第一章 「自己紹介(デバッグ・フェーズ)」×「最初の構造負荷」
「ちょっと律、何フリーズしてんのよ。次、アンタの番!」結衣に袖を引かれ、私は我に返った。教室内を漂う、担任・緑川硝子が撒き散らしたフラスコの煙(化学兵器)は、エアコンの排気ファンによって徐々に希釈されつつある。しかし、この場に充満する「お約束フラグ」の濃度は依然として致死量を超えていた。私の前の席では、赤髪の赤嶺煉が「早くしろよな」とばかりに背もたれに寄りかかり、その背圧によってブラウスの第三ボタンが悲鳴を上げている。背後からは、水使い・水乃小路怜の、凍てつくような無機質な視線が私のうなじを削り続けていた。私はゆっくりと立ち上がった。片手には、いつでも演算可能なように「十五桁の両面そろばん」をスタンバイしている。「佐々木律だ。建築学科を選んだ理由は、構造力学と合理的ゾーニングへの関心から。趣味は計算、および非効率な動線の修正である。三年間、極めて低調で、かつ平穏な学園生活の維持を所望する。以上だ」着席。これ以上ない、無味乾燥かつ完璧な自己紹介。フラグを誘発する隙など一ミリも与えていない。
「……ぷっ、なにそれ! 律、硬すぎ!まるでコンクリートの基礎打設じゃない!」隣の席で結衣が楽しそうにクスクスと笑う。だが、私のデバッグ自己紹介に、教室内の一部のお約束フラグ保持者たちが、過敏な反応を示し始めた。「ほぅ……平穏、ねぇ」教壇の緑川硝子が、怪しい色の液体が付着したフラスコの破片を片付けながら、丸眼鏡を指先でクイと上げた。「佐々木くん。この一組・建築学科はね、普通のクラスじゃないの。ここには、あらゆる不条理を受け入れるための『特殊構造(お約束フラグ耐力)』が備わっているのよ。あなたのそのそろばんで、この学校の『崩壊荷重』が計算できるかしら?」
(主人公:教師が崩壊を予告するな!どんな学校の耐震基準だ!)
「先生、面白そうな男がいますわね」窓際の最後列(主人公席)から、縦ロールの金髪を優雅に揺らしながら、金剛寺麗華が立ち上がった。彼女が動くだけで、背景に薔薇のトーンが貼り付いたかのような錯覚を覚える。「この金剛寺麗華の視界に入ったからには、その『平穏』とやらが、いかに脆い砂上の楼閣であるか、わたくしが直々に証明して差し上げますわ!」「えっ、あ、あの……!」麗華の斜め後ろで、黒髪眼鏡っ子の黒木炉子が、消え入りそうな声で手を挙げた。「佐、佐々木くん……。私、眼鏡を外すと実は『めちゃくちゃ可愛い』っていうお約束フラグの仕様書を持ってるんだけど……。もし、眼鏡が壊れそうになったら、助けてくれる……?」
(主人公:仕様書を自己申告するな!お約束はステルスであれ!)
「おーい、律先輩!」茶髪ギャル・茶倉蜜莉が、自分の席を離れて私の机に身を乗り出してきた。距離感バグのせいで、彼女の顔が私の鼻先十センチに接近する。「蜜莉、先輩って呼ばれるお約束フラグ持ってるから、律先輩のことも秒で『先輩』呼び決定ね!後で購買の焼きそばパン、奢って!」「茶倉さん、動線が乱れている。自分の座席へ戻りなさい。あと私は同級生だ」私はそろばんのフレームを滑らせて、彼女の侵入を「物理的障壁」として優しく阻止した。
自己紹介という名の「お約束フラグ博覧会」が終わり、ホームルームが終了した。一時の静寂が訪れるかと思われたが、世界のシステムは、私に一秒の冷却期間も与えるつもりはないらしかった。「おーい、一年生! 設計図書と製図板の搬入を手伝え!」廊下から、地味な作業着を着た上級生の男子生徒(数少ない、本来の建築学科の住民)が声を張り上げた。 「待ってました」とばかりに、私は席を立つ。力仕事。これぞ建築学科の本来の姿だ。泥臭い共同作業こそ、華やかなラブコメフラグを最も遠ざける安全地帯である。「私も手伝うよ、律!」結衣が私の後に続こうとする。「いや、結衣は教室で待機していろ。重量物の搬入は動線上の接触事故率が跳ね上がる。君というお約束フラグ誘発装置が近くにいると、私の安全率が著しく低下する」「もう、人を作動スイッチみたいに言わないでよ!」結衣はぷくーっと頬を膨らませたが、大人しく席に戻った。よし。これで確率変動因子を一つ排除した。私は上級生について資材置き場へと向かった。そこには、厚さ二十ミリのシナ合板で作られた製図板が山積みにされていた。一枚あたりの重量は約五キロ。これを一度に数枚、肩に担いで階段を上がる。「よし、一回あたりの許容荷重は二十キロ。四枚が限界設計値だな」私は正確に四枚の製図板を脇に抱え、安定した重心移動で歩行を開始した。階段の昇降。建築における最も事故が発生しやすい、垂直動線のボトルネックだ。私は一段一段、踏面の寸法(二百六十ミリ)と蹴上げの寸法(百七十ミリ)を頭の中でトレースしながら、完璧な足運びで階段を上っていく。だが、三階の踊り場に差し掛かった瞬間、私の「バグ感知センサー」が激しく警報を鳴らした。上から、何かが「落下」してくる。
「キャああああっ!?」
聞き覚えのある、しかし今最もここで聞きたくない声。階段の上を見上げると、白衣を翻した担任・緑川硝子が、資料の束(推定百枚)を空中へ派手にぶち撒けながら、信じられない角度で階段を踏み外して落ちてきていた。それだけではない。彼女のすぐ後ろからは、なぜか巨大な「建築用コンクリートブロック(質量約十キロ)」が、物理法則を無視した不自然な慣性モーメントでゴロゴロと転がり落ちてきているのだ。
(主人公:学校の階段から何故コンクリートブロックが転がってくるんだ!施工不良にも程がある!)
「ターゲット接近! 衝突まで残り一・八秒! 落下エネルギー、推定三百ジュール!」私の脳内そろばんが、摩擦音を立てて火花を散らす。普通の男子高校生なら、ここで落ちてきた美貌の(しかしドジっ子な)女教師を抱き留め、そのままもつれ合って階段を転げ落ち、「あら、佐々木くん、どこを触っているのかしら?」となるのが古典的なお約束フラグのプログラムだ。だが、私の直後には、十キロのコンクリートブロックが追従している。抱き留めれば、私と緑川硝子はブロックの質量による追加荷重を受け、共倒れして構造的に大破する。「デバッグ・シーケンス、起動!」私は瞬時に脇に抱えていた製図板四枚を、階段のステップに対して「斜め四十五度」の角度で噛み合わせるように突き出した。「支点、力点、作用点。簡易シェル構造(アーチ効果)形成!」
ガツン!!!
四枚の合板が階段の段差と噛み合い、即席の「防護壁(防護シェルター)」が完成する。 落ちてきた緑川硝子の体は、その製図板のスライド面を滑り台のように滑り落ち、摩擦抵抗によって安全に減速されながら、私の足元へお尻から綺麗に着地した。そして、遅れて転がってきたコンクリートブロックは、私が形成した製図板のアーチ構造の頂点に激突し、その荷重を階段のコンクリート段へと完全に分散させて、ピタリと停止した。「ふぅ……。動的荷重の伝達経路を遮断。構造計算、オールクリアだ」「あら……? 私、佐々木くんに抱きしめられて、ちょっと大人の階段を上る予定だったのだけれど……?」床に座り込んだ緑川硝子が、丸眼鏡をパチクリさせながら不満げに呟く。「先生、学校の階段で大人の階段を上らないでください。あと、このコンクリートブロックの放置は明らかな管理瑕疵です。すぐに撤去してください」私は、一滴の汗も流さずに眼鏡のブリッジを押し上げた。 完璧だ。お約束フラグの「物理的ハッキング」を、力学の基本原則だけで完全無効化したのだ。
だが、私が防護壁を撤去しようとした、その時だった。「ふふ……。やはり、並の人間ではないわね」背後から、ひんやりとした、しかし極めてクリアな声が響いた。 振り返ると、そこには水色のボブカットを揺らし、バケツを片手にした水乃小路怜が立っていた。「水乃小路さん。なぜ君がここに? 搬入作業は男子のみのはずだが」「私は『水使い』だから。水がある場所に、私は必ずローディングされる。これが私のお約束フラグ仕様」彼女は冷淡な瞳で私を見つめ、バケツに手を伸ばした。「佐々木律。あなたのその『合理的防御』が、流体の連続的な圧力に対しても有効か、テストさせてもらうわ」「待て、水乃小路。階段で液体を撒くのは摩擦係数の観点から」「水流操作第一工程」彼女がバケツを軽く傾けた瞬間、中の水が、まるで生き物のようにロープ状の塊となって空中に浮かび上がった。物理的な表面張力の限界を超えた、完全に世界の物理エンジンがバグを起こしている挙動だ。「な……!? 水が重力に逆らって……!」「私の水流は、あなたの動線をピンポイントで塞ぐ。逃げ道は、ないわ」放たれた水流は、らせんを描きながら階段の幅いっぱいに広がり、私に向かって突進してきた。これに触れれば、濡れた衣服による体温低下、あるいは不自然なスリップによる「転倒接触イベント」が強制起動する。そして、何より回避したいのは「服が透けてしまう!」といった現象だ。「逃がさないよ、律!」その時、階段の下から、突如としてピンク色の影が飛び出してきた。桜庭結衣である。「結衣!? 来るな、ここは流体トラップが!」「大丈夫! 私がアンタの『ナビゲーター』だって言ったでしょ!」結衣は私のツナギの裾を掴むと、恐ろしいほどの力で私を横へと引っ張った。 その瞬間、私の身体は水流の予測軌道からわずかに「十ミリ」外れた。 結衣が引っ張った位置は、水流が壁に激突して水しぶきを上げる際の「死角」の、まさに中心点だった。
ビシャアアアン!!!
水流は私たちの横を通り抜け、階段の壁を濡らすだけで虚しく霧散した。「……計算通り。私のナビゲーションに、狂いはないわ」結衣は私の腕に抱きついたまま、フフ、と妖しく微笑んだ。そのピンク色の瞳は、いつもの天真爛漫な幼馴染のそれではなく、まるで複雑な構造プログラムを裏で走らせている「演算装置」のようだった。「……避けた、というより、私の計算式の『変数』を書き換えた……?」水乃小路怜が、驚きに目を見開いて結衣を見つめる。「ええ。律の隣で『お約束フラグ』を起動させていいのは、私だけ。他のバグは、私がすべてデバッグするわ」結衣は私の腕をさらに強く抱きしめ、怜に向かって冷たく言い放った。その瞬間、私は背筋に、先ほど以上の致命的な寒気を覚えた。
(主人公:……待て。こいつ、私の『デバッグ仲間』なんかじゃない。私を別の『巨大なフラグ』に監禁するための、最悪のシステムウイルス(ヤンデレ)なんじゃ……!?)
入学初日の午前中。私のそろばんは、かつてないほどの異常な数値を弾き出し、私の「平穏な学園生活」の崩壊確率が、すでに「九十九パーセント」に達していることを示していた。私の、高校最初の一日は、まだ折り返し地点にすら達していなかったのだ。




