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白紙婚の監査令嬢は、帳簿魔法で辺境を黒字にする  作者: 小竹X


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第八話 冬を越すための三つの命令

 翌朝の空は、よく晴れていた。


 雪明かりは美しい。だが北の冬は、晴れた朝ほど冷える。


 評議室へ入った瞬間、私はそう思った。窓辺の霜は昨日より厚く、暖炉の火も追いついていない。おそらくこの部屋でさえ、今までは「十分暖かい場所」に分類されていたのだろう。


 オズワルドは既に席に着いていた。


 昨夜、執事長室を封じられた人間とは思えないほど整っている。銀縁眼鏡も、結ばれた黒いタイも、一分の乱れもない。


 その執念深さは、ある意味で見事だった。


「始めましょう」


 私が言うと、レオンハルトが頷いた。


「続けろ」


 私は押収した書簡を卓へ置いた。


「昨夜、執事長室の隠し箱から未送付書簡と仮出票の控えが見つかりました。内容は、婚姻持参金の一部を第七補給隊名義の特別支出として仮計上し、王都側の窓口へ回すというものです」


 紙を開く。


「同じ箱からは、石炭と食糧の夜間搬出に対応する仮出票、死亡・退役済み兵への給与継続指示の下書きも確認しました。全部、確認印の癖と筆致が一致しています」


 私は一枚ずつ並べる。


 婚姻契約書の五行目。

 封蝋保管録の削除痕。

 第七補給隊名義の仮出票。

 北門搬出記録。

 食糧庫の控え冊子。

 死亡兵給与の受領欄。


 黒い線が、頭の中で一本に繋がる。


「つまり、この屋敷の赤字は一つの仕組みでした」


 私の声は、自分でも驚くほど冷静だった。


「寒さも、空腹も、死者の給与も、別々の事故ではない。架空部隊を中継点にした吸い上げです。しかも婚姻持参金まで同じ流れに乗せようとした」


「誤解です」


 オズワルドがようやく口を開いた。


 声は依然として落ち着いていた。


「私は北境を守るため、必要な調整をしていただけです」


「調整」


「王都へ上納すべき金と、こちらへ落としてもらう補助金。その均衡を取るには、表向きの帳簿だけでは回らないこともある。閣下は戦場にお強い。しかし王都は、剣で回る場所ではありません」


 彼は一同を見回した。


「私が汚れ仕事を引き受けねば、北境はもっと早く干上がっていたでしょう」


「王都の役人は、書類と贈り物でしか動かない。表に出せない金を作り、こちらへ必要な便宜を買う。そうしなければ閣下は兵を失っていた」


「そのために屋敷の者を凍えさせ、死者の金を奪ったのですね」


「生者を守るための犠牲です」


 なるほど。


 悪党には悪党なりの倫理がある。そういう顔だ。


「では伺います」


 私は一枚の支払い書を彼の前へ滑らせた。


「こちらは昨冬、戦死者ヨルン・ベッカーの給与継続分です。遺族への弔慰金は未払いでした。これは北境を守るためですか?」


 彼は答えない。


「こちらは北棟洗濯場の耐寒手袋支給簿。購入済み、支給済みとなっています。実物はありませんでした。これも北境を守るため?」


「戦時には優先順位があります」


「ええ。ですから確認しています。誰を優先し、誰を凍えさせたのか」


 オズワルドの視線がわずかに鋭くなる。


 私は最後の一枚を出した。


「そしてこれは、王都宛て未送付書簡。『新夫人持参金の流用は予定どおり』『契約書追加条項にて処理済み』。ご自身の署名入りです」


 今度こそ、室内が完全に静まった。


 オズワルドは数呼吸ぶん沈黙し、それから眼鏡を外した。


「……北境は、綺麗事だけでは生きられません」


「同意します」


 私は頷いた。


「だからこそ、汚い帳簿が許されるわけではありません」


 レオンハルトが立ち上がった。


 椅子の脚が低く鳴る。


「オズワルド・ゲルト」


「は」


「筆頭執事の任を解く」


 淡々とした宣告だった。


「王都との内通、婚姻契約書改竄、横領、帳簿隠滅未遂の疑いで拘束。身柄は北塔で預かり、追って正式な査問にかける」


「……承知、いたしました」


 最後まで姿勢は崩れなかった。


 けれど、その言葉はもはや礼ではない。敗北の確認だった。


 近衛が二人、彼の両脇へ立つ。オズワルドは私を一度だけ見た。


「地味な力だと思っておりました」


「よく言われます」


 そう返すと、彼は初めて口元を歪めた。


「厄介だ」


 そのまま彼は連れていかれた。


 扉が閉まる。


 静寂が落ちた。


 けれどこれは終わりではない。むしろ始まりだ。帳簿の膿を抜いたあとに必要なのは、次の数字を正しく置くことなのだから。


 私は深く息を吸った。


「閣下。今必要なのは処罰より先に、冬を越すための運営立て直しです」


「分かっている」


 レオンハルトはその場で評議の全員を見回した。


「命令を出す」


 彼の声は、昨日までと少し違った。


 怒りだけでなく、決定が入っている。


「第一。北棟、兵舎、洗濯場、厨房を含む全使用区画へ、本日中に石炭と食糧を再配分する。割当は現場人数基準で見直し、北門の搬出は当面停止」


 厨房長と石炭庫管理者が慌てて立ち上がる。


「不足分は中央倉から回す。倉を開けろ」


「は、はいっ」


「第二。給与支払いを二日停止。死亡・退役・異動者の名簿を今日中に洗い直し、未払いの遺族金と退役兵への支払を優先する。今後の出納は、文官側の記録と現場責任者の確認印、両方が揃わなければ通さない」


 ガレスが強く頷いた。


「兵の側の名簿は俺が出す」


「頼む」


「第三」


 レオンハルトは一拍置き、私を見た。


「本日付で、セレナ・ヴァルグレイに大公家臨時財務監査権を付与する。屋敷および領内兵站の会計閲覧、倉庫査察、臨時入札、支払差し止めの権限を認める」


 室内がどよめいた。


 当然だ。新婚二日目の花嫁に渡すには、重すぎる権限だった。


「期限は」


 私は確認した。


「冬が明けるまで」


 彼は即答した。


「その間、財務と兵站については君の判断を聞く。必要なら私が剣で通す」


 そして彼は卓上印の副鍵を外し、私の前へ置いた。


「言葉だけでは足りないだろう。これで倉庫封と仮契約の第一印まで切れる」


 重い金属音が卓に落ちた。権限は、音がする形で渡される方が好きだ。


 私は少しだけ目を瞬いた。


 思っていたより、ずっと大きい。


「条件があります」


 レオンハルトの口元がわずかに動く。


「聞こう」


「文官を増やしてください。現場を知る者を帳場へ入れます。未亡人、傷病兵、若い見習いでも構いません。数字は一部の人間だけが握るから腐るのです」


「許可する」


「それから、私の机をあなたの執務室の隣へ」


 評議室が一瞬だけ静まり返った。


 ガレスが目を剥き、ミレイユは口を半分開けている。


 だが私は真面目だった。


「毎回呼びに来る時間が無駄ですし、書類は重いので」


 レオンハルトは数秒だけ黙り、それから短く言った。


「分かった」


 そこで、ほんの少しだけ笑いが起きた。


 張り詰めていた空気が、ようやく緩む。


 私はその隙に肩の力を抜いた。


 評議が解散したあと、レオンハルトは私を執務室まで送った。廊下はまだ寒いが、昨日ほどではない。すでに各所へ火鉢が運ばれ始めている。


 北棟の角では、さっきまで青い顔をしていた女中たちが、新しい炭袋を運ぶ兵を呆然と見ていた。年配の女が私に気づいて深く頭を下げる。礼を受ける資格があるとはまだ思わない。ただ、今日だけは“間に合った”と思えた。


「無茶をさせた」


 歩きながら、彼が言った。


「お互いさまです」


「違う」


 短い否定だった。


「君がいなければ、私はまだ赤字を戦時のせいだと思っていた」


 私は返事に少し迷った。


 褒め言葉に慣れていないわけではない。前世でも仕事の後に感謝されることはあった。けれどあれは多くの場合、“火が消えた後の礼”だった。


 今のこれは違う。まだ火の中にいる相手が言っている。


「では、これからも思い込まないでください」


「努力する」


 それが彼にできる最大限の柔らかさなのだろう。十分だった。


 執務室へ入ると、机の上には早くも新しい紙束が積まれていた。北境全体の倉庫一覧、輸送路線図、兵糧消費表。


 私は一番上の地図へ手を伸ばす。


 帳簿魔法の色が滲んだ。


 屋敷の中で見たのと同じ黒い流れが、今度は領内の雪道に沿って伸びている。


 屋敷の赤字は、ほんの入口だったのだ。


「閣下」


「何だ」


「次は屋敷の外です」


 私は地図から目を離さずに言った。


「兵糧が、道の途中で消えています」


 黒い線は一本ではない。三本、四本、さらに先で合流していた。屋敷の帳簿は入口にすぎず、辺境全体の兵站が同じ手で削られている。


 北境の本当の冬は、これから始まる。

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