前 編
王太子の執務室にて、アルノルトはソファに座ってのんびりと紅茶と菓子を楽しんでいた。執務の合間の午後のひとときだ。応接セットには、反対側の一人掛け椅子にディートリヒとテオバルトが座っている。侍従根性が定着しているモーリッツは、秘書官になってからも変わらずアルノルトの背後に控えていた。
「それで断られたというわけか。『話が合う』と絶賛していた相手から」
カップをソーサーに置いたアルノルトが、淡々と言った。
窓際から差し込む柔らかな陽光の中、穏やかな時間が流れる。だが、室内の空気は一人の男の周りだけ沈鬱な気配に包まれていた。
ソファに座るディートリヒは、いつもの隙のない佇まいはどこへやら。普段は一糸乱れず撫でつけられているアッシュブロンドの髪は心なしか乱れ、銀縁メガネの奥で理知的な光を宿す翡翠色の瞳が虚空を見つめている。
「はい。昨日、ノイエンドルフ家に手紙が届きました。ご覧になりますか?」
ディートリヒが内ポケットから封筒を取り出すと、アルノルトの指示でモーリッツが中身を読み上げた。
たいへんに博識で尊敬に値する素晴らしいお方である、と誉めたのち、私のような浅学非才の身では隣に立つことすら畏れ多いことです、と結んでいる。あからさまに断るための定型文すぎて、ディートリヒ以外の三人は「あぁ~」としか言えなかった。
彼に婚約者がいないのは、周知の事実だ。
近年は結婚年齢が上がってきており、それに伴い婚約年齢も上がっている。中等教育校在学中の婚約が半数ほど、残りの半数は高等教育校入学後という傾向がある。特別な理由がなければ、初等教育を受けている期間に婚約することは稀だ。裕福な名門公爵家としては婚約を急ぐ必要性はなく、初等部のときも中等部在学中も、両親はまだのんびりと考えていたといえる。
高等部入学時には、品行方正で成績優秀とあって、縁談の申し込みはそれなりにあった。そのときのディートリヒは、公爵家嫡男として誰かしらと婚姻するつもりになっていたし、だからこそ真剣に応じた。
真剣さ故に、釣書が届けば、彼は相手の家の情報を調べまくった。
令嬢とその五親等までの親族の素行はもちろん、その財産状況と債務の履歴。他家との相対的な序列の推移に、他家との争い事の有無。
領地持ちの家であれば、まずは主要産業の収益構造を調べる。道路網図から流通経路を読み解き、主要な河川の水利権を確認し、ついでに被災記録と復興予算の使い道まで洗い出した。
それだけに留まらない。相手の領地が農業を主体にしていれば、その土地の過去十年の降水グラフと収穫量の相関関係から、今後の予測を導き出す。商業を主体にしている家であれば、現行の徴税システムにおける法的な欠陥と、その改善案をまとめ上げる。
本来の学業に加え、並行して自領の経営を学ばねばならない身だ。当然ながらかなりの時間がかかる。調べ尽くして、「これでどんな話題を振られても大丈夫だ」と意気込んで仲介者に返事を出したときには、決まって相手は次の見合いが決まった後だったり、誰かとの婚約が決まっていたり、という結果を告げられるのが常だった。
そうこうするうちに、妹のカミラが王太子と婚約する運びとなり、さらにはカミラと第二王子との関係が浮上し、王太子から内々の連絡があり、といった出来事の対応に追われているうちに、なんとなく機会を逃し続けてしまった。
とはいえ、ディートリヒは月が変われば二十二歳となる。この年齢の高位貴族に婚約者も恋人もいないのは、男性の平均初婚年齢が二十五歳のご時世ではわりと珍しかった。たまたま同年齢の王太子に婚約者がいない状態のため目立たずにすんでいるが、このところはなにかと当人も結婚を意識するようになってきていたところだ。
王太子の側近であるため持ち込まれる縁談に事欠かず、すでに数回の見合いをしている。だが結果は芳しくなく、連戦連敗だった。
敗因は、テオバルトとモーリッツの分析では、朴念仁すぎるところにあるのではないかと思われた。
なにせ見合いの席だというのに、相手の好む話題を持ち出せない。これは高等部時代に、相手一族の身上調査をしている間に逃げられた経験から、時間を空けないよう準備なしで挑んだ結果である。
令嬢のほうで気を遣って、彼が興味をもつ最新の魔法工学やら法解釈やら経済理論といった話題を振ってくれるのだが、そうなると今度はついつい熱が入りすぎてしまい、高尚かつ難解な内容に発展してしまう。そのため令嬢たちは、引き攣った笑みを浮かべて固まるのがお決まりだった。結果、双方ともに相性が良くないようだという結論に至る。
その繰り返しだった。
ところが、数日前の見合いで引き合わされたフロレンティーネ・クラウス伯爵令嬢だけは違ったのだ。ディートリヒが王宮内の魔素配分の非効率性について語れば、彼女は即座に流域面積とマナの飽和濃度の関係性を指摘し、隣国との貿易摩擦について語れば、的確な分析を返してきた。まさに打てば響く女性だった。
途切れることのない会話に、ディートリヒは初めてこの女性こそと感じたのだ……が。
ディートリヒの落胆は深い。ようやく見つけたと思った相手に断られたことで、珍しく感情を隠しきれずにいる。
「これはまたずいぶんと気に入ったようだな」
「非常に話が弾んだんです。彼女しかいないと思いました」
テオバルトがクッキーをつまみながら揶揄い、沈んだ声でディートリヒが答える。
「話が弾んだのなら、なぜ断ってきたんだろうな?」
アルノルトの問いに、ディートリヒはさらに深く項垂れた。
「それがわからないのです。彼女は確かに楽しそうでした。あのような笑顔は、これまでの見合いでは見たことがなかったんです。それに理論の飛躍を指摘されまして、議論は白熱していたはずなのに……」
「議論って、いや、それもどうかと思うぞ」
隣で絶望している同僚を眺めながら、テオバルトは明らかに面白がっている様子だ。
「確かに彼女もかなり頭がいいですからね」
モーリッツが、アルノルトのカップに紅茶を注いでいた手を止めた。そのカップを、アルノルトが取り上げる。
「知り合いか?」
「はい、ヒルデの幼なじみなんですよ。僕も何度かお会いしたことがあります」
即座にディートリヒが顔をあげる。
「ならば、ヒルデガルト嬢から理由を聞き出せないだろうか?」
すがるようなディートリヒの視線を受けて、モーリッツはうなずく。
「ではヒルデに頼んで探りを入れてみます」
「頼む、モーリッツ。私の説明に論理欠陥がなかったかだけでも確かめてくれ」
「……そこですか?」
モーリッツは人差し指で頬を掻いた。




