序章 登校の時間 「遅刻の食パン少女」×「柄杓の水撒き」
世界はバグに満ちている。それも、プログラムの書き換えミスといった生易しいものではない。物理法則を無視し、確率論を嘲笑い、人間の自由意志を暴力的にねじ曲げる悪質なシステムエラー通称「お約束フラグ」。それがこの世界の、特に「学園生活」と呼ばれる用途の空間における、最悪のバグだった。
「ふぅ……。本日の外部環境、平均気温十六度、相対湿度六十パーセント。降水確率はゼロパーセント。動線確保、オールグリーン」
私の名は佐々木律。今日から高校生になる男だ。私は学校指定の無骨なツナギの襟元を整え、スタイリッシュな黒縁眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。片手には使い古された「十五桁の両面そろばん」が握られている。私の脳内CPUであり、不条理な確率変動をデバッグするための唯一の武器だ。私は一般的な普通科ではなく、この県立高校にひっそりと併設された「建築学科」を選んだ。理由は極めてシンプルである。建築とは、構造力学であり、ゾーニングであり、徹底された合理的計算の集大成だ。そこには「運命」も「不条理」も存在しない。何より、男子比率が九割を超える泥臭い空間。つまり、ラブコメ的な「お約束フラグ」がもっとも発生しにくい防空壕のはずだった。「……よし。高校入学初日、完璧なデバッグ登校ルートをトレースする」私はストップウォッチを起動し、静かに一歩を踏み出した。 だが、世界はすでに、私を地獄へ引きずり込むための最初の「お約束フラグ」をローディングしていた。
「大変、遅刻遅刻ーー!」
曲がり角の向こうから、聞き覚えがありすぎる、そして世界で最も警戒すべき音声シグナルが、私の鼓膜:音圧レベル六十五デシベルに到達した。 角の向こう側の道路境界線から、曲率半径を無視した猛スピードで突っ込んでくる質量。ピンク色の長い髪をなびかせ、口に「食パン(八枚切り、推定厚さ十五ミリ)」を咥えた少女。桜庭結衣である。「ターゲット検知。衝突までの予測時間、二・五秒。想定衝突荷重、約百五十ニュートン」私の脳内そろばんの珠がパチパチと音を立てて高速で弾かれる。通常の男子高校生であれば、ここで呆然と立ち尽くし、物理法則を無視した「ラッキースケベ的衝突」を引き起こすのがお約束のテンプレートだ。だが、私は違う。「動線変更実行。ステップ幅、左に三百五十ミリ。上体の傾斜角度、後方へ十五度」私は衣服の摩擦係数まで計算に入れ、靴底をアスファルトに滑らせた。私の鼻先を、結衣の咥えた食パンの小麦の香りが、コンマ五ミリの隙間を残して通り過ぎていく。
「きゃあああっ!?」
結衣は誰にも当たらない空間を虚しく泳ぎ、不条理な引力に引かれるようにバランスを崩した。その時である。彼女のバランスを立て直すため、私の右手が「回避パートナー」としての機能をオートマチックに起動した。私はすれ違いざまに彼女のリュックのストラップを正確に掴み、物理的な回転モーメントを相殺してその場に直立させたのだ。「ふぅ……安全率一・二。設計荷重内だ。怪我はないか、結衣」「……は、はい。って、律!? なんで避けるのよバカ律!そこは普通、どーんとぶつかって『いったーい! あんたどこ見て歩いてるのよ!』ってなるフェーズでしょ!?」「なるわけがない。衝突に伴う私の衣服の汚損、および君の食パンの運動エネルギーの損失は、経済的にも時間的にも全く合理的ではない。それより、なぜ君がこのルートを走っている? 君の自宅から学校までの最短動線は、この一本隣の街区のはずだが」結衣はピンク色の髪を揺らし、バツが悪そうに唇を尖らせた。「そ、それは……ほら! 今日は入学式だから、幼馴染のアンタと一緒に行こうかなって思っただけよ! ほら、早く行かないと遅刻する!」彼女は私のツナギの袖を強引に引っ張り、ずんずんと歩き出した。桜庭結衣。私の家とは隣同士の、いわゆる「幼馴染」という名のバグ誘発装置。だが、彼女は他のお約束ヒロインとは根本的に違っていた。彼女は、私が世界の不条理な「お約束フラグ」を全力で回避しようとする試みを、なぜかいつも「ナビゲーター」として支えてくれる、唯一の理解者のはずなのだ。だが、私はまだ、彼女の笑顔の奥にある「歪んだロジック」に気づいていなかった。
学校まであと数百メートル。第一関門である「食パン少女の突撃」を神回避した私だったが、世界:ラブコメシステムの執念を侮ってはならなかった。前方の歩道に、一人の少女が立っていた。彼女は道路の脇で、なぜか「昭和の風情が漂う木製の柄杓」を持ち、不自然なほど丁寧に水を撒いている。「……おかしい」私は不審な障害物を前に、足を止めた。「水撒き」という行為自体は珍しくない。だが、現在の気候パラメータ:相対湿度六十パーセント、気温十六度において、路面の乾燥を抑えるための散水は必要ない。かつ、彼女が撒いている範囲は、歩道の有効幅員一・五メートルのうち、歩行者が必ず踏まざるを得ない「動線のボトルネック」に集中していた。「不条理のトラップだ。水に濡れた路面による摩擦係数の低下を狙った、典型的な『滑って転んで異性と接触する』タイプのお約束エリアだな」「えっ、でも律、あの子ただの水撒きじゃない? ほら、水色の髪がすごく綺麗だし、知的で優しそう……」結衣が視線を向けた先には、確かに水色の髪をボブカットに切り揃え、物静かな佇まいで柄杓を操る少女がいた。のちに判明する、水乃小路怜である。「騙されるな、結衣。彼女の柄杓のスイング軌道を見ろ。重力加速度とバケツの残水量を完璧にコントロールし、最も効率よく『歩行者の靴底を濡らすための散水パターン』を形成している。あれはただの散水ではない。流体力学を応用した、極めて悪質なハメ技だ」「そこまで計算して水撒きしてる人、世界にいないと思うんだけど……」結衣が呆れたようにツッコミを入れたその瞬間、水色の髪の少女が、私たちの存在に気づいたように視線を向けた。 そして、あろうことか、手にした柄杓を大きく振りかぶったのだ。
「あっ、ごめんなさい、手が滑っ」
ビシャアアアアッ!!!
「手が滑って上空十五度の角度で水を放物線軌道に乗せるわけがあるか!」私は叫びながら、瞬時に右手のそろばんを弾いた。相手が放った水滴の初速度、上空への投射角度、および空気抵抗から算出される着弾エリアをコンマ一秒で特定する。「結衣、右へ二歩退避! 投影面積を最小化しろ!」「えっ、きゃっ!?」私は結衣の肩を抱き寄せ、ダイナミックに右側のコンクリート壁へと張り付いた。水滴の塊は、私のツナギの裾をわずかにかすめ、背後のアスファルトを激しく叩いた。 神回避。完全なるデバッグ成功。だが、水色の髪の少女は、バケツと柄杓を抱えたまま、冷徹なまでに平坦な声で私たちを見つめていた。「あら……。私の空間認識能力を上回る動線変更。面白い人ね」彼女は小さく呟き、水色の髪の奥にある瞳を怪しく光らせた。その視線に、私は言葉にできない強烈な「悪寒」を覚えた。まるで、世界のシステムそのものが「なぜフラグが起動しない?」とバグを検出して怒り狂っているかのような、そんな冷たい気配だった。「律、今のあの子、絶対わざとよね……?」結衣が私の腕にぎゅっと抱きついたまま、少し震える声で囁く。「あぁ。世界は本気で私に『イベント』を発生させようとしている。だが、私のそろばんが弾き出す生存確率(平穏な日常)を、そう簡単に書き換えられてたまるか。行くぞ、結衣。ここから先は、より警戒度を上げる」「うん……! アンタの隣は、私がちゃんと守ってあげるからね」そう言って可愛らしく微笑む結衣のピンク色の瞳の奥に、ほんの一瞬、昏い計算式のような光が走ったことを、私は見落としていた。
いくつかのトラップ(不自然な突風、道路を横切る黒猫、階段で荷物を崩す生徒)を、そろばんの超高速演算と結衣のナビゲーションによってすべて「施工エラー」として処理し、私たちはついに一組・建築学科の教室へと辿り着いた。ガラガラ、と引き戸を開ける。教室内を見渡した瞬間、私の背筋に、氷水を流し込まれたような衝撃が走った。「な……んだ、これは」教室内は、すでに「カラーチャートの暴動」と化していた。通常、建築学科といえば、地味な作業着に身を包んだ男子生徒が薄暗い製図室で黙々と図面を引く、極めてモノトーンな空間のはずだ。しかし、この一組の空間の「色彩情報」は、完全に異常値を検出していた。まずは教壇の上。白衣を羽織り、緑髪のショートカットに丸眼鏡をかけた若い女性教師が、手にしたフラスコを目の前で派手に粉砕させていた。「あ、ごめん、ちょっと手が滑っ」ガシャーン! シュワシュワと紫色の怪しい煙(有効換気量を一瞬で上回る化学兵器)が立ち上る。ドジっ子担任教師、緑川硝子。私の座席となるはずの「廊下側・前から三列目」という完璧なデッドスペースの真前には、立ち上がる際の質量移動によって制服のブラウスのボタンが物理的な限界強度(耐力壁エラー)を迎えている、赤髪の俺っ娘巨乳・赤嶺煉が座っている。真後ろの席には、先ほど路上で「柄杓のハメ技」を仕掛けてきた水色髪の知的女子、水乃小路怜が、何事もなかったかのように本を開いてこちらを見つめている。窓際の最後列(主人公席)には、縦ロールの金髪をなびかせ、教室内の一角だけをラグジュアリーな背景画に変えているお嬢様、金剛寺麗華が君臨し、その斜め後ろには、地味な黒髪の眼鏡っ子(眼鏡を外すと超絶美少女フラグ保持者)、黒木炉子が縮こまっている。
さらに、教室の動線をウロウロしながら「律先輩、おはよー!」と、同級生なのに距離感バグで絡んでくる茶髪ギャル・茶倉蜜莉や、 怪しげなタロットカードを製図板に並べて「風水的に、この机の配置は死相が出ているわ……」と呟く紫髪のオカルト女子・紫藤幽香まで。ピンク、赤、水色、金、茶色、紫、白、そして教壇の緑。自己紹介が進むにつれて、私の周囲三メートル以内は完全にカラーチャートの暴動と化した。イベント発生確率が天文学的数値を超えてカンストしていく。「……地獄の方がましな設定かもしれない。」私はスタイリッシュに眼鏡のブリッジを押し上げ、冷や汗を流しながら、心の中で深く、深く、世界のバグ(学校の管理体制)へ向かって悪態を突いた。「まるで、どこかのラブコメ界隈から湧いてきたようなやつらだ・・・クラス分けを検討するときに美女バランスを考慮しないのかこの学校は?お約束のおすそ分けを他のクラスにもすべきだ。何故このクラスだけ女子がお約束んだ!」だが、世界のバグは私の精神的キャパシティなどお構いなしに、さらに奇怪なフェーズへと突入する。出席番号順の自己紹介で、彼女たちは平然と「己のお約束」を宣言し始めたのだ。「私は、茶倉 蜜莉。私のお約束フラグは、同級生なのに何故か『先輩』って呼んじゃう距離感バグギャルでーす!」「私は、桜庭 結衣です。私のお約束フラグは、学園一の美少女にして、律の『お約束』を〇・五ミリ単位で支える……」
(主人公:お前はいいだろ!)
「私の名前は、水使いの水乃小路怜です。私のおお約束フラグは・・・」
(主人公:水使いってなんだよ!やはり同じクラスになったか・・・)
「何故、自己紹介に全員お約束設定を語るのだ」私は心の中で血を吐くようにツッコんだ。(てか誰のために何のために言ってるんだこのクラスは!)「ちょっと律、何フリーズしてんのよ。次、アンタの番!」結衣が私のツナギの袖をギューッと力任せに引っ張る。入学初日のホームルーム。私の、高校生活という名の「三年間の構造改革」は、まだ始まったばかりだった。




