第六話 幽霊兵の給料
騎士隊長ガレス・ロウェルは、朝から機嫌が悪かった。
それも無理はない。婚儀の翌日から屋敷の出納が止まり、倉庫が封じられ、新しい大公夫人に呼び出されたのだから。
「で?」
彼は執務室へ入るなり腕を組んだ。
「俺は何を確認すればいい。帳簿の見方なら分からんぞ」
「見方は要りません」
私は椅子を勧めもせず、机の上の名簿を示した。
「この名前の兵たちが、今どこにいるか教えてください」
ガレスは紙を引き寄せ、無造作に目を走らせた。二行目で表情が変わる。
「……おい」
「ええ」
「この名簿、どこから出した」
「大公邸の給与台帳です」
彼は黙ったまま、もう一度最初から読み返した。
ページの上には、今月も給与支給済みとなっている兵の名前が九つ並んでいる。だがそのうち三名は死亡、四名は退役、二名は昨冬の雪害で再編時に他隊へ移っていた。
ガレスが読むたび、その名はただの文字ではなくなった。黒河、雪崩、退役村。紙の上の一行に、土と血と冬の匂いが付く。
「ヨルン・ベッカー」
ガレスが低く読む。
「黒河の戦で死んだ。俺が墓標を立てた」
次の名。
「パーヴェル・ユング。右脚を失って村へ帰した」
さらに次。
「ラウル・セイン……こいつは第七補給隊だ。雪崩で」
そこで彼は紙から顔を上げた。
「なんで、こいつらに今も給料が出ている」
「それを調べています」
私は別の台帳を横に置く。
「しかも受領印つきで」
ガレスが紙を掴む手に力を込めた。
「受け取れるはずがない」
「はい。だから、受け取った者が別にいる」
レオンハルトは窓辺に寄りかかるように立ったまま、一言も発していなかった。けれど、その沈黙はよく切れる刃物に似ている。
「ガレス隊長」
私は言った。
「この九名の最終確認日と、遺族・退役先が分かる資料を持ってきてください。兵舎か騎士団の名簿にあるはずです」
「ある。俺のところに」
「では照合を」
彼はすぐ動かなかった。
代わりに、机の上の受領印をじっと睨んだ。
「……この金が、どこへ行ったかも追えるのか」
「支払いの流れは追えます。ただし現金化されてから先は、人の証言も必要です」
「だったら追え」
初めて感情が剥き出しになった。
「冬越しの手当が足りないと言われて、何度遺族に頭を下げたと思ってる。年金も、弔慰金も、今は厳しいと。そう言った金が、死んだ連中の名前で抜かれてたなら」
彼はそこで言葉を飲み込み、荒く息を吐いた。
私はその怒りが好きだった。乱暴だからではない。数字の先にいる人間をちゃんと見ている怒りだからだ。
「昨夜、食糧庫から別の控えも見つかりました」
私はエドガーの控え冊子を開いた。
「第七補給隊の名で食糧も動いています。つまり、兵糧と給与が同じ幽霊に食べられている」
「兵は腹だけで戦うわけではありませんが、腹と給金を軽んじた軍は必ず崩れます」
「帳簿で戦が変わると言いたいのか」
「変わります。空の名簿で兵站を組めば、前線は必ず足りなくなる」
「ふざけやがって」
ガレスが吐き捨てる。
「死者の名は便利です。文句を言いませんから」
私が答えると、彼は私を見た。
最初に会った時の、貴族女を値踏みする目ではなかった。
「奥方」
「セレナで結構です」
「じゃあセレナ殿。あんた、本当にこれを全部、朝の評議で出す気か」
「出します。ただし感情論ではなく、数字の順番で」
「数字の順番?」
「ええ。最初に暖房、次に食糧、最後に給与です」
私は理由を述べる。
「寒さと空腹は“戦時だから”と言い逃れしやすい。でも死者の給与は違う。そこまでいけば、誰も偶然では押し通せません」
ガレスはしばらく黙っていたが、やがて机へ両手をついた。
「俺も出る」
「もちろん」
「名簿も持っていく。誰がいつ死んで、誰がどこへ帰ったか、兵の側の記録で証明する」
それで十分だった。
私は頷く。
「助かります」
「礼はいらん」
ガレスは顔をしかめた。
「俺は、兵の名前を使われたままにはできないだけだ」
その後、彼は一度兵舎へ戻り、昼過ぎには厚い名簿と戦死報告の束を抱えて戻ってきた。さすが現場の人間だ。早い。
照合は完璧だった。
給与台帳で今月も支給済みとなっている九名のうち、七名は明確に不正、二名は異動後の支払先変更漏れを装った横流しだった。
「この二名は?」
私が問うと、ガレスが答える。
「こいつらは今、南の砦勤務だ。ここで給料を受け取る理由がない」
「でも帳簿には今も大公邸支給とある」
「なら、誰かが南へ回す前に抜いてる」
私は受領印の癖を並べた。
同じ払い、同じ止め。同じ人間。
そして、その受領欄に添えられた確認印も、食糧庫の仮出票にあった印と酷似していた。
“O”
偶然にしては親切すぎる。
レオンハルトがようやく口を開く。
「ガレス」
「はっ」
「この件は兵たちにはまだ伏せろ」
「……了解です」
「怒りは分かる。だが、今騒げば証拠を消される」
「分かってます」
彼は硬い声で答えた。
それから、意外なことに私へ向き直り、深く頭を下げた。
「疑って悪かった」
私は少し驚いた。
大柄な男が、こんなに素直に頭を下げるとは思わなかったからだ。
「まだ早いですよ」
私は言う。
「証拠を集めただけです。明日、逃げ道を塞いでからにしましょう」
ガレスは口の端をわずかに上げた。
「帳簿でここまで人を追い詰める女を見るのは初めてだ」
「私も剣で兵を守る方は珍しいです」
「はっ。悪くない」
そのとき、ミレイユが新しい紙束を抱えて飛び込んできた。
「奥様、北門の夜間出入り記録です! 去年の冬だけ、何枚か抜けていますけど、残ってる分だけでも怪しい荷車が――」
彼女は勢いよくしゃべって、そこでガレスに気づいて固まった。
「す、すみません」
「謝るな」
ガレスは不器用に言った。
「今は、多い方がいい」
ミレイユは目を丸くしたあと、小さく「はい」と返した。どうやら彼女は、騎士隊長に怒鳴られなかっただけでかなり感動したらしい。
私は二人を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
これで味方が三人になった。
数字を読む私。
現場を知るガレス。
屋敷の綻びを知るミレイユ。
十分とは言えない。だが、戦うには足りる。
「では始めましょう」
私は朝の評議用に紙を並べる。
「死者に払われた給料が、誰の懐へ消えたのか。明日、全員の前で確かめます」




