第四十四話 国賊の帳簿
国用整理簿の第九十六頁だけが、丁の順から消えていた。
王宮の奥にある整理庫は、金庫室よりも冷えた。石棚へ革表紙の大冊が並び、窓際には乾き砂の箱と頁押さえの鉛棒が置かれている。暖炉はあるのに火が弱い。紙を乾かすための部屋で、人を温めるための部屋ではなかった。
私は長机の上で、革綴じの国用整理簿を開いた。
第九十五頁。
次が、第九十七頁。
綴じ糸の穴だけが、ひとつぶん新しかった。切って戻した跡だ。
「製本違いではありません」
私が言うと、向かいに立つアドリアン・セルヴァンは袖口を整えた。
「整理庫では、写し替えの途中で頁を抜くことがあります。ほどなく清書が戻るでしょう」
「なら、抜いた記録があります」
私は査察受渡帳を開き、机端へ寄せた。
『国用整理簿 一冊』
『第九十六頁 欠丁』
『綴じ糸切断跡あり』
ミレイユがすぐ横へ新しい欄を引く。
『抜去理由』『抜去刻限』『保管者』『写し有無』
整理庫番の老書記が、喉の奥で息を詰まらせた。昨日、王宮金庫前で未済支払留帳の立会人にさせられた主計係とは別人だが、似た顔をしている。帳面の空欄を嫌う顔だ。
「写し替え用の挟みを出してください」
私が言うと、アドリアンは笑みを作り直した。
「国用整理簿は王宮の中枢です。頁一枚を切り出して見せる性質のものでは」
「だからこそ、消えた一枚の行き先を残します」
私は第九十五頁の端を押さえた。
「昨日、第一王子施療院の裏帳場で見た仮渡し控えは、この第九十六頁を参照していました。未済支払留帳の各行も同じです。四年前の北方冬季命綱費差戻しも、ここへぶら下がっている」
ミレイユが小さく、けれどよく通る声で続けた。
「抜いたなら、戻す前の板か挟みがあります。乾き砂がまだ新しいです」
老書記の目が、窓際の細い箱へ泳いだ。
そこにあったのは、帳面一冊ではない。厚紙二枚で挟んだ薄い束だった。外紐へ小さく札が付いている。
『九十六 写上げ前』
私は紐を解いた。
中から出てきた一葉は、折れていないのに端だけが荒れていた。急いで綴じから外した紙の傷だ。頁下の角には、薄く王宮整理庫の押印がある。まだ差し替え前の原葉だった。
「立会い」
私が言うと、老書記は観念したように頷いた。ミレイユがその名を書き取り、頁下の余白へ署名欄を作る。
私は国用整理簿第九十六頁を机の中央へ置いた。
見出しは淡々としていた。
『国用整理簿 第九十六頁』
『外延支度・差戻再配』
その下の欄が、私の指先を冷やした。
『元金名目』
『第一口 寄付口』
『第二口 軍需口』
『第三口 口銭』
『後付札』
『指図先』
巡慰三口。
四年前、リゼットが解いた商人の隠語が、今度は王宮の大冊で整った罫線になっていた。
私は最初の行を読む。
『北方冬季命綱費差戻 三十四』
『寄付口 北巡施療列 毛布六十・薬包三十』
『軍需口 第七補給隊便宜』
『口銭 巡慰三口』
『後付札 献納札』
『指図先 第一王子宮東庭整理机』
喉の奥へ、白尾の風が戻った。四年前、レオンハルトが待たされた薬包三十。北の野戦所で削られた冬季命綱費。解隊済みの第七補給隊名義。全部が一行で横につながっている。
次の行をめくる。
『傷兵扶持銀留 四十』
『寄付口 春設え第三束』
『軍需口 施船口』
『口銭 東庭整理机』
『後付札 毛布寄進札』
『指図先 第一王子施療院』
『南塔壁補修賃留 二十二』
『寄付口 春設え第八束』
『軍需口 見舞口』
『口銭 七商会先買帳』
『後付札 見舞札』
『指図先 東庭整理机』
『婚儀前預り 第二十八号』
『寄付口 北巡献納不足補填』
『軍需口 第七補給隊仮勘定』
『口銭 巡慰三口』
『後付札 婚儀清算扱』
『指図先 東庭整理机』
私は息を吐かずに頁を押さえた。
持参金台帳から欠けていた第二十八号付票。
河岸で押さえた施船寄進札。
白尾で拾った「見舞名で下げる」細紙。
六商会名義の先買い紙。
どれも別の顔で現れていたのに、ここでは同じ横列へ座っている。
ミレイユが震えを抑えた声で言った。
「七商会、商会名じゃありません。ここ、指図先が東庭整理机です」
「ええ」
私は第九十六頁の右端を指でなぞった。
「七つ目は商人ではない。王宮の机です。名を書かずに一度ここへ寄せて、あとから札だけ結ぶ」
アドリアンが口を開いた。
「国では、急ぐ支度を一度まとめることがあります」
「まとめるなら、後付札という欄は要りません」
私は頁から目を上げた。
「寄付口、軍需口、口銭。先に三つへ割ってから、最後に善意の札を結ぶ。これは整理ではなく洗い替えです」
机の脇へ、私は証拠束を順に並べた。
四年前の野戦所不足聞取帳写し。
施船寄進札の空札。
見舞名偽装細紙写し。
戦備先買控えの六商会紙。
持参金支払台帳の第二十八号欠葉確認。
未済支払留帳。
仲間たちが、それぞれの場所で拾ってきた紙だった。レオンハルトの現場帳。ガレスが押さえた革袋の細紙。リゼットが解いた巡慰三口。ミレイユが残した束番号。私一人で開いた頁ではない。
私は第九十六頁の行へ、それぞれ重なる紙を載せていく。
「北方冬季命綱費差戻三十四。四年前の野戦所不足と一致」
「傷兵扶持銀留四十。未済支払留帳の第一行と一致」
「施船口。河岸南棚の施船寄進札と一致」
「見舞口。白尾戻り二荷の見舞名偽装細紙と一致」
「七商会先買帳。北市の六商会紙と、空いた七つ目の買い口に一致」
「婚儀前預り第二十八号。欠けた持参金付票と一致」
老書記の指が、机端で止まった。彼もようやく、自分の前の紙が一枚の不正ではなく、王都全体の導線図だと見たのだろう。
そのとき、整理庫の戸が開いた。
柔らかな靴音だった。侍従が先に入り、その後ろへシリル・アルベイン第一王子が現れる。施療院の配布場と同じ青の上衣だが、ここでは笑みの温度が低かった。
「朝から賑やかだ」
彼は机の上の証拠束を見下ろし、それから第九十六頁へ視線を止めた。
「国用の整理に、辺境の方が強い言葉を当てるものだね」
私は座ったまま答えた。
「言葉ではありません。順番です」
未済支払留帳を第九十六頁の横へ置く。
「払うべき相手へ払わず」
施船寄進札を載せる。
「船腹へ軍需を隠し」
見舞名偽装細紙を重ねる。
「戻り荷へ見舞い札を結び」
戦備先買控えを開く。
「町を干す買い口をあとから作る」
最後に、四年前の野戦所不足聞取帳写しを置いた。
「その全部が、ここでは同じ頁です」
王子はすぐには答えなかった。机の上の行と行のあいだを、目だけで辿っている。数字そのものより、並べられた順番を見ている顔だった。
「国を回すには、きれいな名前だけでは足りない」
「だからといって、凍える場所から先に抜いてよい理由にはなりません」
私は第九十六頁の『後付札』欄を叩いた。
「これは国用ではありません。歓声の形へ縫い直した盗みです」
シリルの目元がわずかに細くなる。けれど怒鳴らない。そこがこの人の厄介なところだった。
「証明できるかな」
「今、しています」
私は老書記へ羽根筆を差し出した。
「原葉照合の署名を」
彼は王子を見た。次にアドリアンを見た。最後に机の上の紙を見て、震える指で自分の名を書いた。
続けて整理庫番、ミレイユ、私。
私は第九十六頁の余白へ細い紙片を貼った。
『原葉照合済』
『第九十六頁 欠丁差替未了』
『後付札欄照合保留不可』
これで少なくとも、次に誰かがこの頁を別の清書へすり替えようとすれば、欠丁そのものが残る。
アドリアンの笑みは、もう戻らなかった。
私は最後に、帳簿魔法を頁全体へ滑らせた。
黒は一行ずつでは来ない。
寄付口、軍需口、口銭。
三つに割られた線が、紙の下で王都じゅうへ伸びた。毛布、薬包、蹄鉄、乾燥肉、見舞札、婚儀付票。どれも同じ重さではないのに、同じ机で切り分けられている。その黒い線の先で、片側だけが沈んで見えた。寒さと不足と未払いばかりを乗せられた、見えない皿だった。
まだ名はない。けれど形は、もう見えていた。
暴くだけでは足りない。
次はこの傾いた勘定そのものを、元へ戻さなければならない。




