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白紙婚の監査令嬢は、帳簿魔法で辺境を黒字にする  作者: 小竹X


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第一話 白紙婚の夜

「君を愛することはない」


 祝宴のざわめきが遠くへ消えた頃、北境ヴァルグレイ大公家の新しい寝室で、夫となった男はそう言った。


 レオンハルト・ヴァルグレイ。


 黒い軍服を礼装に替えていても、戦場帰りの冷気をそのまま連れてきたような男だった。長身、無駄のない体つき、灰銀の目。社交界で噂される美丈夫という評価は間違っていないのだろうが、本人にその気はまるでないらしい。蝋燭の火が彼の横顔を照らしても、その表情は硬いままだ。


 結婚初夜に言うには、あまりにも有名で、あまりにも不親切な台詞だった。


 けれど私は泣かなかった。


 セレナ・フォルティス。今夜から書類の上ではセレナ・ヴァルグレイとなる、北境の大公夫人。前世では不正会計専門の監査人で、今世では“数えることしかできない地味な令嬢”として社交界で値踏みされてきた女だ。


 愛がないくらいで、いちいち崩れるほどやわにはできていない。


「承知いたしました」


 私がそう返すと、レオンハルトの眉がわずかに動いた。


 泣くか、怒るか、取り乱すか。そのどれかを想定していたのだろう。だが、監査人というものは、相手の第一声で感情を使い切ってはいけない。大事なのはその次だ。


 彼は小卓の上に羊皮紙を置いた。


「形式だけの婚姻だ。王都への体裁と、君の実家への配慮のために必要だった。三年後を目処に離縁する。別室で暮らしてもらうし、私人としての自由も可能な限り制限しない」


 淡々としている。言葉を選んではいるが、要するに政略結婚だ。


「その代わり、持参金は領の立て直しに使わせてもらう。北は今、金も物も足りない」


 そこで初めて、私は小さく瞬きをした。


 金も物も足りない。


 その説明は本物だろう。彼の声に虚飾はなかった。だが、説明が本物であることと、提出された書類が本物であることは別問題である。


「確認しても?」


「ああ」


 私は手袋を外し、羊皮紙に指先を置いた。


 その瞬間、文字の輪郭がうっすらと色を帯びる。


 これが私のギフト、帳簿魔法だ。


 契約、支払い、所有、在庫、改竄。数字と約定に関わるものに触れると、その流れが色で視える。青は正常、灰は未確定、赤は不一致、黒は意図的な偽装。


 華やかな攻撃魔法ではない。癒やしの奇跡でもない。だから今まで、誰もこの力を欲しがらなかった。


 ――けれど、不正を見つけるには十分すぎる。


 婚姻契約書の第四項までは青く、五行目だけが黒ずんでいた。


 私は紙を持ち上げ、蝋燭に透かす。


「大公閣下」


「なんだ」


「この契約書、改竄されています」


 空気が変わった。


 レオンハルトの視線が一気に鋭くなる。


「……何を言っている」


「五行目の追加条項です。インクの乾きが違いますし、魔法封蝋の流れも不自然です。私の持参金の一部を“北方第七補給隊の特別支出”へ優先的に充当する、とありますけれど」


 私は指先でその一文をなぞった。


「北方第七補給隊は、二年前の雪害で編成を解かれていますよね?」


 レオンハルトが黙った。


 図星だ。


 彼は一歩、こちらへ近づいた。威圧感のある男だ。普通の令嬢なら後ずさる距離だったが、私は羊皮紙から目を離さない。


「その名を、君はどこで知った」


「知識ではなく、矛盾で見つけました。存在しない支出先は、帳簿魔法だと黒く濁ります」


「……誰がこの書類を作ったか分かるか」


「まだそこまでは。ただ、王都の書式に似せています。屋敷内だけで完結した細工ではありません」


 沈黙が落ちる。


 暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。


 レオンハルトはしばらく私を見ていたが、やがて低く息を吐いた。


「君の力は、そこまで見えるのか」


「契約書なら。台帳、給与簿、倉庫記録も得意です」


「……それをなぜ社交界で隠していた」


「隠していたわけではありません。皆さま、派手な魔法の方がお好きでしたから」


 半分は本当で、半分は嘘だ。


 もう半分の本当を言うなら、前世の私は、書類の山と疲弊した顔を見るたびに胸が痛んだ。数字は人を救う道具にも、人を搾る刃にもなる。その両方を知っていたから、今世ではなるべく静かに生きるつもりでいた。


 静かには、生きられなかったけれど。


「お願いがあります」


 私が言うと、レオンハルトは警戒を崩さぬまま頷いた。


「何だ」


「宝石も、新婚の贈り物も要りません。代わりに、屋敷と領内の会計帳簿を見せてください」


 彼の目が細くなる。


「結婚初夜に欲しがるものとしては変わっているな」


「不正は夜を待ってくれませんので」


 その瞬間だった。


 レオンハルトの口元が、ほんのわずかに動いた。笑った、と言うには短すぎる、けれど確かに氷が一枚割れたような変化だった。


「いいだろう」


 彼はすぐに扉の方へ向き直り、呼び鈴を鳴らした。


「当直の文官を起こせ。家計簿、給与台帳、倉庫台帳、補給記録、全部だ。筆頭執事が何を言っても構わん、今すぐ持ってこい」


 扉の向こうで、使用人が慌てて駆けていく気配がした。


 私はほっとした。ここで拒まれていたら、この結婚はその場で詰んでいた。


「一つ忠告しておく」


 レオンハルトがこちらを見た。


「この家の帳簿は綺麗じゃない。見れば、君の想像よりずっとひどいものが出るかもしれない」


「監査人にとって、それは褒め言葉です」


「君は本当に妙な女だな」


「よく言われます」


 それから一刻もしないうちに、書類の山が運び込まれた。


 最初に入ってきたのは、眠そうな若い少女だった。腕いっぱいに台帳を抱え、扉の敷居でつまずきかける。


「も、申し訳ありませんっ」


 茶色の髪にそばかす。まだ文官見習いだろう。彼女は床に落ちそうになった台帳を必死に抱え直し、青ざめた顔で私とレオンハルトを見上げた。


「ミレイユ・ノッテと申します……。執事長が、その、明日で良いと……でも、閣下命令なら今夜だと思って……」


 執事長が止めた。なるほど、分かりやすい。


「ありがとう、ミレイユ」


 私が台帳の端を支えると、彼女はきょとんとした顔をした。大公夫人に礼を言われると思っていなかったのだろう。


「紅茶はある?」


「は、はい?」


「あなたの分も淹れてもらって。今夜は長くなるわ」


 少女の目が丸くなった。


 その反応だけで、この屋敷がどういう空気だったのか、おおよそ察せられた。


 私は机に着き、最初の一冊を開く。


 家計簿。青、青、灰、青――そして十七ページ目で、赤。


 暖房用石炭の購入量が、屋敷の使用実態に対して二倍近い。だが暖炉の使用記録は少ない。買ったはずの石炭が、屋敷の寒さに反映されていない。


 二冊目。給与台帳。


 青、灰、青、赤、赤、黒。


 死者の名が三つ、そのまま残っている。退役済みの補給兵にも支払いが継続している。しかも受取印はすべて同じ癖の筆跡だ。


 三冊目。兵糧庫の在庫記録。


 帳簿上は満杯、現物確認欄は空欄、輸送記録だけが不自然に多い。


 私は唇の端を指で押さえた。


 懐かしい感覚だった。


 前世でも、こういう瞬間があった。膨大な数字の海の中で、一本だけ方向の違う流れを見つけたときの、あの静かな高揚。粉飾決算、架空請求、循環取引。世界が変わっても、不正の手触りは驚くほど同じだ。


 違うのは、今度は私が誰かの会社ではなく、自分の居場所を守るためにこの山を崩していることだった。


 夜が深くなるほど、机の上のろうそくは短くなり、代わりに異常の印だけが増えていく。


 ミレイユは途中から目をこすりながら補助に入り、必要な台帳を素早く持ってくるようになった。最初はおどおどしていたが、私が「倉庫番の引継ぎ記録」と言えばすぐに棚を探しに行く。優秀な子だ。


 レオンハルトは向かいの椅子で二度ほど報告書に目を通していたが、途中から完全に私の手元を見る方へ意識を移していた。


「君は、本当に全部読むつもりか」


「全部は無理です。ですが、犯人を絞るには十分です」


「もう分かったのか?」


「ええ」


 私はペンを置き、三枚の紙を前に並べた。


「少なくとも、屋敷の中に三人。外に一つ。支出の流れが妙です」


「三人?」


「ひとりは給与台帳を書き換えられる人。ひとりは倉庫へ口を出せる人。もうひとりは王都書式の偽命令を通せる人」


 レオンハルトの目が、静かに細まる。


「重なっている可能性は?」


「あります。でも、今のところは三系統です」


「外の一つは?」


「王都側の窓口。ここが本命でしょう」


 彼は立ち上がり、窓辺へ歩いた。夜明け前の空は群青色で、北の風が硝子を鳴らしている。


「君をここへ送った連中は、北の赤字を埋めるためだと言った」


「ええ」


「だが実際には、赤字を埋める金まで抜くつもりだったわけか」


「その可能性が高いです」


 自分で言っていて、腹が立ってきた。


 辺境が冷え、兵が飢え、領民が節約して、それでも守っている場所から、王都はさらに血を抜こうとしている。帳簿の中にあるのは数字だ。けれど数字の先には必ず人がいる。


 前世で何度も見た。削られた経費の先で、誰が過労で倒れ、誰が冬を越せず、誰が黙って辞めていくか。


「朝の評議に出していただけますか」


 私が言うと、レオンハルトは振り返った。


「何をする気だ」


「簡単です」


 私は異常箇所に栞を挟んだ台帳を閉じる。


「まず、逃げ道をなくします」


 彼はしばらく黙っていたが、やがて短く頷いた。


「いいだろう。俺の隣に座れ」


「光栄です」


「皮肉か?」


「いいえ。配席は情報ですから」


 そこで初めて、彼ははっきりと笑った。ごく短く、しかし確かに。


 そして夜が明けた。


 朝の評議室。長机の向こうに、騎士隊長ガレス・ロウェル、筆頭執事オズワルド・ゲルト、経理責任者、倉庫係の代表者たちが揃う。新妻がそこに現れたこと自体が想定外だったのだろう、室内の空気は微妙にざわついていた。


 オズワルドがまず口を開く。


「奥様。お疲れのところ、このような実務の席にいらっしゃる必要は――」


「あります」


 私は彼の言葉を、笑顔のまま切った。


 昨夜の帳簿の黒い染みが、彼の後ろに見える気がした。


 長机の上に台帳を置く。乾いた音が響く。


「大公閣下の許可をいただき、昨夜、屋敷の帳簿を確認いたしました」


 数人が顔を見合わせた。


 ガレスだけが怪訝そうに眉をひそめている。現場の人間には、こういう場は面倒だろう。だが、面倒で済ませていい段階は過ぎている。


 私は一冊目を開いた。


「結論から申し上げます」


 部屋の全員がこちらを見る。


 レオンハルトは何も言わない。ただ、私の隣で腕を組んだまま座っている。その沈黙が、許可だった。


 私はまっすぐ前を見た。


「この屋敷には、三人の国賊がいます」

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