表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白紙婚の監査令嬢は、帳簿魔法で辺境を黒字にする  作者: 小竹X


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/48

第三話 赤字だらけの大公邸

 夜明けの鐘が鳴る頃には、机の上に小さな山が三つできていた。


 暖房費、食費、給与。


 大公邸の赤字を作っているのは、その三本柱だった。


 もっとも、三本とも派手ではない。そこが気に入らなかった。


 暖房費だけなら「寒い地方だから」で流せる。

 食費だけなら「婚儀で物入りだった」で誤魔化せる。

 給与だけなら「戦時で記録が遅れた」で押し切れる。


 だが三つを並べると、見えてくる形がある。広く、薄く、長く抜く。表面だけは保ったまま、人が弱るまで待つやり方だ。


 前世で見た不正のなかでも、こういうものは長持ちする。誰も一度に全部を見ないから。


「まず暖房です」


 私は暖炉の明かりの下で、石炭購入簿と使用記録を並べた。


「先月の購入量は四百二十袋。屋敷の広さを考えれば少なくはありません。けれど実際の火入れ記録は、その半分程度しかない」


 レオンハルトが記録に視線を落とす。


「残りは倉庫にあるのでは」


「それなら今夜の廊下が、あそこまで冷えるはずがないのです」


 私は自分の指先を見た。夜通し書類をめくっていたせいだけではない。大公家の廊下は、本当に冷たかった。壁の石が湿った氷のようで、使用人たちは肩を縮めて歩いていた。


「二つ目は食費」


 台帳をめくる。


「厨房には小麦、干し肉、豆、乳脂がかなりの量で入っています。ですが、支給記録と配膳記録が合いません。厨房へ渡されたはずの食材が、食卓に出ていない」


「客用に回したのかもしれない」


 オズワルドが穏やかに言った。


「婚儀の前後は出入りも多うございます」


「客用の献立記録は別にあります。そこも確認済みです」


 私は客間配膳簿を指で押さえた。


「むしろ逆です。客用の華やかな献立は整っているのに、使用人と当直兵の食事だけが不自然に薄い」


「婚儀の祝宴用に仕入れた白パンは二百三十枚、仔羊は八頭、香辛料も高級品ばかりでした。祝いの席が豪華だったのは台帳どおりです。けれど、その残りが翌日の下へ一切落ちていない。余り物すら流れていません」


「上の皿だけ整えて、下を削ったわけか」


「ええ。見えるところだけ豊かに」


 ミレイユが、机の端でこくりと頷いた。


「昨夜、台所の下働きさんが、パンは薄く切れって怒られてました……」


 オズワルドが彼女を見た。ほんの一瞬だったが、それだけでミレイユは口を噤んだ。


 見ていればよく分かる。彼は怒鳴らない。怒鳴らないからこそ、屋敷中が逆らいにくい。


「三つ目」


 私は最後の山に触れた。


「給与です」


 赤く染まる欄がいくつもあった。帳簿魔法はいつも正直だ。


「こちらは説明の余地があまりありません。退役兵、死亡兵、配置換え済みの補給兵にまで支払いが続いています」


「戦時の記録は乱れます」


 今度はオズワルドではなく、初老の会計係が震える声でそう言った。


「前線からの報せが遅れれば、停止処理が――」


「一ヶ月ならそうでしょう」


 私は頷いた。


「二ヶ月でも、ありえます。ですが四ヶ月、半年、一年は別です」


 私は名簿の一箇所を示した。


「この兵士は一年前に退役しています。こちらの二名は昨冬の雪害で死亡。なのに今も、きちんと受領印つきで支払われている」


 受領印。そこが美しくも醜い。


 どの名でも、最後に押される線の癖が同じだった。


 私は前世で、何百という署名の癖を追ったことがある。人は姓名を変えても、最後の払いだけはなかなか変えられない。


「同一人物の筆です」


 そう言うと、会計係が青くなった。


「そ、そんなはずは……」


「あるのです。ここに残っていますから」


 レオンハルトはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。


「赤字の総額は」


「今夜見た範囲だけで、持参金の三分の一以上。まだ全体の一部です」


 ミレイユが小さく声を漏らす。


「そんなに……」


 ええ。そんなに、だ。


 しかも厄介なのは、浪費ではないことだった。


 浪費なら、止めればいい。贅沢なら、削ればいい。だがこれは違う。


 薄く、静かに、何本もの管を刺して血を抜いている。だから表面上はすぐには死なない。じわじわと弱り、寒さと飢えを“仕方ないもの”と思い込まされる。


 そういうやり口がいちばん悪質だ。


「閣下」


 私はレオンハルトに向き直った。


「これは単なる家計の悪化ではありません」


「分かっている」


「いえ、言葉を正確にしたいのです」


 私は一冊ずつ台帳を重ねた。


「暖房費、食費、給与。別々に見せかけていますが、承認印の流れは近い。運搬業者も一部重なっています。屋敷の赤字は、屋敷の無能で生まれたものではない。意図的に作られたものです」


 オズワルドがゆるやかに息を吐いた。


「大公夫人は、ずいぶんと大胆なことを仰る」


「大胆ではありません。帳簿をそのまま読んだだけです」


「数字は解釈次第でいかようにも」


「戦時だから仕方ない、で済ませてきたのでしょうね」


 私は彼の言葉を切った。


「ですが戦時の数字は、平時より嘘をつきません。減る方向の誤差ばかり積み重なるからです。必要な分まで減っていれば、それは事故ではなく誰かの意思です」


 会議室の片隅で、暖炉の火が弱く揺れた。


 その弱さが腹立たしい。


「厨房と石炭庫を見ます」


 私は立ち上がった。


「帳簿だけではなく、現物も。現物を見れば、誰がどこで寒さと空腹を押しつけられているか分かる」


「私も行く」


 レオンハルトも椅子を引いた。


「閣下、朝の来客が」


 オズワルドが言いかける。


「延期だ」


「しかし」


「この屋敷の冬が予定どおり回っていないのに、来客の予定だけ守る意味があるか」


 低い一言で、それは終わった。


 私たちはまず厨房へ向かった。


 途中、客間の脇を通る。銀盆にはまだ手つかずの砂糖菓子が残り、冷めかけたとはいえ香りの良い紅茶もあった。婚儀の余韻としては美しい光景だ。


 けれど角を一つ曲がるだけで、空気は痩せる。


 豊かさはある。配られていないだけだ。


 廊下の敷物は分厚いのに、空気が冷たい。角を曲がるたびに冷気が刺す。使用人たちは礼をしながら道を空けるが、その指先は赤く荒れていた。


 厨房では、まだ朝食の支度が続いていた。


 鍋の中身は想像以上に薄かった。豆の数が少ない。骨付き肉を煮た香りはするのに、具が入っていない。


「これは当直兵用ですか」


 私が問うと、料理長の女は困ったように頭を下げた。


「はい。規定どおりでございます」


「規定どおり?」


「執事長から、今冬は一人当たりこの量でと」


 彼女の目が怯えてオズワルドへ向き、そこで止まる。


 それで十分だった。


 次に私は食材庫へ入った。帳簿上では昨日入荷したはずの小麦袋が、半分しかない。干し肉も同じ。帳簿魔法で見ると、本来ここへ繋がるはずの青い線が途中で逸れて、別の場所へ消えていた。


 厨房に来る前に、どこかで削られている。


「最後は石炭庫です」


 そう言ったとき、私はもう結論をほとんど掴んでいた。


 この家は寒い。


 けれど、それは北境だからではない。


 誰かが寒くしているのだ。


 赤字だらけの大公邸。


 その正体は、欠乏した家ではない。


 欠乏させられている家だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ