〔溢-itsu〕④ 大蔵の次郎
天界送迎センター本社ビル四四階、社長室。
妙齢の女が一人、男勝りな土下座で社長に直談判している。膝を屈しては股を開き、柔いカーペットに額をぴたりとくっつけ、三つ指など揃えていないが躊躇いなく手の平をついている。
対する社長はその威厳ある肩書きに似つかわしくない円らな瞳で彼女の頭を見下ろしている。ゆらゆら所在なく揺れる大きな頭。短い手足にぷっくりと膨れたお腹。紙オムツの下にはきっと青い蒙古斑が隠れているに違いない。喋らなければ誰からも愛されるであろうあどけないシルエットの二歳児は、頑迷な老師のように口を八の字にしている。それもそのはず、見てくれだけは一端のボウヤだが、その中身は死後歴五四〇年ほどと、死界においては初老もいいところのオッサンだ。
現在の日本の平均寿命から換算すると人生を六、七周している計算になり、人間五〇年などと謡われた時代からすれば、人生を一一周ほどしていることになる。彼が亡くなった室町時代の百姓の平均寿命を一五歳以下と考えると、彼の死後歴は相当に永いように感じられる。
魂は記憶と精神を保有する。死後の姿は死亡当時までの、最も記憶に残る姿から変わらない。ただし心と知識は成長を重ねることができる。
室町時代のとある豪商に生まれ、間もなく亡くなった“大蔵の次郎”はよちよち歩きを覚えたばかりだった。流行り病に侵され、両親は金に物を言わせて様々な医者を呼び寄せたが、それほどまでの力も願いも虚しく、その幼い魂は天に召された。
天顕疆界で彼を拾い上げ、後に彼の乳母となってくれた女性はもう死界にもいない。天界が定めた一〇〇〇年の理に準じ、その清廉なる魂を〈昇滅〉させた。
昇滅とは年に一度、天界のランドマークの一つとされる一本の超巨大樹〈お偲び様〉にその身を捧げる儀式である。
それは都市の中心地にあり、天界の西方――死界には地軸も北極点も存在しないので便宜的に定められた方位――に位置する至天門から東に見える。全長はセコイアの云十倍もするほどの高さで年々伸び続けている。枝振りは某企業のCMでお馴染みのモンキーポッドよりも遥かに広く、放置していると巨大な影によって景観が損なわれるとして年間通して剪定されるほどだ。幹周りは両手を広げた大人が一〇〇人ほどで囲まなければならず、その貫禄といったらトゥーレの木の比ではない。
死後一〇〇〇年在り続けた魂は、注連縄が巻かれたこの巨木に身を寄せ、自身――幽体を吸収させる。すると意識や記憶は分離・霧散し、跡形もなく消えてしまう。その際に色鮮やかな花が咲き乱れ、昇滅祭はハイライトを迎えるのだ。
もう今から二〇〇年ほど前に、社長の乳母は全ての世界からその存在を消し去った。社長に知恵と情操を与え、生と死の何たるかを教えた彼女はもういない。彼女の存在は、彼にとって実母よりも尊いものだった。しかしながらまるで人身御供のような昇滅という行為を止められなかったのは、それが単に天界の法であるからではない。それが法となる理由に抗えなかったからだ。
社長は乳母よりも法を選んだことを後悔していない。彼女もそれを重々承知しており、滅されることを快く受け入れていた。それが、全ての世界の為だったからだ。
だから社長には義務があった。こうして社員が文字通り平身低頭、全てのプライドを捨てて懇願しているが、法を守り、またより多くの社員を、より多くの生あるものを守る義務があった。
「日吉。お前があの娘を猫可愛がりしているのは知っている。なれば早急に天顕疆界へ降り、直接止めれば済む話ではないのか」
「そ、それは……」
ヒヨコにも譲れない事情があった。アカネから齎された情報をもとに浮かんだ勘が正しければ、きっとハナは霊落するだろうと思った。それを防ぎたい反面、彼女が抱える深いトラウマを克服させ、普通の魂に還したいとも考えていた。二律背反のこの事情を解決するには、ある勢力の助力が何よりも必要だった。
社長はこれらの事情を、言葉を介さず、彼女から滲み出る波動から看破していた。
「その欲を捨てろと言っている!」
「一〇年越しに舞い込んだチャンスなんだ。次、異物に出逢う機会なんていつあるか分からねぇっ、そうだろ!?」
ヒヨコはカッとして声を荒げた。
身なりばかり一人前で中身が幼稚なままの彼女に、社長は苛立ちを隠せなかった。
「貴様はそうやって察しろと言わんばかりに喚くがな、儂は絶対に認めんぞ! 認めてなるものか、獄界の使者共に泣きつくなんぞ!」
「こんの頑固ジジイ!!」
「残念じゃったな、儂は二歳一ヶ月のプリプリのベイビーじゃて!」
苦虫を噛み潰す彼女と目線を同じくするように、社長は腰を下ろした。
「日吉よ、いい加減目を覚ませ。二〇年もここにおりながら、どうして心穏やかに過ごせんのだ。貴様も天に誘われし清い魂の一つであるならば、霊や獄界、ましてや異物などには関わるべきではないと解っておるだろうて。我々が望むべきことは、迷える善良なる魂を一つでも多く救うこと、ただそれだけで良いはずだ」
「ダメなんだよ、それじゃあ」
「何がいかんのだ」と呆れた様子の彼に、「魂とは心か。心とは魂か?」とヒヨコは問いかけた。禅問答かと茶化した社長は少し後悔した。彼女の目が、かつて見たこともないほど真摯な光を宿していたからだ。
私は別物だと思っていると彼女は答えた。
「魄が命であるなら、魂は記憶と精神に違いない。しかしこの、精神とは何だ。知能と心だ。私はな、社長、魄が魂の檻であるように、魂も心の檻なんじゃないかと思うんだ」
眉をひそめる社長を前にしても、彼女の独白は止まらなかった。
「ハナはその心を、あの日落としちまった。いや、違う。私がアイツから奪って、捨てちまったんだ。可哀想に、私なんかの言葉に惑わされて、人並みに未練も執着も覚えられない人形になっちまった」
「それがあの娘が天顕疆界に長期滞在できる理由か」
「アンタ達なら、皆まで言わずともとっくに解っていたはずだ。それがどれだけ不憫なことかも」
「儂らを責めるとは落魄れたものだな」
「そうじゃない、そうじゃないが……」
これまでの彼女の悪態、横暴の数々を想い起こせば憎まれ口も叩きたくなった。だが神野ハナに関してはこうなるまでに改善できた部分があるのではと社長も考えるようになっていた。
「ガイドとしては理想的な資質だ。彼女を採用したとき、儂は素直にそう思った。貴様も優秀だったが、その心と風貌に難があって儂は会長と意見を割った。今でもそれは変わらん、この体たらくを見れば尚更な。儂の目は節穴ではなかったと信じている」
大和撫子はどこへやら。清楚で可憐、慎ましく、夫や愛する男に三歩後ろからついていく貞淑さなど、戦後久しいこの日本にはほとんどいなくなったらしい。それを確信したのは一九八〇年代、バブル絶頂期だった。六四年の東京オリンピック、七〇年の万国博覧会と世界との交わりが強くなるに連れ、かつての女性像が変わってきたのは感じていたが、莫大な富や男と同等の権利を得るや、コペルニクス的転回を果たした。
すると面接に来る女性の質も変わった。死んでも尚、人のためにと真面目な理由を通す者も残っている中、ギャルと呼ばれる連中が“ヒマ”の一言だけで物事を押し退けていくケースが激増した。やがて奇抜な色に染めるのは髪の毛だけではなくなった。他人種とのハイブリッドかと思わせるほど肌を焼き、未開拓の村から出稼ぎに来たのかという化粧を施したヤマンバの名に相応しい異様な連中が、今度は“ノリ”の一言で、しかも同じような容姿の男と共に現れるようになった。
日吉ヒヨコが現れたのはギャルとヤマンバの中間、コギャルが台頭した頃だ。心までギャルに成りきれない格好だけのギャル達が、顕界で著名らしいアムロだかカミーユだか言うカリスマ歌手の話で面接を乗り切ろうとするので、社長達は彼女らを片っ端から落としていた。その日は珍しく真面目な風貌の女性達が集っていた。胸を撫で下ろす一同を再びうんざりとさせたのがヒヨコだった。
白いスカジャンに赤いスウェットを履いた彼女は、ギャルと同様に“ヒマ”という腹立たしい単語を発した。会長はそれでも彼女にはその素質――後に明らかとなる天顕疆界での長期滞在記録の大幅更新――を見抜いていたらしく、彼女の採用をほとんど独断的に決めた。
この選択は禍根を残す。社長のみならず、副社長の東海林や人事部長も思ったものだった。結果、このザマだ。普通の社員ならまず起こさぬような由々しき問題を起こし、それどころかよりにもよって獄界と再び関係を持てと言う。とても認められるものではない。
「しかし神野ハナを採用するに当たっては会長が首を横に振った。それを理解できんかったが、やがて彼女はお前に引けを取らぬほどの大きな問題を起こし続けた。彼女のように未練も執着も覚えないガイドが増えればどれだけの魂を救えるかと期待に沸いていたが、創業から今までお前ただ一人を除いては、会長の活眼が精彩を欠くことはなかった」
日吉よと、膝の上で拳を握り、床を見つめる彼女に社長は無慈悲に告げた。
「お前の過ちを咎めるつもりはないがな、かと言って手を貸すわけにもいかん。我が社、そしてお前達ガイドには霊落を阻止するノウハウや霊への最低限の対処方法は備わっておるが、異物に対しては“出逢ったら逃げろ”という格言しか伝えておらん。ガイドを派遣したところで、すでに異物と対峙しているやもしれん彼女を救うことなどできんよ」
「古城ミチヒデも見捨てろと」
「……どうしても救いたくばお前一人で行け。社は一切の責任を持たない」
交渉は決裂した。助力は仰げず、一人で彼女達を救いに行くほかない。
元々そのつもりだった。こうして頭を下げ、獄界の使者へ協力を要請しようと思ったのは保険に過ぎなかった。ハナに荒療治を強いるのだ、いざの際は魂を懸けるつもりだった。
勘が正しければ、自分は霊落するだろう。ハナやミチヒデの魂を守ることに引き換えて。
ハナとあの狭いアパートの一室で馬鹿話をする日々に戻ることはもうないかもしれない。
ヒヨコは苦笑した。自分にもつまらない未練があったことを今更思い知った。
おもむろに立ち上がった彼女は、「世話になった」と言い残して踵を返した。社長がその背中から目を背けていると、部屋が大きく揺れて、何かが粉々に割れる音が響いた。二人は壁を見やった。何か叫び声らしいものが聞こえたが、防音壁が正しく機能しているのでほとんど聞こえない。
沈黙が訪れた。隣は確かと、ヒヨコは社長に目を向けた。通路から見て右から順に、副社長室、社長室となっている。そして最も左には、この会社の創業者たる会長の部屋がある。揺れと音は、その会長室からしていた。
ヒヨコと社長がどちらからと示し合わすわけでもなく一歩踏み出したそのとき、壁が丸ごと崩壊した。巨大な鉄球でそうしたように、社長室と会長室を隔てていた壁が木っ端微塵に粉砕した。
あんぐりとして動けない社長に代わり、ヒヨコが口火を切った。
「お前、私より酷いぞ」
「やぁやぁやぁ、小一時間ぶりだねー、ピヨちゃーん♪ 助けに来たよー!」
もくもくと沸き立つ白い粉塵の中から現れたのは、情報屋アリザリンを営む昼前時アカネだった。彼女は両手で何かを押していた。よく見るとベビーカーだった。その居心地の良さそうなふかふかのシートにすっぽりと収まり、ベルトで厳重に固定された小さな小さな赤ん坊は白目を剥いてピクピクと痙攣していた。
彼の名は“藍染の太郎”ちゃん。生後一年で天に召された水子で、天界送迎センター(死)の創業者にして会長である、天界随一の権力者だ。
あまりに笑えない構図の中、アカネだけは雪像祭りだと言うのにここぞとばかりにキラッキラの眩しい日差しで地上を照らしつける空気の読めない太陽のような顔をしてVサインを決めていた。
「にへへっ」




