ごめんなさい 前
小春はちょっと悩んでいた。これから茉莉香がアレンジメント教室に出かける予定になっている。最近茉莉香不在の時間帯は柏木が来てくれていたのだけど、今日から柏木はレストラン復活だ。つまり、小春は一定時間ここで一人ぼっち。
(しまったー。もっと早く片付けておけばよかった高本問題!)
気の重いものは後回しにしていたツケがついに回ってきた。
「じゃ、小春行ってくるから。後よろしくね?」
「はーい、いってらっしゃーい」
今日ばかりは流石に作り笑顔で見送って、小春は大きくため息をつく。
神様どうか何も起こりませんように。
念じながら花の手入れなどをしていて、ふと視線を感じて顔を上げたら数メートル先に高本の姿。道を挟んで向こう側だ。間に走る道には人通りはない。
(早速かー!!)
驚きの早さだ。
小春は緊張して身を硬くする。叫んだ方がいいだろうか? 息をすう、と思い切り吸うと、「待って!」と高本は叫んだ。吸った息を思わずごくんと飲み込んでしまう。
「恐がらせてごめん。これ以上は近寄らないから。話を聞いて……ください」
高本はまっすぐにこちらを見て、静かに言った。その様子から、以前のようにどこか恐ろしいものが抜け落ちている気がして。警戒はしつつも、小春は小さくこくりと頷いた。そっと右手を近くにあった箒に伸ばしてぎゅっと掴んだ。
「あの、この前はごめん。自分でも、どうかしてたと思う。ふられたからってナイフ持ち出すとか。ニュースとか見てた時はなんで恋愛ごときで人殺すんだって思ってたのに。自分がふられたらなんか、冷静にものを考えられなくなって。悔しくて、苛立って……憎らしくなって」
(恐い)
様子からは恐さは抜け落ちてても、言ってる事が恐い。小春が黙っていると、高本はゆっくりと、噛み締めるように話を続けていく。
「でも、あの人の手を刺して、家に帰って冷静になったら恐くなって。ここ一週間ずっと家の中で震えてた。いつ警察が来るんじゃないかって恐くて。どうしてあんなことしたんだろって、ずっと……」
高本はちょっと自分の右手に目を落とした。ナイフを握っていた右手だ。学校ではその右手で絵の具の筆を握る手だ。
「一昨日、柏木君が俺の家に来たんだ」
「清が!?」
小春がびっくりすると、高本は頷いた。
「俺、顔だけみたいに言ったけど、違うんだね。あのひと。すごい。なんか。良い人だし。気づいたら、心の中身全部吐き出してた。聞き上手だからかな。最近スランプだった事とか、家庭の問題とか、うまく友達を作れない事とか、三崎さんに失恋した経緯とか。全部。なんで全然しゃべった事ないやつにって思うけど、なんか親身に聞いてくれて。嬉しかった。……それで、被害届けは出さないって。その代わり、三崎さんに謝りに行けって言われて。俺はちょっと嫌な事がたくさん重なって、それの極めつけに三崎さんにふられたから全部三崎さんのせいにして憎らしくなっちゃっただけだって。……それで、謝ったらもう二度と俺の彼女に近づくな、とも言われたけどね」
高本はちょっと苦笑する。
小春は内心で一瞬どきりとして嬉しくなったけど。
(まあ、清なら事をまるく収めるためにそのくらいの事は平気でいいそうだからね。あの完璧な演技力で)
と自分を落ち着かせる。
「だから今日は、三崎さんに謝りに来たんだ。柏木君に言われたから、だからだけど。それだけじゃなくて、きっと柏木君は背中を押してくれただけで。本当はやっぱり一度でも俺を君に近づけたくはなかったと思うんだけど、俺の気持ちを察してああ言ってくれたんだ。……三崎さん、ごめんなさい」
深々と、高本は頭を下げる。
「……私、高本君にひどい態度とったから。謝ってもらう資格はないんだ」
小春は、声が小さくならないように、震えないように、しっかりと言う。
「でも、ごめんね。やっぱり恐いや。近づけないし、多分また会ったら恐がっちゃうと思う。学校でも、もう話せないと思うの。ごめんね」
「うん。それは分かってる」
「でも、本当に私も申し訳ないって思ってるの。何にも知らないで、知ろうとする努力もしないで、高本君がせっかく好意を寄せてくれたのに冷たい言い方で撥ね退けて」
「三崎さんがああいう言い方した理由、柏木君に聞いたよ」
高本はちょっと申し訳なさそうに言って、続けた。
「俺、ちゃんと言えばよかったって思った。こんなこと言うとキモイって思われるかなって思って、気も動転してたし、あんな言い方しちゃったけど。……三崎さんを好きになったのは、1年のゼミで一緒だった時なんだ。三崎さんは明るくて、誰にでも公平に、全然仲良くない俺とかにも気さくに話しかけてくれて、気づいたら目で追ってたんだ。ずっと好きだったんだ」
「……ありがと。長い間好きでいてくれて。でも、ごめんね。私、今すごく好きな人、いるんだ」
小春が言ったら、高本は「うん」と微笑んだ。今まで見た中で、一番穏やかな表情だ、そう思った。
「知ってる。その人、俺には到底敵わない人だからどうしようもないや」
高本は「じゃあ」と言ってくるりとこちらに背を向ける。
去り行く高元を見送りながら、小春の口から深い深いため息が漏れる。強く握っていた箒がぱたんとコンクリートの地面に倒れた。
「あ」
小春はふと思い出して思わず声を出す。高本は首だけくるりと振り返って、目で「何?」と聞いてきた。一瞬、声を出してしまった事を後悔する。ここで言うべきではないかもしれない。台無しかもしれない。でも、もう口に出してしまったし……仕方がないか。
「サドルとメモ帳、返してくれたりしない?」
言ったら、高本は不審そうに眉を潜めた。
「サドルとメモ帳?」
「私の」
「え? それが、どうしたの?」
「……心当たり、ないの?」
「うん。ごめん」
「そっか。じゃあ、いいや。変な事言ってごめんね」
綺麗な去り際を汚してしまった。ちょっと申し訳ない。そう思いながら、今度こそ去り行く高本を背中が見えなくなるまで見送った。
(なるほど、これが分かってたから清は平然とレストランに復帰したのか)
しかも茉莉香や紺野も特に何も言わなかったという事は、小春以外には了承済みだったのかもしれない。ちょっと不思議に思ったのだ。あのうるさいくらい心配していた紺野が小春が一人店番となる事に対して何も言わないのは。
「清。ありがと」
途中から、背後に気配を感じていた。小春が振り返って言うと、柏木は肩を竦めた。
「一応見張っておかないとな。またお前が変な事言って話こじらせても困るし」
お礼を言ったのはこっそりと見張っていてくれた事について、ではないのだけど。でもまあ、それは分かっている上ではぐらかしているのだろう。
「一人で話つけに行ったの? 恐くなかった? まだ怪我だって治ってないのに」
柏木の左手には、いまだ痛々しく白い包帯が巻かれている。
「油断しなきゃなんとかなると思ってたし。思ったより、話の分かるいいヤツだったから助かったけどな。ちょっと繊細すぎるから、生きるのが大変そうだ」
「なんか清の事、絶賛してたけど……」
「彼は当たり前の事を言ったまでだよ?」
「相変わらずの自信で何よりです」
小春は言って、側にあった椅子に腰を下ろす。
「気が抜けたか?」
「結構ね。ここんとこやっぱずっと気がかりだったし」
「だろうな。まあ、俺はもう店に戻るけど。手抜きもほどほどにして、さっさと仕事戻れよ」
「あ。清」
昨日のどことなく話しかけづらい雰囲気は抜けていたから、小春は思わず引き止めてしまう。きっと知っているとは思ったけど、やはり自分の口から言いたくて。
「なんだよ?」
「斎さんに、メニューと座席表も頼まれたの!」
「ああ。イツ兄に聞いたよ」
「私の実力、認めてくれたんだよ!?」
重ねて言ったら、柏木は小春を見下ろして、ちょっと笑った。
「良かったな。徹夜して頑張った甲斐があったじゃんか」
「うん」
「追加の仕事も手を抜かず頑張れよ」
ひらひらと手を振って、柏木は今度こそ去ってしまう。小春は満足してその背中を見送った。
(うん、こうやってまた一つずつ会話を重ねていこう)
改めて、そう思う。「ニセモノの」彼女なんて、こちらから願い下げてやる!くらいの意気込みで。




