第二章 学校の時間 その二 「図面ケースの壁」×「体育館倉庫の密室構造」
「何が『デバッグ仲間』だ!これでは私のライフプランニング(人生設計図)における最大級の『耐力壁崩壊』ではないか!」私の脳内CPUは、先ほど旧校舎の廊下で展開された「ピンク髪の結衣」と「水色髪の怜」によるキャットファイトの余震で、依然としてオーバーヒート状態のまま警告音を鳴らし続けていた。結衣のあの、私の腕を絡め取る腕力の不自然なまでの強さ。そして「律の隣でお約束フラグを起動させていいのは私だけ」という、一見すると献身的でありながら、その実、極めて不穏な自己占有欲に満ちた発言。 あれは「ナビゲーター」などという生易しいシステム仕様ではない。世界のバグから私を救うフリをしながら、最後には自分が丹念に設計した「特大の確定お約束フラグ(奈落の底)」へ私を強制着工させるための、トロイの木馬型システムウイルス。すなわち「ヤンデレ」の構造ロジックそのものではないか。「……いや、落ち着け、私。深呼吸をして肺の換気量を確保するんだ。まだ午前中のホームルームと搬入作業、そして放課後の居残りデバッグを一つずつ処理したに過ぎない。この後のスケジュールを合理的にゾーニングすれば、必ずこの包囲網を突破する防護壁が見つかるはずだ」
私はツナギのポケットの「十五桁の両面そろばん」のフレームをパチパチと弾き、自らの精神的バイアスをニュートラルへと引き戻した。しかし、この過酷な現実において、一秒のインターバルすら私に与えられないのが世界の「お約束システム」の仕様らしい。「あ、見ーっけ! 律先輩、おーい!」校庭の端、製図室と体育館を繋ぐ渡り廊下。そこを歩いていた私の視界に、最悪の動線ジャミング因子が飛び込んできた。茶髪のツインテールを忙しなく揺らしながら、短い制服のスカートをはためかせて突進してくる質量。同級生であるにもかかわらず、バグによって相手を「先輩」としか認識できない距離感破壊型ギャル。茶倉蜜莉である。「茶倉さん。何度も言っているが、私は君と同い年であり、同級生だ。学年的な上下関係は存在しない。あと、その進行速度では私のパーソナルスペース(半径一メートル)への衝突まで残り一・五秒」
「えいっ!」
衝突予測を弾き出した私のそろばんの演算をあざ笑うかのように、茶倉蜜莉は独自のフットワークで私の正面へと滑り込んできた。そして、あろうことか、私が右脇に抱えていた図面ケース(A1サイズ対応、堅牢なプラスチック製)の上部から、自らの身体を滑り込ませるようにして覗き込んできたのだ。「そんなに怒んないでよ、律先輩ぇ。蜜莉、今日の製図の授業で使う図面ケース、自分のクラス(一組)のロッカーに置き忘れちゃってさー。ねえねえ、先輩のケース、ちょっと見せてよ!」ぐい、と彼女が身を乗り出す。その瞬間、彼女の着用している制服の襟元が、重力の作用によって不自然なほどルーズに開帳された。 それだけではない。製図板を覗き込むフリをしながら、彼女の二の腕の、極めて柔らかく弾力性に富んだ「肉体的質量」が、私のツナギを着た右腕へとダイレクトに接触してきたのである。「ターゲット接触! 局所的摩擦抵抗、急上昇! これは……弾性変形によるパーソナルスペースの物理的占拠!」「うふふ、律先輩のツナギ、なんか男の子の匂いがしてドキドキしちゃうなー。あ、ここ、もっと近くで見せて?」彼女はさらに自重を私へと預けてくる。衣服を透過して伝わる体温。 通常の男子高校生であれば、ここで心拍数が一分間に百二十回を突破し、「お、おい、茶倉……近すぎるって……(顔を真っ赤にしながら、思わず目を逸らす)」となるのが教科書通りの「距離感バグギャルによる籠絡フラグ」だ。だが、私は一級建築士を志す合理的思考の持ち主だ。「茶倉さん。二の腕の柔らかさを利用した質量攻撃は、物理的な動線妨害に過ぎない。かつ、現在の君の姿勢は、背骨の荷重支持構造において重心が著しく前方に偏っている。このままでは私の衣服に皮脂汚れが付着し、クリーニング代という名の経済的損失が発生する」私は瞬時に、抱えていたプラスチック製の巨大な図面ケースを、自らの胸元と彼女の身体との間に「垂直の隔壁」としてスライドさせた。
カツン!
「空間分離完了。厚さ五十ミリの耐衝撃ポリプロピレン製障壁により、君と私の間の有効離隔距離は安全基準である三百ミリ以上を確保された」「むー! 冷たいなー、律先輩!せっかく蜜莉が『同級生ギャルなのに先輩呼びしちゃう距離感バグ』の仕様書通りにアプローチしてあげたのに!」茶倉蜜莉は図面ケースのプラスチック壁に額を押し当てながら、不満そうに頬を膨らませた。だが、私がこの「摩擦抵抗」をデバッグした直後、背後からさらなる空間的脅威が忍び寄っていた。「おーい!律、蜜莉ー!何やってんだよ、お前ら!」遠くから、空間の静寂を暴力的にかき乱す破裂音が響いた。声の主は、元気いっぱいのポニーテールを揺らしながら、体育館の入り口から大きく手を振っている栗毛の少女。乾舞子だ。結衣の親友枠であり、クラス内のあらゆる人間関係にデリケートな「境界条件(恋愛話)」を土足で踏み荒らしてボヤ騒ぎを大火事にする、歩く着火剤である。「あ、舞子っち! ヤッホー!」「ヤッホーじゃないよ蜜莉!次の時間は体育館で一組と二組合同の『設備器具・用具搬入および整理』なんだから、早く来ないと置いてっちゃうよ!……って、あれえ? 何々、もしかして二人は付き合ってたりするのー!?」
(主人公:ほら来た! 恋愛話という名のデリケートな境界条件への土足侵入!)
「乾さん。そのような根拠なき因果関係の構築は、コミュニティ内の不要な応力を増大させるため厳に慎まれたい。私たちはただ、図面ケースの有効寸法について物理的議論を交わしていただけだ」「えー? 律はまたそんな小難しいこと言って照れ隠ししちゃってさー! そういう態度、結衣が泣いちゃうぞー?」舞子はニッシシと下世話な笑みを浮かべながら、私の背中をバシバシと力任せに叩いてきた。この少女の打撃エネルギー、推定四十ジュール。私の脊椎にかかる動的負荷もさることながら、彼女の背後に「世界のシステム」が用意した、より巨大な罠の気配を感じずにはいられなかった。「ほらほら、早く体育館の倉庫から、新しい防球ネットと支柱を運ぶよ! 律は男子なんだから、力仕事よろしくね!」舞子と蜜莉に左右から動線を挟まれ、私は逃げ道を塞がれる形で体育館の重い鉄扉をくぐることとなった。体育館の内部は、天井高がおよそ十メートル。大スパンのトラス梁によって支持された広大な無柱空間だ。一見すると、ゾーニングの自由度が高い安全な空間に見える。しかし、その隅にひっそりと口を開けている「体育館倉庫」という用途の部屋は、あらゆる学園ラブコメにおいて「密室閉じ込めお約束フラグ」の聖地として知られる、超一級のハザードエリアであった。「……危険だ。この倉庫の入り口の有効開口幅はわずか九百ミリ。かつ、内部は自然光が入らない無窓階(避難安全検証法上のボトルネック)。さらに、扉は内開きのスチール製グレモン錠仕様。一度内部から扉が閉鎖され、かつ外部からラッチが噛み合えば、物理的な脱出は極めて困難となる」私は倉庫の入り口の前で立ち止まり、ツナギのポケットからそろばんを取り出して、その金属製のフレームを睨みつけた。「律先輩、早く入って入って! 奥にあるネットの支柱、重いから一人じゃ持てないよー」茶倉蜜莉が私を倉庫の奥へと手招きする。そのすぐ後ろでは、乾舞子が「私は外で他の用具を見てるね!」と、これ以上ない「トス(密室フラグのトス)」を上げる準備を整えていた。
(主人公:これは完全に仕組まれたステップだ。私が中に入った瞬間、突風か、あるいは誰かの不注意によって重いスチール扉が閉まり、私と茶倉さんが暗闇の密室に二人きりで閉じ込められる。そして『きゃっ、暗くて怖い……』『だ、大丈夫だ、茶倉……』という接触イベントがローディングされる!)
「……乗るか、その安直な設計に!」私は、右脇に抱えた製図板と、左手にある「A1図面ケース(長さ約九百ミリ)」をしっかりと握り直した。世界の不条理なシステムが「扉の閉鎖」をトリガーにしているならば、そのトリガーが引かれる前に、物理的な「構造改修」を施せばいいだけのことだ。「よし、茶倉さん。支柱の搬入を開始する。ただし、この倉庫の動線プランには重大な安全上の懸念がある。私が先に入り、安全基準を満たす改修を行う」「えー? 改修って何? 先輩、かっこいいこと言うね!」私は体育館倉庫の薄暗い内部へと足を踏み入れた。埃っぽい空気。跳び箱やマット、支柱が不規則に並べられた空間は、まさに「歩行障害物」のデパートだ。私の脳内そろばんが、即座に空間の3Dモデルを構築する。
ガチャン。
「ターゲット起動。外部からの不審な力学的介入を検知」背後で、予想通りに重いスチール扉が、不自然な突風(お約束の風速六メートル)によって、凄まじい勢いで閉まり始めた。 外にいる乾舞子の「あ、お待たせー! ……って、きゃっ! 風で扉が閉まっちゃった!しかもこれ、外側のラッチが壊れてて開かないよー!」という、わざとらしいセリフが聞こえてくる。「閉鎖完了まで、残り〇・八秒。だが、私の想定内だ!」私は閉まりゆくスチール扉の隙間に向けて、左手に持っていた「A1図面ケース」を、水平ではなく「斜め三十五度」の角度で正確に突っ込んだ。 図面ケースの上下の端が、それぞれスチール製の扉の縁と、堅牢な木製の三方枠(ドア枠)に、強力な楔として噛み合う。
ギギギギギ……ッ!
スチール扉は、強烈な閉鎖モーメントを受けながらも、図面ケースが形成した「圧縮材」としての強度によって、残り十五センチの隙間を残した状態で完全に静止した。「圧縮応力、許容設計値内。スチール扉の完全閉鎖を、剛性メンバー(図面ケース)によって物理的に阻止した。これにて、密室構造のデバッグは完了だ」「ええええええっ!? 扉が閉まらない!?なんか、律のデカい筒が挟まってて、扉がガチガチに固定されてるんだけど!」 外側でドアノブをガチャガチャと回していた乾舞子が、素っ頓狂な悲鳴を上げた。「舞子さん、そのままでいい。この図面ケースは耐衝撃設計だ。君が外からどれだけ押そうとも、この隙間から空気が流通し、かつ外部との音声連絡(通信動線)が確保されているため、これは法的に『密室』とは定義されない」私は一滴の汗も流さずに、眼鏡のブリッジを押し上げた。 これぞ、建築の実務において最も重視される「避難安全検証」に基づく、合理的かつ完璧な空間デバッグだ。「えーっ!律先輩、密室で蜜莉とドキドキの『暗闇の密着イベント』が発生するはずだったのにー! なんでそんなところにケース挟んじゃうの! バカバカ!」茶倉蜜莉が暗闇の中で地団駄を踏みながら、私のツナギの胸ぐらを掴んで揺さぶってきた。 その距離、わずか五センチ。彼女の息遣いが直接私の肌に触れ、彼女の豊かな胸の感触が、ツナギの薄い布地を通して伝わってくる。「茶倉さん、揺らすな。私の重心がブレる。それに、密閉空間ではないため、君のこの行動は単なる『過度なパーソナルスペースの侵害』であり、不条理フラグとしての強制力は著しく低下している」「もー! 理屈っぽい先輩なんて、こうしてやるー!」彼女はさらに私の首にしがみつこうと、その柔らかい身体を密着させてきた。その瞬間である。
バシャアアアアアン!!!
「冷水注入。不純な熱量(恋愛パラメータ)を、物理的に冷却するわ」突如として、扉の十五センチの隙間から、まるで消防用の放水ホースから放たれたかのような、恐ろしい水圧の「冷水の塊」がウォータージェットとなって射出された。その水流は、私に密着しようとしていた茶倉蜜莉の身体をピンポイントで避けて、私の顔面、およびツナギの襟元へとダイレクトに直撃したのだ。「ぶはっ!? ……冷たっ!この、有効換気量を上回る冷水の容積はなんだ!」「あ、あら……? 私の空間に、不衛生なノイズ(ギャル)が混入していたから、つい自浄作用が働いてしまったわ」扉の隙間から覗いていたのは、水色のボブカットを冷ややかに揺らした少女。水乃小路怜だった。彼女は片手に、どこから調達したのか、用務員用の巨大なポリバケツを抱えていた。そのバケツの底には、まだ微かに青白い光を放つ水流の残滓が、物理法則を無視した渦を巻いてうごめいている。
「水乃小路さん!体育館倉庫の内部で流体力学的な攻撃を行うのは、床材の木製フローリングが水分を吸収して反り返る(膨張エラー)原因になる! 直ちに使用を中止しなさい!」「私はただ、あなたがそのギャルと『不適切なゾーニング』を行っているのを、客観的に是正しただけよ。あなたの動線は、常に私が監視しているのだから」怜は、濡れて前髪が張り付いた私の顔を冷淡な瞳で見つめながら、フッと短く息を吐いた。「律、大丈夫!? 今、水使いのバグの反応を感知したわ!」さらに、体育館の入り口方向から、ピンク色の髪を激しくなびかせた結衣が、凄まじい歩行速度(時速およそ八キロメートル)で乱入してきた。結衣は扉の隙間に挟まった図面ケースを一瞥するや否や、私のツナギの濡れた襟元を、持参していた「超吸水性マイクロファイバータオル(桜庭家仕様)」で、驚くべき手際で拭き取り始めた。「もう! やっぱり私の見ていないところで、別の女子とフラグが立ちそうになってるじゃない! 私のサポート範囲(幼馴染の管轄)を超えるようなスタンドプレーは禁止だって言ったでしょ、律!」「結衣、私はただ、体育館倉庫の密室構造を合理的にデバッグしていただけで」「うるさい! 濡れたツナギのまま放置すると、律の体温が低下して『風邪を引いた幼馴染を看病するお約束イベント』が強制起動しちゃうでしょ! それは今日のスケジュール(仕様書)に入ってないんだから、私がここで完封するの!」
結衣は、私の身体をタオルで乱暴に、しかし極めて丁寧に拭きながら、水乃小路怜と茶倉蜜莉の二人を、その昏いピンク色の瞳で鋭く睨みつけた。「水使いの水乃小路さん、そして距離感バグの茶倉さん。律の周りに不必要な『お約束のノイズ』を撒き散らさないで。律を安全に、そして確実に、私の設計した『平穏な幼馴染ルート』へ着工させるための邪魔をしないでくれる?」
(主人公:……やっぱり言った!こいつ、完全に私を自分の設計図にハメ込もうとしてるだろ!)
体育館倉庫の薄暗い入り口の隙間で、ピンク、水色、茶色の三つの色彩が、再び不気味な火花を散らし始める。私はびしょ濡れになったそろばんを握りしめ、天を仰いだ。




