第四十六話 婚姻契約原本と解消届
婚姻解消届の別紙だけ、持参金が一枚も戻っていないのに『残余なし』と書かれていた。
礼拝堂の記録室は、王宮整理庫より紙の匂いが薄かった。代わりに蜜蝋と香油が残っている。朝の光が高い窓から斜めに入り、石机の上で羊皮紙の縁だけを白くした。
中央に置かれていたのは四枚。婚姻契約原本。礼拝堂送達控え。王宮側が用意した婚姻解消届。そして、その下に綴じられた『婚儀清算別紙』。
私は一番下の紙を指で止めた。
「これを外してください」
向かいのアドリアンが、いつもの柔らかな笑みを崩さず首を傾ける。
「解消と清算は一緒に済ませたほうが、Lady Serenaにも負担が少ないでしょう。婚儀前預りは王宮側で整理中ですから」
「整理中の紙が、先に『残余なし』になることはありません」
別紙の右端には『婚儀前預り 第二十八号連動』と薄く書かれていた。その下の返還欄は空白、受取署名欄も空白なのに、摘要欄だけが先に埋まっている。乾き砂もまだ浮いていた。
ミレイユが横から覗き込み、すぐに小声で言った。
「司記様、この摘要欄だけ今朝の砂です。それに、文字幅が第九十六頁の『婚儀清算扱』と同じです」
礼拝堂の老司記が眼鏡を押し上げた。彼は昨夜のうちに整理庫から回された控え束を読んでいる。第九十六頁と未済支払留帳の補記も、もう知っている顔だった。
「婚儀清算別紙は、いったん切り離しましょう」
彼が言うと、アドリアンの指がわずかに机縁を叩いた。
「礼法の手続きです。王宮整理庫の補記とは別件で」
「別件なら、なおさら別紙です」
私は婚姻契約原本を開いた。
羊皮紙の繊維は、辺境の控えより太い。けれど文面は驚くほど短かった。
『夫家軍務勘定と妻持参金勘定を分けること』
『別居希望を妨げないこと』
『冬明けの離縁申し出を妨げないこと』
そこまでで終わっている。
私は礼拝堂送達控えを隣へ置いた。封蝋の番号、証人封の位置、条項の並び。全部が原本と揃っていた。五行目の補記も、離縁留保も、婚儀清算を条件にする文もない。
「司記控えと原本で一致しています」
老司記が短く言う。
「冬明けの離縁申し出は妨げない。これが登録文です」
アドリアンが返す。
「ですが、持参金の整理が終わらなければ、婚姻の終了だけ先に認めるのは不均衡です。Lady Serenaの保護のためにも」
「保護なら、先に銀を戻してください」
私は持参金支払台帳の欠葉確認と未済支払留帳を、婚儀清算別紙の上へ重ねた。
「第二十八号は婚儀のために使われていません。昨日、国用整理簿第九十六頁で婚儀清算扱いは計上停止になりました。返還欄も受取署名もないのに『残余なし』だけを先に書くのは、婚姻の終了へ未済を沈める書き方です」
ミレイユが査察受渡帳を開き、空いた頁へ見出しを書いた。
『婚姻契約原本・礼拝堂送達控え 同席照合』
『婚姻解消届』
『婚儀清算別紙 切離』
私はその三行目の横に、さらに短く足す。
『第九十六頁連動停止中』
老司記は一度だけ黙ったあと、婚儀清算別紙の綴じ紐を外した。薄い紙が机の上で一枚だけ軽く鳴る。
それでようやく、婚姻解消届の文面が単独で見えた。
『婚姻契約原本第三条にもとづき、妻セレナ・フォルティスの申し出により、本日付で婚姻を解消する』
余計な言い回しが消えると、文は驚くほどまっすぐだった。
私は夫名の欄を見た。婚儀の日のレオンハルトの署名が、その下の原本に残っている。大きく、急がず、言い訳のない線だった。冬明けの離縁申し出を妨げないこと。その文のすぐ下にある。
最初の夜に聞いた「君を愛することはない」は、冷たかった。けれど、いま机の上にある原本は、私を王都の都合へ縛るための紙ではなかった。
「Lady Serena」
アドリアンがやわらかく呼ぶ。
「解消を選ばれるなら、送達先はフォルティス伯爵家へ戻すのが礼法です。王都滞在も本日までとして」
「それも別件です」
私が答える前に、老司記ではなく整理庫から来ていた老書記が口を開いた。昨日、第九十六頁へ署名した人だ。
「婚姻身分と王宮決算の立会資格は同一ではありません。第九十六頁の補記、王宮主計簿の停止紙片、未済支払留帳の立会人欄、いずれもLady Serena個人の照合行として残っております」
アドリアンの笑みが、今度は少し遅れた。
「大公妃でなくなれば、立場は弱まるでしょう」
「ええ」
私は婚姻解消届の余白へ目を落とした。
「弱まります。ですから、肩書ではなく名前で残します」
ミレイユがすぐに受渡帳へ欄を足す。
『婚姻解消後の立会名義』
『セレナ・フォルティス』
「送達先欄も分けます」
私は言った。
「婚姻解消の受理先と、決算照合の送達先と、持参金返還請求の送達先を同じにしないでください。混ぜるために、今朝この別紙が綴じられたのでしょう」
老司記が頷き、三枚の小紙片を切り分けた。
『婚姻解消受理控え 送達先』
『決算照合立会 送達先』
『持参金返還請求 送達先』
机の上に、三つの空欄が並ぶ。
アドリアンは何も言わなかった。たぶん、昨日までは一つの札で済んでいたからだ。花嫁、清算済み、返還なし。その三つを同じ紐で結べなくなった。
私は先に、婚姻解消届へ署名した。
セレナ・フォルティス。
婚儀の夜以来、久しぶりにその名だけを書いた気がした。羊皮紙は厚いのに、筆先の返りは軽い。けれど、署名の最後で手は止まらない。迷うための言葉が、もう文面のどこにもなかった。
老司記が受理印を押す。赤い円が乾ききる前に、礼拝堂送達控えと同じ封蝋番号が控えへ写された。
「受理します」
彼は静かに言った。
「本日付で、契約婚は終了です」
王都の朝鐘が、遠くで一度鳴った。
老司記は婚姻解消届の控えを二通に分けた。一通は礼拝堂保管、一通は本人渡し。どちらにも礼拝堂印の丸欄が先に押され、王宮受領印の欄だけが空で残る。婚姻を終えた紙へ、王宮側の都合をあとから潜り込ませる余地を、最初から細くしておく書き方だった。
私は息を吐いた。胸が軽くなったわけではない。代わりに、肩へ乗っていた札が一枚外れたぶん、机の向こう側が広く見えた。
老書記が未済支払留帳を寄せる。
「次はこちらです。婚儀前預り第二十八号は、婚姻解消と切り離して未済返還請求へ移します」
彼は婚儀清算別紙の表題を二重線で消し、その下へ新しく書いた。
『持参金返還請求 第二十八号連動』
ミレイユが筆を受け取って、国用整理簿第九十六頁参照、未済支払留帳連動、受取署名未了、と順に補記する。婚姻の札から外れた銀は、ようやく未済の列へ戻された。
これで、婚姻の終わりを誰かの穴埋めに使えない。
アドリアンが初めて露骨に眉を寄せた。
「Lady Serena。自由になられた以上、辺境へ戻る義務も、王都へ残る義理もありません」
「ええ」
私は受理控えから顔を上げた。
「だから、どこに立つかは私が決めます」
老司記が最後の小紙片を私へ向ける。
『婚姻解消受理控え 送達先』
大公家。
フォルティス伯爵家。
王宮宿所。
大公家の行は太く、礼法どおりの筆で最初から置かれている。フォルティス伯爵家の行は細く、王都宿所の横には決算照合立会と同じ小さな記号が付いていた。どの紙も、別の理由で私をどこかへ置こうとしている。
どれにもまだ筆を入れないまま、下に細い空白が残っていた。
花嫁として戻る先は、もうない。
では、監査人として。
あるいは、私自身として。
次にどの机の前へ立つのか。
乾き砂の箱が、紙の横で静かに待っていた。




