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白紙婚の監査令嬢は、帳簿魔法で辺境を黒字にする  作者: 小竹X


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第四十七話 送達先の空欄

 婚姻解消受理控えの送達先欄だけが、昨夜まで空白だったのに今朝は二本の薄い下書きで埋まりかけていた。


 礼拝堂の記録室へ入ると、石机の上に三枚の控えが並んでいた。婚姻解消受理控え。決算照合立会の送達控え。持参金返還請求の送達控え。昨日、私が別欄に分けさせた三枚だ。


 けれど婚姻解消受理控えのいちばん下、送達先欄にだけ、青墨の細い試し書きが二本走っていた。


『ヴァルグレイ大公家』

『フォルティス伯爵家』


 どちらもまだ本書きではない。けれど、乾き砂の痕が残っている。誰かが先に、私の行き先を二択へ戻そうとした。


「これ、昨日は空でしたよね」


 私が言うと、老司記は眼鏡の縁を押した。


「ええ。夜番の書記が、礼法見本を脇へ置いたのでしょう」


「見本なら、本紙へ砂を落としません」


 私は婚姻解消受理控えを持ち上げ、横の二枚と重ねた。決算照合立会の控えと持参金返還請求の控えには、まだ何も書かれていない。空白は三枚で揃っているべきだった。


 ミレイユがすぐ隣で小さく息を吸う。


「司記様、三枚とも急使札番号を先に打ちましょう。送達先を書いてから札を結ぶと、また混ぜられます」


「番号先行、ですか」


「はい。文書名、送達先、受取署名、返戻先を一冊で追えば、婚姻の紙と決算の紙を同じ鞄へ入れられません」


 私は頷いた。


「送達先受渡帳を起こしてください。控え三枚と急使札を一対で結びます」


 老司記は少し驚いた顔をしたあと、すぐに新しい薄帳を出した。罫線は礼拝堂の婚姻控えより細い。仕事用の帳面だった。


 見出しを書き、ミレイユが欄を足す。


『文書名』

『急使札番号』

『送達先』

『受取署名』

『返戻先』

『立会人』


 私は婚姻解消受理控えの下書き二本へ斜線を引いた。


「婚姻解消受理は本人渡しを先。送達は本人記入のあとです」


 老司記が羽根筆を止め、静かに頷く。


「礼法見本より、今はこちらを基準にしましょう」


 それでようやく、三枚の紙が同じ高さに戻った。


 石机の向こうで、礼拝堂付きの若い書記が急使札へ通し番号を打ち始める。小さな金槌の音が、朝の鐘より乾いていた。


 その三打目で、廊下の向こうが少しだけ騒がしくなった。兵の革靴の音ではない。雪道を長く来た者の、乾いた外套が擦れる音だ。


 戸口へ現れたのは、レオンハルトだった。


 白尾で見た軍装ではなく、濃紺の外套に王都入り用の肩章をつけている。けれど裾にはまだ北の灰が残っていた。左手の黒革手袋だけ、新しい。傷が完全には塞がっていないのだと、そこだけで分かる。


 彼は私を見つけると、礼拝堂の中央まで進み、余計な挨拶を挟まず机へ一束の紙を置いた。


『北方新年度仮配表』


 白尾下補給所、冬季命綱費、帳場補助、筆算工房、共同竈前、北門予備。見慣れた見出しが並んでいる。けれど数字は新しい。戦時の穴埋めではなく、次の年に回すための配り方だった。


「王都が、受理控えの送達先照会を北へ走らせようとした」


 彼は婚姻解消受理控えの斜線を一瞥した。


「返事を持たせなかった。お前の名の行き先を、俺や王都が先に書くべきじゃない」


 私は仮配表を開いた。


 罫線は荒い。王宮の整った清書ではなく、たぶん道中か宿で引いた線だ。けれど、前倒しの黒字も、未済返還見込も立っていない。冬季命綱費は冬のまま、白尾下補給所帳場補助も春で切られていなかった。


 ただ一行だけ、空欄がある。


『王都決算照合・北方新年度仮配表 送達先』


 そこだけ、墨が置かれていない。


「空けてありますね」


「ああ」


 彼は短く答えた。


「お前が決める欄だ」


 私は次頁をめくった。北門予備の減り方、白尾の補給橇修繕、筆算工房の紙代、共同竈前の冬明け炭代。どれも現場を見た者の線だった。レオンハルトは会計が得意ではない。けれど、何を先に落としてはいけないかは、もう数字の並びで分かるようになっていた。


「筆算工房の写し賃が少ないです」


 私が言うと、彼はすぐ紙を寄せた。


「どこだ」


「ここ。戦時の臨時雇い単価のままです。王都決算が長引けば、写しは春度ぶんだけでは終わりません。今度は夜札と同じで、常置の手として積んでください」


 ミレイユが、ぴたりと耳を立てる気配がした。


「あと、王都返戻見込を先に立てていないのは正しいです。未済返還は受取署名のあとで青くしてください」


「分かった」


 レオンハルトは机端へ肘をつかず、立ったまま修正欄へ線を引いた。左手は使わない。右手だけで、私が示した行の横へ『写し賃常置』『返還受取後計上』と短く書き足す。


 最初の夜、彼は婚姻契約原本へ「冬明けの離縁申し出を妨げないこと」と書いた。今は別の紙へ、「先に受け取ってから計上する」と書いている。同じ筆圧なのに、向いている先が違った。


 老司記が空気を読み、送達先受渡帳をミレイユへ渡した。


「こちらは若い方に任せましょう。私は急使札の封を見てまいります」


 戸が静かに閉まる。記録室に残ったのは、私とレオンハルトとミレイユ、そして机いっぱいの紙だった。


 ミレイユは送達先受渡帳へ番号を書き写したあと、わざとらしくない声で言う。


「私は王宮西棟の仮卓を見てきます。決算照合の紙、置ける机がないと困りますから」


 そのまま、帳面を抱えて出て行った。廊下へ出る直前、扉の隙間から一度だけ私を見たけれど、何も言わなかった。


 レオンハルトは残った仮配表の最後の頁を開いた。そこには、王都用の席次控えが挟んである。


『王都決算照合仮卓』

『北方側立会』

『王宮側立会』

『監査席』


 監査席の名は空白だった。


「王宮は、俺に北方側立会の名だけ入れさせようとした」


 彼はその空欄を指で押さえた。


「監査席は王宮の書記か、第一王子宮の整理係で足りると」


「足りません」


「ああ。足りない」


 返答が早すぎて、私は顔を上げた。


 彼は、白尾で火薬庫の灯りを絞ったときと同じ目をしていた。誰かを庇うために距離を取る目ではない。的を外さないために、まっすぐ見る目だ。


「最初の婚姻は、領と王都の都合で結んだ」


 彼の声は低い。けれど礼拝堂の石壁にぶつかっても鈍らなかった。


「あのとき俺は、お前を巻き込まないことしか考えていなかった。だから、愛さないと先に言った。離縁の札まで原本へ置いた」


 私の指先が、婚姻解消受理控えの端へ触れる。昨夜まで重かった札だ。いまは薄いのに、紙の繊維だけが妙に手へ残る。


「あれが必要だったことは否定しません」


 私が言うと、彼は頷いた。


「俺もだ。必要だった。だが、もう同じ書き方はしたくない」


 彼は仮配表ではなく、席次控えの空欄をこちらへ向けた。


「次に頼むなら、領のためでも責任のためでもなく、お前本人に頼みたい」


 石机の上で、急使札番号の控えが風もないのに少しだけ鳴った。


「王都に残るなら止めない。フォルティス伯爵家へ戻るなら、それも止めない。だが、俺はお前に辺境へ戻れと命じたくない」


 彼は一度だけ、息を区切った。


「それでも、俺はお前に隣へ立ってほしい。監査席も、俺の机の右も、共同竈前も、白尾下補給所も、お前がいた場所を契約の残りかすにしたくない」


 言葉が甘く整っていないぶん、逃げ道も少なかった。


 彼はさらに続ける。


「セレナ。もう一度、お前に求婚したい」


 礼拝堂の高窓から入る光が、席次控えの空欄へ落ちた。罫線だけが白い。


 私はその空欄を見た。次に仮配表の送達先欄を見る。どちらもまだ何も書かれていない。誰かの礼法見本も、王都の都合も、ここには先に落ちていなかった。


 だから、今度は自分で順番を決められる。


「婚姻の返事を、この場で礼法どおりに書くつもりはありません」


 私が言うと、レオンハルトの肩がほんのわずかに下がった。落胆というより、身構えを解いた動きだった。


「ええ。私も同じ書き方はしたくないので」


 私は送達先受渡帳を引き寄せ、新しい行を開いた。


『文書名 北方新年度仮配表』

『急使札番号 未定』

『送達先』


 そこへ、ゆっくり筆を置く。


『王宮西棟 決算照合仮卓』


 続けて、受取署名欄を二つに分けた。


『セレナ・フォルティス』

『レオンハルト・ヴァルグレイ』


 婚姻解消受理控えでも伯爵家帰還でもない。まず次に立つ机を、私は先に書いた。


「返事は、この予算を本当に黒で閉じたあとにします」


 筆先の墨が、帳面の繊維へ静かに沈む。


「未済返還を受け取り、王都の歓声ではなく、払うべき相手へ払った数字で閉じること。それができたら、送達先の続きを私の字で書きます」


 レオンハルトは帳面を見下ろし、それから初めて口元をわずかに緩めた。戦後報告でも見なかった、小さな動きだった。


「分かった」


 彼は席次控えの空欄を消さなかった。代わりに、その下へ一行だけ足す。


『仮置』


 そして、監査席の横ではなく欄外に書いた。


『本人記入まで空欄』


 私はその書き方に、喉の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。評価の言葉にする前に、乾きかけた墨の匂いが先に来る。


 戸が開き、ミレイユが戻ってきた。


「王宮西棟、南窓側の長机が一本空きます。老書記が『第九十六頁連動の紙なら、あそこへ集めるべきだ』って」


「ちょうどいいです」


 私は送達先受渡帳を閉じた。


「次の紙は、そこへ運びましょう」


 婚姻解消受理控えの送達先欄は、まだ空白のままだった。


 けれど次に向かう机だけは、もう空いていない。

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