第三話 赤字だらけの大公邸
夜明けの鐘が鳴る頃には、机の上に小さな山が三つできていた。
暖房費、食費、給与。
大公邸の赤字を作っているのは、その三本柱だった。
もっとも、三本とも派手ではない。そこが気に入らなかった。
暖房費だけなら「寒い地方だから」で流せる。
食費だけなら「婚儀で物入りだった」で誤魔化せる。
給与だけなら「戦時で記録が遅れた」で押し切れる。
だが三つを並べると、見えてくる形がある。広く、薄く、長く抜く。表面だけは保ったまま、人が弱るまで待つやり方だ。
前世で見た不正のなかでも、こういうものは長持ちする。誰も一度に全部を見ないから。
「まず暖房です」
私は暖炉の明かりの下で、石炭購入簿と使用記録を並べた。
「先月の購入量は四百二十袋。屋敷の広さを考えれば少なくはありません。けれど実際の火入れ記録は、その半分程度しかない」
レオンハルトが記録に視線を落とす。
「残りは倉庫にあるのでは」
「それなら今夜の廊下が、あそこまで冷えるはずがないのです」
私は自分の指先を見た。夜通し書類をめくっていたせいだけではない。大公家の廊下は、本当に冷たかった。壁の石が湿った氷のようで、使用人たちは肩を縮めて歩いていた。
「二つ目は食費」
台帳をめくる。
「厨房には小麦、干し肉、豆、乳脂がかなりの量で入っています。ですが、支給記録と配膳記録が合いません。厨房へ渡されたはずの食材が、食卓に出ていない」
「客用に回したのかもしれない」
オズワルドが穏やかに言った。
「婚儀の前後は出入りも多うございます」
「客用の献立記録は別にあります。そこも確認済みです」
私は客間配膳簿を指で押さえた。
「むしろ逆です。客用の華やかな献立は整っているのに、使用人と当直兵の食事だけが不自然に薄い」
「婚儀の祝宴用に仕入れた白パンは二百三十枚、仔羊は八頭、香辛料も高級品ばかりでした。祝いの席が豪華だったのは台帳どおりです。けれど、その残りが翌日の下へ一切落ちていない。余り物すら流れていません」
「上の皿だけ整えて、下を削ったわけか」
「ええ。見えるところだけ豊かに」
ミレイユが、机の端でこくりと頷いた。
「昨夜、台所の下働きさんが、パンは薄く切れって怒られてました……」
オズワルドが彼女を見た。ほんの一瞬だったが、それだけでミレイユは口を噤んだ。
見ていればよく分かる。彼は怒鳴らない。怒鳴らないからこそ、屋敷中が逆らいにくい。
「三つ目」
私は最後の山に触れた。
「給与です」
赤く染まる欄がいくつもあった。帳簿魔法はいつも正直だ。
「こちらは説明の余地があまりありません。退役兵、死亡兵、配置換え済みの補給兵にまで支払いが続いています」
「戦時の記録は乱れます」
今度はオズワルドではなく、初老の会計係が震える声でそう言った。
「前線からの報せが遅れれば、停止処理が――」
「一ヶ月ならそうでしょう」
私は頷いた。
「二ヶ月でも、ありえます。ですが四ヶ月、半年、一年は別です」
私は名簿の一箇所を示した。
「この兵士は一年前に退役しています。こちらの二名は昨冬の雪害で死亡。なのに今も、きちんと受領印つきで支払われている」
受領印。そこが美しくも醜い。
どの名でも、最後に押される線の癖が同じだった。
私は前世で、何百という署名の癖を追ったことがある。人は姓名を変えても、最後の払いだけはなかなか変えられない。
「同一人物の筆です」
そう言うと、会計係が青くなった。
「そ、そんなはずは……」
「あるのです。ここに残っていますから」
レオンハルトはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「赤字の総額は」
「今夜見た範囲だけで、持参金の三分の一以上。まだ全体の一部です」
ミレイユが小さく声を漏らす。
「そんなに……」
ええ。そんなに、だ。
しかも厄介なのは、浪費ではないことだった。
浪費なら、止めればいい。贅沢なら、削ればいい。だがこれは違う。
薄く、静かに、何本もの管を刺して血を抜いている。だから表面上はすぐには死なない。じわじわと弱り、寒さと飢えを“仕方ないもの”と思い込まされる。
そういうやり口がいちばん悪質だ。
「閣下」
私はレオンハルトに向き直った。
「これは単なる家計の悪化ではありません」
「分かっている」
「いえ、言葉を正確にしたいのです」
私は一冊ずつ台帳を重ねた。
「暖房費、食費、給与。別々に見せかけていますが、承認印の流れは近い。運搬業者も一部重なっています。屋敷の赤字は、屋敷の無能で生まれたものではない。意図的に作られたものです」
オズワルドがゆるやかに息を吐いた。
「大公夫人は、ずいぶんと大胆なことを仰る」
「大胆ではありません。帳簿をそのまま読んだだけです」
「数字は解釈次第でいかようにも」
「戦時だから仕方ない、で済ませてきたのでしょうね」
私は彼の言葉を切った。
「ですが戦時の数字は、平時より嘘をつきません。減る方向の誤差ばかり積み重なるからです。必要な分まで減っていれば、それは事故ではなく誰かの意思です」
会議室の片隅で、暖炉の火が弱く揺れた。
その弱さが腹立たしい。
「厨房と石炭庫を見ます」
私は立ち上がった。
「帳簿だけではなく、現物も。現物を見れば、誰がどこで寒さと空腹を押しつけられているか分かる」
「私も行く」
レオンハルトも椅子を引いた。
「閣下、朝の来客が」
オズワルドが言いかける。
「延期だ」
「しかし」
「この屋敷の冬が予定どおり回っていないのに、来客の予定だけ守る意味があるか」
低い一言で、それは終わった。
私たちはまず厨房へ向かった。
途中、客間の脇を通る。銀盆にはまだ手つかずの砂糖菓子が残り、冷めかけたとはいえ香りの良い紅茶もあった。婚儀の余韻としては美しい光景だ。
けれど角を一つ曲がるだけで、空気は痩せる。
豊かさはある。配られていないだけだ。
廊下の敷物は分厚いのに、空気が冷たい。角を曲がるたびに冷気が刺す。使用人たちは礼をしながら道を空けるが、その指先は赤く荒れていた。
厨房では、まだ朝食の支度が続いていた。
鍋の中身は想像以上に薄かった。豆の数が少ない。骨付き肉を煮た香りはするのに、具が入っていない。
「これは当直兵用ですか」
私が問うと、料理長の女は困ったように頭を下げた。
「はい。規定どおりでございます」
「規定どおり?」
「執事長から、今冬は一人当たりこの量でと」
彼女の目が怯えてオズワルドへ向き、そこで止まる。
それで十分だった。
次に私は食材庫へ入った。帳簿上では昨日入荷したはずの小麦袋が、半分しかない。干し肉も同じ。帳簿魔法で見ると、本来ここへ繋がるはずの青い線が途中で逸れて、別の場所へ消えていた。
厨房に来る前に、どこかで削られている。
「最後は石炭庫です」
そう言ったとき、私はもう結論をほとんど掴んでいた。
この家は寒い。
けれど、それは北境だからではない。
誰かが寒くしているのだ。
赤字だらけの大公邸。
その正体は、欠乏した家ではない。
欠乏させられている家だった。




