第五話 倉庫番の少女
昼を少し回った頃、ミレイユは私の執務机の脇で、両手をぎゅっと握りしめていた。
「本当に、行くんですか」
「あなたが場所に心当たりがあるのでしょう?」
「ありますけど……見つかったら、たぶん怒られます」
「ええ。見つかった側が」
私が言うと、ミレイユはきょとんとして、それから少しだけ笑った。
彼女のこういうところは良い。怯えていても、ちゃんと立ち止まりきらない。
食糧庫は南側の中庭に面した低い建物だった。今は婚儀直後の雑務で人手が散っているらしく、出入りは少ない。レオンハルトは表立って同行しなかったが、必要ならすぐ来られるよう北回廊に近衛を二人置いてくれた。
「エドガーさんは、昔ここで帳場も兼ねてたんです」
ミレイユが小声で説明する。
「字は汚かったですけど、数だけは絶対に間違えないって有名で。冬になると、現物と合わないってよく怒ってました」
「誰に?」
「たぶん、執事長室に」
食糧庫の扉を開けると、乾いた豆と麦の匂いがした。
帳簿上では、ここは満ちていなければならない。けれど実際には、棚の奥に不自然な空白がいくつもある。袋の並びも綺麗すぎた。減った場所を隠すように、前列だけ詰め直してある。
「上です」
ミレイユが指したのは、帳場の奥にある狭い階段だった。
「昔、私も冬だけ手伝いに入ってたんです。叔父が倉庫番で、人手が足りない時だけ札を書いたりしてて……だから、隠し場所を少し」
「叔父が熱を出した冬は、私が半日だけ鍵番をしたこともあります。袋の数え方も、その時に教わりました。だから棚の空き方を見ると、帳簿より先に変だって分かることがあって」
「それで昨夜、すぐに気づいたのね」
「……はい」
そこで私はようやく、この話の題名を理解した。
倉庫番の少女。
この子はただの文官見習いではない。数字が合わない現場の寒さを、前から知っていたのだ。
階段を上がると、小さな中二階になっていた。古い木箱、縄、使われていない計量器。ミレイユは迷わず奥の棚へ向かい、三段目の板を押した。
板が少しだけ浮く。
「ここです」
中から出てきたのは、薄汚れた綴じ冊子が二冊。
私は受け取って、表紙の裏へ触れた。帳簿魔法の色が走る。
青、赤、赤、黒。
「当たりです」
ミレイユが顔をこわばらせる。
「そんなに、悪いものですか」
「ええ。とても」
そのとき、下の扉が開く音がした。
誰か来た。
階段板がぎしりと鳴る。ミレイユの喉が小さく鳴った。
私は冊子を外套の内側へ滑り込ませる。宝石より紙を隠す花嫁など、たぶん私くらいだろう。
ミレイユの顔色が変わる。私は彼女を棚の陰へ下がらせ、自分は冊子を持ったまま階段を下りた。
待っていたのは、食糧庫管理を任されている中年の男だった。彼は私を見るなりぎょっとした顔になる。
「お、奥様。こちらに何用で」
「在庫確認です」
「そのようなことは、事前に仰ってくだされば……」
「事前に知らせると、在庫が増えるのですか?」
男は口をつぐんだ。
私は冊子を見せないよう脇へ寄せたまま、静かに言う。
「今から帳場の棚と床板を全部改めます。立ち会ってください。ああ、逃げても構いませんが、その場合は“逃げた”と記録します」
「い、いえ、逃げるなど」
「では結構」
ミレイユも降りてきて、私の隣に立った。手は震えていたが、目はもう逸らしていない。
私はその場で一冊目を開いた。
粗い字だった。だが読みやすい。公式台帳の数字の横に、実数が小さく書き足されている。
受入百二十袋、実入九十六。配給八十、実出百十。帳簿残四十、現物残十二。
そういう数字が、几帳面に何ヶ月も続いていた。
「エドガーさん、ずっと書いてたんですね……」
ミレイユが呟く。
「誰も信じなかったのに」
「信じる相手がいなくても、数える人は書きます」
私はページを繰った。
途中から記述が短くなる。
“また抜かれた”
“北門”
“執事長印あり”
“死んだ者まで食うのか”
最後の一行で、私の指が止まった。
文字がそこだけ乱れている。いつもの几帳面さが崩れていた。エドガーはこの頁を書いたとき、本気で震えていたのだろう。
死んだ者まで食うのか。
そのページには、食糧の移動記録の横に人名が並んでいた。昨冬の雪害で失われた第七補給隊の兵名と、今月の配給印。
配られるはずのない食糧が、配られたことになっている。
生きていない兵が、冬のパンを食べている。
「……幽霊ですね」
私がそう言うと、食糧庫の男が肩をびくりと震わせた。
「な、なんのことでしょう」
「あなたは知らなかったのかもしれません。でも、少なくとも見て見ぬふりはした」
私は冊子を閉じる。
「もう一冊」
二冊目は、さらに露骨だった。表紙の裏に、北門の夜間搬出記録と石炭の受払が、食糧記録のついでのように書きつけられている。エドガーは倉庫番だったが、出入りが重なることに気づいてしまったのだろう。
食糧が消える日には、石炭も消える。
そしてどちらの欄にも、小さく同じ印があった。
“O”
署名ではない。確認印のつもりか、あるいは自分だけが分かる目印か。
十分だった。
背後でミレイユが、小さく、けれどはっきりと息を吸った。
「奥様」
「なに」
「私、証言します」
私は彼女を見た。
「怖いでしょう」
「怖いです」
それでも彼女は頷いた。
「でも、エドガーさん、去年の最後に“数字を数えるだけで悪者にされるのは、おかしい”って言ってたんです。私、その時は何もできなかったから」
私は少しだけ笑った。
「では、今しましょう」
そして食糧庫の男へ向き直る。
「あなたも選べます。黙るか、正直に話すか」
男はしばらく震えていたが、やがて膝から力が抜けたようにその場へ座り込んだ。
「私は、印がある荷しか通せませんでした……。逆らった倉庫番は替えられる。だから……」
「誰の印ですか」
彼は泣きそうな声で言った。
「執事長室から来る仮出票です」
ミレイユが目を見開く。
私は静かに冊子を抱えた。
これで、石炭と食糧は繋がった。
あとは兵だ。
死者の名を食い物にした給与記録まで繋がれば、この不正は“疑い”ではなくなる。
「ミレイユ」
「はい」
「今日はよくやりました」
「それと、ミレイユ。今日から私の補助についてください。書庫と倉庫の道を知っている人が必要です」
「わ、私がですか?」
「ええ。数字が合わない時に、顔色を変えられる人は貴重です」
彼女は一瞬きょとんとして、それから目を赤くした。
「私、役に立てましたか」
「ええ。今夜いちばん」
そう答えると、少女は小さく胸を張った。
その横顔を見て、私は決める。
この屋敷の数字は、もう少し人間のために使わせる。
まずは、死者の名簿からだ。




