第四話 消えた石炭、凍える廊下
石炭庫は北棟の外れにあった。
風除けの壁があるにもかかわらず、扉の前に立っただけで冷気が骨へ入ってくる。近くの廊下には火鉢ひとつなく、窓の桟に薄く霜がついていた。
「これでは人が働けませんね」
私が呟くと、後ろにいた年嵩の女中が慌てて首を振った。
「い、いえ、いつものことですので」
いつものこと。
その言葉が、胸に引っかかった。
前世でもよく聞いた。「例年どおりです」「慣れています」「現場で工夫します」。本来は異常なことを、弱い側ほど平然と言う。
その女中の指先は、言葉より雄弁だった。爪の色が悪い。関節は赤く腫れ、袖口には乾ききらない水気が染みている。
慣れは対策ではない。ただ、声を上げる力が残っていないだけだ。
私は石炭庫の中へ足を踏み入れた。
暗い。寒い。そして、少ない。
購入簿にあった量なら、壁際まで袋が積み上がっていなければならない。だが実際は半分以下だ。しかも残っている袋の口を開くと、中身は粒の揃った上質炭ではなく、粉の多い粗悪品だった。
「先月の納品は、青石炭のはずです」
私は袋口に指を差し込み、黒い粉をすくった。
「これは別物」
レオンハルトが眉を寄せる。
「質まで違うのか」
「ええ。帳簿では高い炭を買って、現物では安い炭を使っている」
「差額を抜くため?」
「それもありますし、もっと単純な可能性も。良い炭は売り、悪い炭だけ屋敷へ残す」
私は積まれた袋に手を置いた。帳簿魔法で色を見る。
青い納品線は途中で二つに割れ、その半分近くが屋敷ではない場所へ流れていた。城下の倉置き場か、商会の横流し先か。まだ特定はできないが、少なくともここで燃えてはいない。
袋の側面には王都商会の焼印が残っている。つまり途中で無印の炭へ詰め替えたのではなく、最初から“同じ出所の別品質”を混ぜている可能性が高い。現場の盗みではない。もっと上の段で組まれた差し替えだ。
「では、使用人たちはずっと粗悪炭で冬を越してきたのですね」
そう口にした途端、女中たちの空気が固まった。
一番年上らしい女性が、おそるおそる答える。
「割当がございますので……。北棟の者は一日一籠まで、と」
「一籠?」
「はい。追加は申請制です。でも、ほとんど通りません」
北棟には洗濯場、下働き部屋、控え室が集まっている。つまり一番長く人が働く場所ほど寒い、ということだ。
「誰が割当を決めていますか」
「執事長室でございます」
やはり。
レオンハルトの横顔が、静かに険しさを増した。
「私は知らされていなかった」
「そうでしょうね」
私は扉の隙間から外の雪明かりを見た。
「知らなければ、文句も届きません。寒いのは北だから、兵に回しているから、皆そう思わされる」
石炭庫を出たあと、私は北棟の奥まで歩いた。
洗濯場はひどかった。
湯気の立たない桶、湿った石床、窓の隅の霜。若い下働きの娘が、赤く切れた手でシーツを絞っている。彼女は私たちに気づくと慌てて礼をしたが、その唇は青かった。
「手袋は?」
「支給は、先に兵へ回すと……」
答えたのは傍らの年配女中だった。
「だから布を巻いております」
私は隣の近衛へ向いた。
「今すぐ火鉢を二つ。洗濯場へ」
男は一瞬だけレオンハルトを見た。彼が無言で頷くと、近衛はすぐ走った。
年配女中が目を見開く。
「よ、よろしいのですか」
「よくありません。だから直します」
布を巻く。
帳簿上では、今冬すでに三度、耐寒手袋がまとまった数で購入されている。私は昨夜それを見ていた。支給品の欄まで整っていた。だが現物はない。
「どこへ消えたのでしょうね」
私が呟くと、オズワルドは背後から答えた。
「前線から急な要請がありまして」
「では、その転用記録を見せてください」
「後ほど整えて――」
「整える必要のないものを見せてください」
私が振り返ると、彼は少しだけ目を細めた。
帳簿を読める者は嫌われる。とりわけ、言い逃れに必要な時間を与えない者は。
私はそのまま北棟を抜け、次に主廊下へ戻った。
そこだけは暖かい。
客間へ続く回廊にはきちんと火が入り、絨毯も乾いている。婚儀の客が通る場所、上位貴族が見る場所。つまり、見せる必要のある部分だけは守られていた。
さらにオズワルドの執務室の前へ行くと、扉の下からはっきりと暖気が漏れていた。
私は何も言わず、床に指を当てる。帳簿魔法で見えたのは、石炭割当表から彼の執務室へ濃い青線が伸びている光景だった。北棟の一籠とは比較にならない量だ。
「立派なお仕事部屋ですね」
そう言うと、オズワルドは優雅に一礼した。
「責任ある立場ですので」
「責任ある立場の部屋だけが暖かいのは、責任の取り方として興味深いです」
ミレイユが吹き出しかけ、慌てて口を押さえた。
レオンハルトは表情こそ変えなかったが、目だけが冷たく光っている。
私はその場で指示した。
「北棟の割当表、手袋支給簿、石炭の受払簿。すべて今朝中に持ってきてください」
「承知いたしました」
「それと」
私は石炭庫へ向かう小道の雪を見た。
人の足跡ではなく、荷車の跡が薄く残っている。屋敷へ入る方向より、出ていく方向の轍の方が深い。
「北門の夜間出入り記録も」
オズワルドが初めて、ほんのわずかに間を置いた。
「……必要でしょうか」
「石炭が消えているのですから、必要です」
彼は答えず、また一礼だけした。
その背を見送りながら、私は確信する。
石炭は偶然減ったのではない。誰かが意図的に、寒さを配っている。
そして寒さは、人を黙らせる。思考を鈍らせる。余計なことを言う元気を奪う。
よくできた管理だ。
だからこそ、胸が悪い。
戻り道、ミレイユが私の袖を小さく引いた。
「奥様、あの……」
「どうしたの?」
彼女は周囲を気にしてから、囁くように言った。
「石炭庫じゃなくて、食糧庫の方なんですけど。昔、倉庫番をしてたおじいさんが、“公式の台帳とは別に控えをつけてる”って話してたんです」
「別の控え?」
「はい。数字が合わないと気持ち悪いからって。でも、去年の終わりに急に辞めさせられて……その控えも、見つからなくて」
私は足を止めた。
別口の台帳。
現場の人間が、自分の身を守るために残す記録。
前世でも、不正の核心はだいたいそこにあった。正式書類ではなく、信じられない現実を前にした誰かが、自分のために書き残した走り書きの中に。
「その倉庫番の方のお名前は?」
「エドガーさんです。みんな、エド爺って呼んでました」
「どこに残していそうか、心当たりは」
ミレイユはこくりと頷いた。
「少しだけ」
私は笑った。
「なら次は、倉庫に行きましょう」
この屋敷の冬は、帳簿の上よりもっと悪い。
それを証明する紙が、どこかに残っている。




