうです」
「つまりそのときも、たまたまカミラ様が居合わせた、ということですか?」
「ええ。転んだ当人の証言ですから間違いはないかと」
モーリッツの戸惑いがちな話し方は、どことなく半信半疑といった感じである。ルドヴィカは中立の視点を保とうと努力しながらも、調査の結果でカミラに対する印象が変わっているのを自覚していた。
「髪飾りの件は?」
アルノルトが淡々と言った。
「なにかの折りにカミラ様がその女生徒の髪飾りを素敵だと褒めたところ、後にその女生徒が別件のお礼として同じ品をプレゼントしたそうです。この女生徒はフロレンティーネ様のクラスメイトで、カミラ様がとにかく大好きだとのことで、喜んで証言に応じてくださいました」
「カミラに取り巻きはいなかったはずだがな」
ディートリヒが首を傾げる。
「取り巻きという関係ではなく、ひっそりとカミラ様を慕っているお一人、といったところでしょうか。私にはそう見受けられました。他にもそのような方が、伯爵家以下の子女を中心に何人かいらっしゃいます」
ルドヴィカは一呼吸置いて続けた。
「懐中時計の件は、テオバルト様からご当人に確認していただきました」
「ああ」
テオバルトが引き取った。
「現在、文官として働いている卒業生だ。本人いわく、自分がよそ見をしながら廊下を走っていてぶつかったのに、カミラ嬢のほうから修理を申し出た上で、ヴィルヘルム殿下も同行して一緒に時計店まで連れて行ってくれたとのことだ。修理代は本人が払ったが、きちんと謝罪の言葉があったとか。カミラ嬢はまったく悪くないので、かえって恐縮したと言っていた」
「踏み壊したどころか、律儀にフォローしているではないか」
「ああ。しかもそれだけでなく、高等部の卒業時にはわざわざ万年筆を贈られたそうだ。今も大切に使っているのだと言って、見せてくれたよ」
アルノルトが驚きを見せると、テオバルトは大きく頷いた。
「時計が踏み壊されたという話はどこから来たんでしょうね」
「察するに、周囲の者たちに話が伝わるうちに。『ぶつかって落とした』というのが『ぶつかって壊した』になり、最終的に『踏み壊した』に変わっていったのではないだろうか」
「なんというか、伝言ゲームですね」
「噂ってのはそういうものだろう? このときにはすでにカミラ嬢について悪い話が立っていたからな」
モーリッツが首を捻り、テオバルトは肩をすくめる。
その間、ディートリヒは無言のまま苦い顔をしていた。それに気付いたルドヴィカだが、まずは報告をすべて済ませるべく、先を続けた。
「さらに、平手打ちの件です。カミラ様は喧嘩の現場に遭遇して割って入ろうとしたのですが、その寸前に、言い争っていた女生徒の片方がもう一方を叩いて走り去ったそうです。カミラ様は、残された女生徒をすぐに保健室に連れて行ったそうです。居合わせた私のクラスメイトが証言してくれました。カミラ様は手を上げてすらいません」
「え? その件も?」
モーリッツが思わずといった様子で声を漏らした。ルドヴィカは頷く。
「ええ。いずれにしても、カミラ様が実際に何かしらの悪行を行っている場面を目撃した生徒は、一人も存在しませんでした」
アルノルトが静かに尋ねた。
「つまり、結論としては、カミラ嬢はただそこに居合わせただけ、か」
「ええ。なんと言いますか、間が悪いとしか言いようがない方ではないかと」
他者に悪意があったのかどうかは不明だが、テオバルトが示した伝言ゲームのように、噂が一人歩きしたのだろうと、ルドヴィカは結論づけた。カミラに対する良くない印象が元になり、その場にいただけだったにも関わらず、状況が屈折して伝播したのだと推測できる、と。
ディートリヒは、メガネの奥の目を細めて虚空を見上げる。他の四人はなんとも言いようの無い表情でその様子を窺っていた。
「倉庫の件はどうだ。君自身も閉じ込められたんだろう?」
テオバルトが問うと、ルドヴィカはまたも少しばかり困ったような顔になる。
「ええ、確かに閉じ込められましたが、けれどこれもカミラ様によるものではないと、今は考えています」
ルドヴィカが居住まいを正した。
「あの日の茶会では、催し物の一つとしてリドル・ラリーが行われていました。倉庫の入口がたまたま開いていたので、参加していた方が何人か、チェックポイントの一つだと勘違いして中に入ってしまったのです。私はスタッフ側でお手伝いをしていたので、入る姿に気づいてすぐに声をかけようと後を追いました」
「それで君も中に入り……。待て、倉庫ということは、自動施錠か?」
「はい、それです」
少し大きな声を上げたアルノルトに、ルドヴィカは大きく頷いた。
王宮の各所にある宝物庫や書庫はもちろん、倉庫や物置にも、人が常駐しない部屋の扉には、鍵のかけ忘れを防ぐための魔法がかけてある。解錠から一定の時間が経つと自動的に扉が閉まって施錠される仕組みだ。それは城勤めであれば常識として知っているのだが、そのお茶会に参加していたのは未成年の貴族令嬢ばかりで、城内の警備事情など無縁だ。内側からであれば、取っ手の上部にあるパネルを操作してすぐに解錠できるなど、当時のルドヴィカを含め誰も知らなかった。そのため、アルノルトらが解錠に赴くまで、三十分近くを閉じ込められてしまったのだ。
テオバルトが軽く目を細める。
「ひょっとして、このときもやはり、カミラ嬢は居合わせただけということか?」
「今はそう考えています。遅れて来たカミラ様の目の前で、扉が閉まった形ではないかと」
自動施錠の扉は、閉まってから数分は半透明の状態となり、中から外を見ることができる。そのため、内部の令嬢たちはカミラの姿を見て、彼女に閉じ込められたものと思い込んだ、とルドヴィカは推論を口にする。彼女自身も、実際にそう思ったのだ。
だが、カミラが扉を閉めた場面を見たと主張する者は、一人も見つからなかった。
「そう、か」
「…………」
「…………」
「…………」
男性陣は一様に困惑した表情を浮かべる。
「それから、扉が解錠されるまでの経緯を確認しました」
「経緯?」
「はい、あのときはアルノルト殿下とテオバルト様が倉庫まで直接いらっしゃいましたよね。ですから知らせが届くまでを遡ったんです」
ルドヴィカは説明する。アルノルトに話を持ち込んだのはテオバルトであり、テオバルトに状況を知らせたのはスタッフ参加の男爵令息だった。
王家や政府が主催するイベントには、文官希望の学生がバイトを兼ねて就業体験するのはよくあることだ。ルドヴィカの場合は女性スタッフが足りないために駆り出されたのだが、その男爵令息がクラスメイトであるため、たまたま立ち話をしたのを思い出した。そのときに聞いた配置が、まったく別の場所だったのだ。
当時の担当表を見たところ、やはり反対側の中庭入口が担当だった。そこで、どのような経緯で倉庫の閉じ込めを知ったのか、本人に尋ねたわけだ。すると彼の答は、ヴィルヘルムから対処を求められたとのことだった。なんでもヴィルヘルムとは、課外活動で顔見知りだったらしい。
ヴィルヘルムに辿り着いたため、おそらくこれはカミラがヴィルヘルムに助けを求めたと考えるのが妥当である。ルドヴィカがそう言うと、アルノルトは当時を思い返した。
アルノルトはあのときテオバルトから報告を受けて、閉じ込められた生徒にエルフリーデがいると知り、慌てて自身で解錠しに駆けつけたのだ。しかし、情報がどのように上がってきたのかは気に留めていなかった。
「あとですね、教員についての補足があります。現在までに、カミラ様が自分に対して反抗的な態度を取ったと断言した教員は、お一人だけでした。その場で同意した先生がお二人おりましたが、そちらは断言なさったお一人の、ええと、その、太鼓持ちと言いましょうか、腰巾着と言いましょうか、そんな方々です」
ルドヴィカが、言いにくそうではあるものの、詳しい説明を続ける。その三人の教員は、高位貴族家の生徒を優遇し、爵位の低い家の子女を侮蔑的に扱うタイプである。そのためルドヴィカ自身を含め、低位貴族家の生徒にとっては、お世辞にも評判が良い教員だとは言えないのだ。
そしてあるとき、騎士爵令息を侮辱したその教員に対して、カミラが抗議したことがあるそうだ。その抗議を反抗的だと言っているのだ、というのが、当時の担任の証言だった。
ルドヴィカは報告書から顔を上げ、一同を見回した。
「他の教員は皆、反抗的な生徒の一人だと聞き及んでいる、といった言い方でした。生徒にしても同様なんです。ですから、カミラ様への認識は、こういった噂が噂を呼んで、その積み重ねによるもの、というのが私の結論です」
執務室に重い沈黙が落ちた。全員が、これまで当たり前のように信じていた「悪役令嬢カミラ」という認識が、いかに薄弱な根拠の上に成り立っていたかを突きつけられていた。
「……では、そもそもカミラが悪役令嬢と呼ばれるようになったのは、いつからだ」
アルノルトが問いを変えた。その質問を受けて、ルドヴィカは報告書の最後の数枚をめくった。
「一学年下の私が中等部に入学したときには、すでにカミラ様が悪役令嬢だという認識が定着していました。ですから、カミラ様が中等部一年に在学中、何かがあったということになります」
「それで? 調べたんだろう?」
「はい。一年の修了時には、成績不振であるのは皆に知れ渡っていたようです。どういった場面だったのかは不明なのですが、勉学について『できないものはできない』とおっしゃったとかで、それが開き直っている、反抗的である、素行不良である、と見做された一面もあるようなんです。加えて、高位貴族の令嬢グループからなにやら責められていた男爵令嬢を庇ったことで、そのグループから排斥されています」
ディートリヒが、微かに唇を動かした。しかし言葉は出なかった。
「その後、二年生になった時には、『悪役令嬢』呼びが定着してしまったようです。ただ、なぜそこまで広まったのか、という点でして……」
ルドヴィカは少し間を置いてから、ディートリヒに向けて視線を移した。それから意を決したように口を開く。
「噂を丁寧に辿っていきましたら、ディートリヒ様に行き着きました」
「私に?」
ディートリヒが、自分の名が出たことに驚いて、わずかに眉を上げた。
「カミラ様が中等部に入学なさった頃、あの美しい容姿から男子生徒たちの間で話題になったそうですね。妹を紹介してくれと、ディートリヒ様が頻繁に同級生から囲まれていたと聞きました。そして前期の終わり頃に、同級生から囲まれたときに、カミラ様について零したことがあったそうでして……」
「何と言ったのだ」
アルノルトが促す。ルドヴィカは少し口籠もってから、言いにくそうに告げた。
「妹は成績が悪いのに、遊び回っている。そのようにおっしゃったとのことです」
ディートリヒの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「優秀で有名なお兄様の口から出た言葉だったため、信憑性が高いと受け取られたのではないかと思います。おそらくは、それが尾ひれをつけながら学院内に広まっていったのではないでしょうか」
執務室が水を打ったように静まり返った。
妹の悪評の起源が、兄である自分だったのかもしれないと知り、ディートリヒはひどく気まずさを感じた。確かに愚痴を漏らした記憶は残っていた。銀縁メガネの奥の翡翠色の瞳が、茫然と宙を見つめる。
ルドヴィカは報告書を膝の上に置いたまま、気まずそうに目を伏せた。他の三人もすぐにかける言葉が見つからないでいる。
やがてアルノルトが、「手芸とはなにをやっていたんだ?」と尋ねた。疑問に思ったというよりは、静まりかえった室内の重さを打ち消すためのように感じられる。
「主にレースですね。部屋中にあふれかえっていました」
ディートリヒが答えると、モーリッツが首を傾げた。
「レース編みということですか?」
ディートリヒは首を横に振った。懸命に思い出そうと眉間に皺を寄せる。
「いえ、確か、ボビンレースというものでした。木製の小さな糸巻きを何十本も操って模様を織る、手の込んだレースです」
生真面目に返答する様子はいつもどおりなのだが、どことなくディートリヒの背が丸くなっているようにルドヴィカには思えた。
「ちょうど中等部に入学した頃に夢中になっていました。毎週のようにレース職人の工房にまで出向くほど、熱心に習っていましたね」
「習っていた? 遊び歩いているという話ではなかったのか?」
テオバルトが意外そうな声を上げると、ディートリヒは頷いた。
「ええ、ですから、母と二人であちこちに出かけておりました。ボビンレースのワークショップだ、レースドールの展示会だ、モールドの工房の見学だ、などと毎週末……」
え、それって、遊び歩くという?
声にならないそのセリフが他の三人の頭上に浮かんだのを、ルドヴィカは見たような気がした。




