〔溢-itsu〕⑤ 通夜祭
七月一九日、一七時三〇分。
清泉館にて故人の通夜があと三〇分ほどで始まろうとしている。すでに会館のエントランスには彼の親類縁者、中高の関係者や同級生が芳名帳への記帳と香典を渡し、受付を済ませて待機している。東京の小中学校で担任を勤めていた教師やその生徒達までもが突然の訃報に駆けつけていたが、どのような経緯で彼が亡くなったのかを聞くに聞けずやきもきしているようだ。
来宮は一人、ホールの最前列――彼らしくしっとりとした笑みを浮かべるとても良い遺影と、彼が愛用していたテニスラケットとボールが飾られた祭壇の前にある棺を見下ろしていた。樅の木であしらわれた長方形の棺は白い布で覆われている。棺に使われる木材は他に桐や檜などを選べたが、故人の生前の話を聞いたスタッフが樅を勧めた。樅の花言葉は時や永遠、高尚、そして誠実であるとスタッフは言った。両親はもちろん、来宮もこの木しかないだろうと思った。それは息子や愛する人への理想かもしれなかったが、少なくとも彼女達には彼がそう見えていた。
北枕に向けられた棺、そのゆるやかな弓状の蓋には、他の棺の例に漏れず小窓、“覗き窓”がついている。来宮は故人の両親から許可を頂戴し、窓を開いて白の小袖に身を包む彼――古城ミチヒデの綺麗な寝顔を眺めることができた。そう、綺麗だった。納棺師の手によって整えられた容姿は生気に溢れ、髪は艶を保ち、今にもそっと目蓋を開けるのではないかと疑ってしまうほどだった。
少し口角が上がっているように見える唇にキスでもしたかったが、そんな無礼が許されるわけがなかった。それに何より、触れ合った唇から熱を受け取れないことを身をもって知れば、この場で自害してしまいそうなほどの自己嫌悪に陥りそうだった。こんなにもはしたない自分を、彼に晒せるわけがなかった。
壮絶な感情の発露に病んでしまったのが自分だけないことを、彼女は昨夜知った。涙と友情の訴えにより、古城家の門戸を通された同級生一同は、一〇人ほどでは狭苦しいリビングでそんな話を聞いた。
『心中したい気分だったのよ』
ミチヒデの母の重い言葉に皆が息を呑んだ。
そんな大袈裟なと茶化す者は最早いなかった。彼女は莫大な借金を抱えたわけでも、クスリに手を出したわけでも、失恋したわけでもない。一人息子を失ったのだ。一七年も傍で見守り、夫と共に育ててきたたった一人の我が子を。
自分の言葉の恐ろしさと情けなさ、悲しさを咀嚼したのだろう、彼女は両手で顔を覆って、唸るように泣いた。指の隙間から滲み出る涙が青少年らの心を嫌というほど串刺しにした。
『私、ミチヒデ君のことが好きです。お付き合いしたいと心から思っていました。でも、この想いをずっと伝えられないまま、昨日が訪れました』
来宮の言葉に彼女は震える瞳を向けた。対照的に、彼女の肩を抱く夫は相好を崩した。
『何でも言ってください。何でも話してください。もう私には、そうすることでしか彼を愛せませんから』
手を取られたミチヒデの母は深くうなずいた。
その毅然とした仮面の下をナミは見破っていたらしい。遺された両親の受け皿となろうとした来宮の、さらなる受け皿として彼女は支えてくれている。彼女だけでなく、リエやハルコ、葦原をはじめとした男子生徒達も、皆が悲しみを分かち合ってくれている。
だから来宮はまだここでは泣けなかった。本音を曝け出すにはまだ早いと知っていた。
「キノ、そろそろ」
振り返ると友がいた。
彼女らは受付を手伝っていたのだが、残りはスタッフが行なってくれることになったようだ。式場の入り口から、多くの人々との挨拶を済ませ、昨夜からさらに憔悴して見える両親が入ってきた。
「来宮さん、傍にいてくれてありがとう。席に着きましょうか」
ホールに参列者が入ってきた。それぞれが然るべき席へ腰かける中、来宮は覗き窓を閉じた。
途端、身体の中を妙な感覚――風のように取りとめがなく素早い悪寒が突き抜けた。
身を竦ませ、周囲を見渡した。来宮はこの感覚を知っていた。ごく最近、感じた覚えがあった。いつ、どこで。それが分からず、眉根を寄せるばかりだったが、確かに身に覚えがあったのだ。
ただ、“以前”と少しばかり違うことがあった。その感覚が、明確に自分に向けられているという点だ。
立ち尽くす彼女を我に返したのは、ねずみ色の衣冠と呼ばれる装束に袖を通した神職の登場だった。神道における通夜祭が始まろうとしていた。
結論から言えば、ハナの目論見は失敗に終わった。自らがレーダーとなって波動を拡散させることでドッペルゲンガーを捕捉することはできなかった。正確に言えば、中断させられたと言ったほうがいいかもしれない。
額に脂汗が滲むほど意識を凝らしていた彼らのもとに黒装束の女が現れたのだ。動揺するミチヒデに対して、ハナは彼女を知っているようだった。女は二人に目指すべき場所を伝えた。聞き慣れない施設の名に首をかしげるミチヒデに対し、この地域一帯を知悉しているハナの面持ちに影が差していた。
黒装束は彼にその場所がどういう所かを教えてやった。語尾が耳障りだったが、話を聞いているとそんなことは気にならなくなってしまった。頭に血が上り、今にも爆発してしまいそうになった。
『許せ』
彼女は一言それだけを告げて二人の前から姿を消した。あの怪物がそうしたように、あるいはさらに唐突に消えてしまった。彼女の言葉が何を示しているのかは分からなかったし、彼女が彼の肩に手を置くのを躊躇って結局何もしなかった理由も分からなかった。ミチヒデはただ途方に暮れて、戸惑うばかりだった。
施設はここから少なくとも五キロメートルは先にあるらしい。ドッペルゲンガーはそこで次の獲物を狙い済まして垂涎しているとのことだ。次は誰に、どんな生物に化けている。ミチヒデは昨夜の恐怖心を想起しながらも、この先忘れえぬだろう憤怒の炎を沸々と滾らせていた。
ちらとすぐ横に目を向けると、前だけを見据えて同じように宙を駆け続けるハナの姿がある。トラウマを乗り越えようとしている彼女の目も時折弱気になっているが、それよりもずっと焦燥のほうが大きいようだった。腕に巻いた時計を見るや、唇を悔しげに噛んでいた。
「何て顔してんだ」
生前の生理か、疲れは覚えないが息を切らす挙動をしながらミチヒデは問うた。すると彼女は腕時計のガラス盤を見せつけた。その時計はヒヨコやアサコが身につけている物と同じだった。どうやらガイドの支給品らしい。
時計には様々な種類がある。古代の日時計に始まり、火や水、砂……。現在は一二進法を用いて大きく二種類の時計に分類されている。主に長針と短針によって一二時間を表示するアナログ式と、電子的な表示装置によって数字を直接伝えるデジタル式だ。
彼女が巻いた腕時計はどちらかと言えば前者のようだったが、長針のみだった。さらに一二等分されるべき印が六〇等分されている。
分も秒も六〇進法だ。タイマーと考えればしっくりくる。始点が六〇、四分の一時計回りに進むと一五、半分で三〇、四分の三を四五と表示しているのだから、そうに違いない。
しかしコレは秒も分も指していない。六〇時間を示している。
つまり、「タイムリミットが近い」ミチヒデは青褪めた顔で生唾を飲み下した。
あと何時間だ。それを知るのに、六〇もの印を時計回りに一つずつ数える必要はなかった。残り、五時間と少し。ミチヒデが死んで、五四時間も過ぎてしまっていた。
「急ぐで!」
「あぁ……、あぁっ!!」
夕日がビルの谷間に吸い込まれていく。闇が迫ってきている。
走る彼らの影はどこにも落ちない。彼らの焦燥など誰にも分かりはしない。
声援があればどれだけ心強いだろう。味方になってくれる人がいればどれだけ嬉しいだろう。
しかし彼らにはもう、誰かの声に耳を傾ける余裕も、味方を探している余裕など僅かすらもなかった。
今許されるのはこぎ続ける足を決して止めないことだ。目的地まで走り続け、そして、そして……。
ミチヒデはその先を考えていなかった。どうすればあの怪物を倒せるのか、復讐を果たせるのか、その方法が一つも思い浮かばなかった。それはハナも同じだった。しかしあれだけ未練を恐れ、霊落を、復讐を忌み嫌っていた彼女も、行き当たりばったりで考えなしのこの復讐劇に連れ添ってくれている。失敗するかもしれないのに、それも含めて覚悟を決めてくれているのだ。
ミチヒデは考えなければならなかった。決して足を止めず、ドッペルゲンガーに対向するための手段を模索し続けなければならなかった。
もう一度彼女を一瞥した。彼女が腰に差しているハリセン、こんな武器があればいいのに。何か落ちていないのか、この天顕疆界には。
ふと頭を擡げ、疑問と奇妙な音が脳裏を支配した。途端、ミチヒデは躓き、大きく転んでしまった。何もない空中、天顕疆界で死物がだ。
一歩二歩先へ踏み出したハナは急ブレーキをかけて振り返った。見るとミチヒデが蹲って立ち上がろうとしなかった。ガクガクと痙攣しており、全身が黒くくすんでいった。
霊落か。ハナはハリセンを抜いて、「まだやろ! こんなとこで、こんな、こんな!」と彼の身体を何度も叩きつけた。彼に痛みの記憶を送り、意識に蔓延る未練へと繋がるあらゆるイメージを追い払わなければならなかった。
遠退く意識に、整然と居並ぶ大勢の人々と、忙しなく動く一人の男の口が挿入されていた。そこから発される声は何か呪文を口ずさんでいるようだった。問題はその言葉の意味でもメロディーでもないことはミチヒデにはすぐに分かった。注目すべきは、それが彼のために上げられている祝詞だということだ。
彼らが目指す場所は葬儀場だ。霊落しかけている彼の魂が顕界の波動を細かに受信しているようだ。
皆、揃いも揃って喪服に袖を通している。父に母、祖父母に親戚。後ろには懐かしい、東京時代の同級生や担任だ、わざわざ遠路遥々駆けつけてくれたのか。安井先生に校長、教頭まで。葦原に田山、村木、厚木、それに――。
「きの……みや……」
ハナは振り翳したハリセンを手放し、彼の肩を掴んで持ち上げた。そして、「女なんかに現抜かしとる場合かぁっ!!」彼の頬に平手打ちを見舞い、ついで左のアッパーカット、さらには鼻っ柱に膝を捻じ込んだ。
あ、やり過ぎた。噴水のように噴き上がる鼻血がすぐに蒸発したように消えていく中、仰向けに倒れる彼の肩を抱いて、身体を前後に揺さぶった。
「さすがに今のは謝る! 謝るから早う目ぇ覚ましいっ!」
前後不覚、混濁する意識、安定しない視界。それにより生前の記憶から導かれる解は、「ヴォロエェエエエッ」死んでから一度も何も食べていないというのに沢山出ました。
酸っぱ臭い汚物を吐き出すと、ミチヒデはどこかスッキリして、あれだけ頭を駆け巡っていた祝詞も聞こえなくなっていた。まだ大丈夫だ、まだ走れる、まだ戦える――行こう。そんな不屈の主人公のようなキラキラした目をヒロインに向けた。
ヒロインは汚物に塗れてドロドロになっていました。その様はさながら“ドラ○エ”の“くさったした――「何も上手ないねんっ、こんアホんだらぁっ!!」
したいHは くさいいき ではなく ハリセンで ミチヒデを なぐりとばした。
ややあって、二人はまた駆け出していた。髪や腕などを鼻にやって臭いを気にするハナの横で、視界九〇パーセントをタンコブで塞がれてしまったミチヒデが無言で併走していた。
「お互い死人で良かったな」
「いやホントそうッスね……」
「アンタ、何を見たんや」
「ハリセン持った化け物」
「天丼? 天丼と受け取ってええ?」
「……オレの通夜の様子だ、多分」
「もうすぐや、気張りや」
おうと応じる彼らの進路上に小高い丘が見える。アスファルトで埋め立てられ、街路樹で彩られた広い土地にその葬儀場は佇んでいる。
三階建てで、平坦な作り、入口前はバスやタクシーがすぐに乗りつけるようにロータリーになっている。入口には喪服姿のスタッフが数人立ち並び、新たな参列者が来ないか待ち構えているようだった。今日の式は三件あり、その看板の一つに〈故 古城ミチヒデ様 通夜祭式場〉と記されていた。
これが現実だと改めて思い知らされた瞬間だった。式の主役が入口までやってきても、エントランスまで踏み入っても、誰も彼らに目を留めず、空気のように扱っていた。
しばらく通路を歩くと祝詞が響いてきた。また先程のように息苦しい重圧が圧しかかってきた。ハナは彼にここから離れることを命じた。
「大丈夫だ。まだ、耐えられる……」
「アホ」
押し退けられるように壁から外へ追い出されたミチヒデは空中から式場を俯瞰した。この中にドッペルゲンガーが紛れ込んでいるのは明らかだ。まだ何をどうすべきか決まっていないのにみすみすこちらの姿を晒すわけにはいかなかった。
しかしよりによって殺した相手の式に出席するだなんて一体どういう神経をしているのか。ミチヒデは怒りよりも怪物の思考回路に脱帽していた。
身バレしていないと自負するハナはホール内を調べるつもりらしい。一目見なくてもすぐに分かるだろうと彼女は高を括っていたが、彼女はどこか間が抜けたところがある。素直に信じて任せてもいいものか、多少の不安がミチヒデから落ち着きを奪っていた。
だが、あのままホール内に踏み入れば霊落は必至だったかもしれない。自分の遺影、それを見つめる参列者、陰鬱な表情の親戚、極めつけは両親、そんな様子は目も当てられない。霊安室で泣き崩れる彼らの背中だけでも耐えられなかったのだから。
「如何なさいました?」
見下ろすと、施設内の通路で女性スタッフが誰かに問いかけているのが窓を通して見てとれた。参列者がホールから飛び出してきたらしい。スタッフの呼び声に参列者は首を振り、走り去っていった。
堪え切れなかった涙を見られぬようにか、顔を覆って駆けていくその女性の姿にミチヒデは見覚えがあった。
彼は立ち尽くした。圧倒されて放棄していた思考や四肢の各部が次第に力んでいった。拳を固く握り、眉を寄せ、磨り潰れるのではないかというくらい唇を噛んだ。鼻息が荒いのは失われた心臓が脈打っているからか。目玉が熱くなって、血走っているのがよく分かる。もしかすると髪もわずかに逆立っているかもしれない。
その形相をハナが見れば何と思うだろうか。目を伏せて、今度はきっと告げないだろう。
復讐はアカン。そんなことは、解りきってくれているのだから、きっと。
「見つけたぞ、ドッペルゲンガー。お前はどこまでもオレをコケにするんだな」




