第二話 契約書の五行目
「まず、逃げ道をなくします」
私がそう言うと、レオンハルトは机の上の台帳から顔を上げた。
「具体的には」
「改竄は、紙一枚だけでは完結しません。契約書を差し替え、封蝋に触れ、提出先を知り、あとで支出まで通す人間が必要です」
私は婚姻契約書をそっと机へ戻した。
黒く濁る五行目は、紙の上だけで終わっていなかった。帳簿魔法で触れた瞬間、あの一文から細い糸のような線がいくつも伸びていたのだ。封蝋記録、写しの控え、支払いの仮勘定、そして存在しない補給隊の名簿へ。
不正は単独ではない。仕組みだ。
「書庫を封鎖してください。会計室と文書庫、それから印章保管庫も」
「今すぐか」
「今すぐです。私が“契約書”と言った時点で、賢い犯人なら何を燃やせばいいか察します。だから相手に選ばせてはいけません。全部、閉じるのです」
レオンハルトは少しも迷わなかった。
「扉番を増やす。出入りした者の名前も残させる」
「ありがとうございます。あと、婚姻契約書の写しが何部作られたか、その控え番号も必要です」
「そこまで分かるのか」
「書類は、作った数より残っている数の方が嘘をつきません」
前世でもそうだった。粉飾決算でも架空請求でも、派手な数字より先に綻ぶのは、控えの数と押印の順番だ。世界が変わっても、人は面倒な作業ほど雑になる。
ほどなくして、眠気と緊張が半分ずつ混じった顔のミレイユが戻ってきた。今度は台帳だけでなく、薄い記録冊子を胸に抱えている。
「お、お待たせしましたっ。婚姻書類の控え簿と、封蝋保管録と、印章貸出票です……たぶん、これで全部かと」
「たぶん?」
レオンハルトが問うと、ミレイユは肩を震わせた。
「その……“普段は筆頭執事室にも一冊ある”って聞いています。けれど、あちらは執事長の許可がないと開けられなくて……」
なるほど。最初から見えてきた。
私は控え簿を開いた。婚姻契約書の作成記録は、通常なら作成日、作成者、部数、提出先、封蝋番号が一列に並ぶ。けれど今夜の記録は妙だった。
「……部数が合いません」
「何?」
「ここでは三部作成になっています。王都提出用、フォルティス家控え、大公家控え。ですが実物の封蝋番号は四つあります」
私は紙端の小さな刻印を示した。
「この書式、同一日にまとめて作った書類には、封蝋ごとに連番が振られるはずです。私たちの契約書は“二七一”ですが、控え簿の前後に“二六九”“二七〇”“二七二”“二七三”がある。四枚ではなく五枚分の流れです」
レオンハルトの目が険しくなる。
「余分な一枚がある、と」
「ええ。あるいは、最初に五枚作って一枚だけ記録から消したか」
ミレイユが小さく息を呑んだ。
「そ、そんなこと、できますか……?」
「できます。実際にやった者がいるから、今ここに矛盾が残っています」
次に封蝋保管録をめくる。そこでも一箇所、妙な空白があった。通常なら貸出先の名と返却時刻が並ぶ欄が、婚儀前日の深夜だけ不自然に一行空いている。
「この空白は?」
私が指すと、ミレイユは青ざめた。
「……削られた跡です」
そう。紙の表面が微かに薄い。しかも私の魔法では、そこだけ灰色に霞んでいた。記録を削り、上から整えた痕だ。
「印章を持ち出した人間がいる。しかも、正式な貸出記録ごと消した」
「屋敷の人間だな」
レオンハルトの声が低く沈む。
「少なくとも、屋敷の記録へ触れられる人間です。でも、それだけでは五行目の支出は実行できません」
私は婚姻契約書をもう一度広げ、黒く濁る条項へ指を置いた。
「この“北方第七補給隊への特別支出”という文言。巧妙です。実在した名を使っているから」
「実在した?」
「二年前までは、です」
レオンハルトが短く頷いた。
「雪害で再編された部隊だ」
「ええ。だから今も現場を知らない人間には、まだ存在しているように見える。けれど、支出先としては最適すぎる。人も荷も、今は追えないのですから」
前世の監査でも、廃止された部署や合併済みの勘定科目はよく使われた。そこへ流した金は、誰も“現場”で確かめない。
「つまり」
レオンハルトが私を見る。
「王都の書式を知る者と、屋敷の記録を触れる者と、支出を通せる者が繋がっているわけか」
「はい。しかも一度きりではありません」
私は支払い仮勘定の薄冊子を引き寄せた。そこに触れた瞬間、帳簿魔法の色が一気に変わる。
青、青、赤、灰、そして黒。
「見てください。婚儀前日、特別支出の仮計上が一件あります。金額は持参金の三分の一。まだ執行前ですが、行き先の欄が空白です」
「空白で通るのか」
「普通は通りません。けれど“後日正式記載”の予備枠を使えば、当座の出納だけは押し切れることがあります」
ミレイユが恐る恐る言った。
「その欄、いつもは筆頭執事か上級文官しか……」
彼女が最後まで言う前に、廊下から規則正しい足音が聞こえた。
扉が開く。
入ってきたのは、完璧に整った執事服を纏った痩身の男だった。銀縁眼鏡の奥の目は穏やかで、礼の角度まで美しい。
筆頭執事オズワルド・ゲルト。
「閣下。夜更けまでお疲れさまでございます」
まるで何も知らない顔で、彼は一礼した。
「大公夫人にも、ようこそ北境へ。長旅でお疲れでしょう。帳簿などは明日以降、整えて――」
「結構です」
私は言葉を重ねた。
「むしろ今夜のうちに整っていないことが分かりましたので、これ以上の猶予は不要です」
オズワルドの眉が、ほんの紙一枚分だけ動いた。
「どういう意味でしょう」
私は婚姻契約書の五行目を彼の前に滑らせる。
「この条項、追加されたものですね」
「……存じません」
「では、これが記録簿に存在しない四枚目の写しと対応している理由を教えてください」
部屋の空気が一段冷えた。
オズワルドは表情を崩さなかったが、視線が契約書から控え簿、そして封蝋保管録へ一瞬だけ流れた。その一瞬で十分だった。
知っている人間の目だ。
「閣下」
私はレオンハルトの方へ向き直る。
「改めてお願いします。帳簿の全面開示を。家計、食糧、暖房、給与、倉庫、輸送、印章、補助金、すべてです。加えて、今から朝まで出納を停止してください」
「停止すると現場が混乱する」
オズワルドがすぐに口を挟んだ。
「冬の北境で会計を止めれば、明日の配膳にも支障が出ましょう」
「なら、なおさら調べるべきです」
私は彼を見た。
「明日の配膳に支障が出る程度の余裕しかない屋敷が、存在しない補給隊へ金を回す余地だけは持っている。奇妙でしょう?」
返事はない。
レオンハルトが立ち上がった。
「命じる。今より夜明けまで、全ての出納を停止。書庫、会計室、印章保管庫を封鎖し、私の許可なく誰も触れるな。オズワルド、お前もだ」
「……承知いたしました」
その声音は滑らかだった。
だが、目だけが冷えていた。
私は続ける。
「もう一つ。朝の評議に、屋敷の主要な責任者を全員集めてください」
「何をする気だ」
レオンハルトが問う。
「簡単です」
私は台帳の山を見た。
「五行目の向こう側にいる人間を、数字の順番で炙り出します」
東の窓がわずかに白み始めていた。
夜は、まだ終わっていない。




