第四十五話 決算の天秤
国用整理簿第九十六頁へ重ねた帳面は、三口の合計だけが不自然なくらいきれいに揃っていた。
欠けているのは銀貨ではない。払われなかった相手の順番だった。
王宮整理庫の長机へ、私は帳面を横一列に並べた。国用整理簿、王宮主計簿、慰撫費口仮渡し控え、未済支払留帳、第一王子施療院春設え帳、戦備先買控えの写し、持参金支払台帳の欠葉確認、そして白尾から持ってきた『白尾・東谷勝勢内訳』。紙の匂いが冷えた部屋いっぱいに広がる。
シリル・アルベイン第一王子は机の向こうで立ったまま、手袋を外さなかった。
「まだ続けるのかい。第九十六頁の意味は、もう十分見ただろう」
「ええ。だから、ここから先を閉じます」
私は王宮主計簿の期末残高頁を開いた。青い数字は相変わらず整っている。けれど、その下にある仮渡し控え、春設え帳、未済支払留帳へ指を滑らせると、同じ銀が別の顔で三度ずつ立っていた。
「傷兵扶持銀四十は、未済支払留帳では未払いです」
私は一冊ずつ指した。
「仮渡し控えでは第三束。春設え帳では毛布。国用整理簿では寄付口、軍需口、口銭」
次に、北方冬季命綱費差戻の行へ触れる。
「こちらは四年前の冬です。野戦所で足りなかった薬包三十が、北巡施療列では善意の毛布六十に化けている」
ミレイユが横で、束ねた証拠の題名を読み上げた。
「野戦所不足聞取帳写し、施船寄進札、見舞名偽装細紙、戦備先買控え、持参金支払台帳欠葉確認」
机の上へ、順に載せられる。
シリルは静かな声のまま言った。
「国は帳面どおりには動かない。北の冬を救うにも、王都で人を集め、寄進を集め、商会を動かす顔が要る」
「顔なら、もう十分集めています」
私は青紐の箱札を国用整理簿の横へ置いた。
「けれど、あなたが集めたのは寄進の前に歓声です。払う前に済印を押し、届く前に現銀欄へ立て、足りないぶんを辺境から抜いて先に配っている」
王子の目元がわずかに細くなった。
「結果として配れているなら、救われた者もいる」
「ええ。けれど、その毛布の下で凍えたまま待たされた相手の名が、あなたの帳面から消えている」
私は未済支払留帳の最初の行へ触れた。『ヴァルグレイ大公家立替返戻』。白尾を出る朝、レオンハルトが左手で無理に書いた荒い署名が、薄い紙越しにまだ指へ引っかかる。
その瞬間、帳簿魔法の黒い線が、はじめて一本ずつではなく面で見えた。
左には、白尾の朝番、傷兵扶持銀、湿った藁、南塔のひび、婚儀前預りの封箱。寒さと不足と、まだ支払われていない重みが沈んでいる。
右には、青紐の箱、施療院の毛布、施船寄進札、七商会の買い付け紙、王子へ向いた拍手。どれも同じ銀で支えられているのに、軽い顔で持ち上がっていた。
見えたのは盗みの線ではない。決算の傾きだった。
先に支えるべき皿を沈めたまま、あとから結んだ札だけを黒字へ立てている。
私は息を吸い、老書記へ向き直った。
「余白紙を。細いものを一枚」
差し出された紙へ、私は書いた。
『元金受領未了、受取署名無、現物未達の再配分は、後付札先にて計上停止。原口未済優先』
ミレイユがすぐ下へ欄を足す。
『適用行』『停止先』『立会人』
「何をするつもりです」
アドリアンが初めて笑みを外した声を出した。
「戻します」
私は国用整理簿第九十六頁の余白へ、その紙を重ねた。
「この頁にあるのは整理ではありません。一枚の銀を、未払いと善意と軍需へ着せ替えるための順番です。だから、順番ごと止めます」
帳簿魔法の天秤が、紙の下で静かに傾きを返す。
私は行を追った。
「北方冬季命綱費差戻三十四。北巡施療列、第七補給隊便宜、巡慰三口、計上停止。原口は北方冬季命綱費差戻のまま」
老書記の筆先が止まる。ミレイユが即座に、次の停止先を書き足した。
「傷兵扶持銀留四十。春設え第三束、施船口、東庭整理机、計上停止」
「南塔壁補修賃留二十二。春設え第八束、見舞口、七商会先買帳、計上停止」
「婚儀前預り第二十八号。婚儀清算扱、第七補給隊仮勘定、巡慰三口、計上停止」
最後の一行で、王子の視線が初めて鋭くなった。
「待て」
シリルが一歩、机へ近づく。
「婚儀前預りは別件だ。国用の都合で一時預かっただけで、婚姻そのものとは切り離されている」
「切り離されていません」
私は持参金支払台帳の欠葉確認を開いた。
「第二十八号が婚儀清算扱いとして国用整理簿へ入っている以上、この婚姻は清算済みの顔を借りて流用されている。婚儀の金が婚儀へ使われていないなら、清算扱い自体が無効です」
整理庫の戸口で、若い書記が息を呑んだ。
そのとき、別の書記が急いだ足で入ってきた。両手には革挟み。表に『九十六 清書済み』の札がある。
「殿下、こちらへ差し替えを」
「置かないで」
止めたのは、ミレイユだった。
彼女はその革挟みを受け取るより先に、札の下端を指で押さえた。
「乾き砂がまだ浮いています。今書いた頁です。それに、後付札欄の罫線幅が原葉より狭い」
書記の手が止まる。
ミレイユは私を見ず、老書記へ言った。
「こちらも査察受渡帳へ入れてください。『清書済み差替持込 刻限・持込者名あり』」
老書記は頷き、震える手で書きつけた。
もう誰も、「写し替え中」の一言では逃げられない。
私は王宮主計簿を開き、期末残高の頁へ紙片を挟んだ。
『第九十六頁連動再配分 計上停止中』
次に春設え帳。
『寄進実績計上保留 継続』
未済支払留帳には、ミレイユが新しく細い補記を足す。
『第九十六頁連動行 原口未済優先』
帳簿魔法の天秤が、そこで静かに釣り合った。
金が増えたわけではない。王宮の抽斗に銀貨が戻ったわけでもない。
ただ、誰の不足を沈めたまま歓声を先に立てていたのか、その順番だけが戻った。
だからこそ、主計簿の青い残高はもう黒字の顔をできない。
老書記が頁をめくり、乾いた声で言った。
「このままでは、春度決算は閉じられません」
「困るかな」
私が訊く前に、シリルが先に笑った。けれど、その笑みは施療院の配布場にいたときほど柔らかくなかった。
「王都の台所は、きれいごとだけでは回らない」
「ええ。だから、きれいごとの札を先に外しました」
私は王子を見上げた。
「王都を回したいなら、未払いを払い、差戻しを戻し、寄進は寄進として集めてから配ってください。辺境の冬と傷兵の銀を先に抜いたまま、人心掌握だけ青く立てるのは決算ではありません」
王子は何も返さなかった。
代わりに、手袋を持つ指先だけがわずかに強く曲がった。
私は最後の一枚、持参金支払台帳の欠葉確認を老書記へ渡した。
「婚儀前預り第二十八号の清算扱いが止まった以上、礼拝堂送達控えと婚姻契約原本の再照合を求めます」
老書記はためらわなかった。もう机の上で、どの紙が先に沈められていたか見てしまったからだ。
彼は査察受渡帳の次頁へ、新しい見出しを書いた。
『婚姻契約原本・礼拝堂送達控え 同席照合』
明朝刻限まで添えて。
決算の傾きは戻った。
次に開くべきは、私の結婚そのものだった。




