第四十三話 第一王子の慈善事業
第一王子施療院春設え帳の「毛布四十枚」の横にある繰替元は、寄進ではなく『慰撫費口仮渡し第八束』だった。
王宮の金庫を出たその足で、私はミレイユと東庭の渡り廊下を曲がった。青紐の箱が運ばれていった先だ。廊下の板は磨かれ、壁には金糸の房が下がっている。白尾下補給所の板間で靴裏へ噛んだ氷を落としていた朝とは、同じ冬と思えない。
先に聞こえたのは人の声だった。女たちと子どもたちが並び、奥では大鍋の蓋が鳴る。扉の横には白い板札が立っていた。
『第一王子施療院 春設え』
『本日の配布 毛布四十 粥二百 施療箱補充六』
金庫の上段で見た青紐の束番号を、ミレイユが手元の控えから読み上げる。
「第三束、第五束、第八束。今朝、箱に付いていた番号です」
私は受付机の向こうに立つ若い書記へ査察受渡帳を見せた。
「青紐証文箱の転記先を見ます。春設え帳と、慰撫費口の仮渡し控えを出してください」
書記は返事より先に、廊下の奥を見た。薄灰の外套がすぐに現れる。アドリアンだった。
「殿下がほどなくお見えになります。施療院は今日、善意を届ける日です。帳面はあとで」
「善意の前に支払元です」
私は板札を指した。
「毛布四十と粥二百を出すなら、その銀がどこから来たか、先に机で合わせます」
アドリアンの笑みは薄いままだったが、目の奥で一度だけ止まった。今朝、未済支払留帳へ主計係の署名を入れたせいだ。ここで帳面を伏せれば、伏せたことごと残る。
通されたのは配布場の裏にある細長い部屋だった。窓辺に毛布が積まれ、羊毛と新しい染糸の匂いがした。机へ運ばれてきた帳面は二冊。春設え帳と、慰撫費口仮渡し控え。後者は薄いのに、綴じ糸だけ妙に太かった。
私は春設え帳を開く。
毛布四十枚。
粥麦二袋。
施療箱補充六。
鍋炭六籠。
数字自体は青い。だが、その右の「繰替元」欄だけが灰に濁っていた。
『第八束』
『第三束』
『第五束』
束番号しか書かれていない。寄進者名でも受取者名でもない。
「仮渡し控えを」
ミレイユが先に頁を押さえた。彼女の指先はもう震えていない。
「第三束、ありました」
私はその行を見た。
『第三束 銀貨四十 繰替元 傷兵扶持銀留』
次の頁。
『第五束 銀貨十八 繰替元 北門外厩舎冬藁代留』
さらに一枚。
『第八束 銀貨二十二 繰替元 南塔壁補修賃留』
数字が、今朝の未済支払留帳と同じ並びで机に戻ってきた。
傷兵扶持銀四十。
厩舎冬藁代十八。
南塔壁補修賃二十二。
払っていない金へ済印を押し、その空いたぶんで毛布と粥を配る。王都の黒字はそうやって温かい顔をしていた。
「旅費返戻は」
私が問うと、ミレイユがさらに奥の頁を開いた。
『第十束 銀貨十六 繰替元 ヴァルグレイ大公家立替返戻留』
小さく息が抜ける音がして、若い書記が視線を落とした。彼もこの数字を書いたのだろう。自分で書いた額が、いまどこへ積まれているか分かってしまった顔だった。
「一時的な繰替です」
アドリアンが柔らかな声で言う。
「献納証文が回収されれば、元の口へ戻ります。王都では珍しい運用ではありません」
「誰に断って借りたのですか」
私は仮渡し控えから目を上げた。
「傷兵へ払う銀を。凍える厩舎へ入る藁代を。補修が遅れれば風が抜ける塔壁の賃を。誰に断って、第一王子の善意へ並べ替えたのです」
アドリアンは答えず、代わりに春設え帳の戻入予定欄を指した。
「返る金です」
「返る前に、先に配っている」
私は窓辺の毛布を見る。灰色の厚布へ青い細紐が結ばれ、端には金糸で第一王子の紋が縫い留められていた。王都の女官が急いで飾ったのだろう。だが、重さは飾りより先に手へ伝わる。四十枚。銀貨二十二枚分の賃が、南塔の石工ではなくここへ積まれている重さだ。
ミレイユが仮渡し控えの綴じ際で手を止めた。
「これ、四年前の頁が混じっています」
彼女が開いた古い紙は、今朝のものより黄ばんでいた。だが書式は同じだ。
『北巡施療列 毛布六十 薬包三十』
『繰替元 北方冬季命綱費差戻 三十四』
その下へ細く補記がある。
『第三口へ割付』
喉の奥が乾いた。四年前、北の野戦所で足りなかった薬包三十。レオンハルトが待たされた冬。削られた担架番の名。あの不足と、いま窓辺へ積まれた毛布が、同じ綴じ糸の中へいた。
「やはり同じ帳面でしたね」
私が言うと、アドリアンの指が帳面の角でわずかに止まった。
「第一王子の慈善事業は、寄進が集まってから始まるのではありません。先に辺境の金と命綱を抜き、そのあとで青紐を結び、最後に殿下の善意として見せる」
「言い過ぎです」
「なら、四年前の冬季命綱費差戻がなぜ北巡施療列の頁に残っているのです」
返答より先に、表のざわめきが近づいた。扉の外で女官たちの裾が鳴り、扉が開く。
金髪が冬の日差しを拾った。柔らかな青の上衣、白い手袋、疲れを見せない笑み。彼は部屋のこちらではなく、まず配布場の列へ視線を向けた。
「待たせてしまったかな」
シリル・アルベイン第一王子は、そう言って子どもの前へ膝を折った。女官が毛布を渡す。彼は自分の手でその肩へ掛け、母親へ静かに何かを告げた。表の女たちが涙ぐみ、書記が板札の前で筆を速める。
優しい声だった。だからこそ、机の上の数字が冷える。
その毛布は、誰かの厚意でそこにあるのではない。傷兵扶持銀の留、藁代の留、壁補修賃の留、そして四年前に削られた冬季命綱費の続きで、そこにある。
「記録してください」
私は未済支払留帳を開いた。
「第一行、傷兵扶持銀。繰替先、第一王子施療院春設え第三束。第二行、北門外厩舎冬藁代。繰替先、春設え第五束。第三行、南塔壁補修賃。繰替先、施療院毛布寄進第八束。第四行、ヴァルグレイ大公家立替返戻。繰替先、施療院春設え第十束」
ミレイユが追記し、若い書記へ筆を差し出した。
「立会人、お願いします」
男は一度だけ配布場を見た。第一王子は今、次の老婆へ粥椀を渡している。歓声は小さい。だが、それがいちばん広がる。王都はこういう音を好む。
それでも男は筆を受け取り、自分の名を書いた。線の最後が少しだけ震えた。
「春設え帳にも補記を」
私は春設え帳の余白へ細い紙片を挟む。
『献納回収未了』
『慰撫費口仮渡しにつき、寄進実績計上保留』
アドリアンの声が低くなる。
「殿下のお顔を潰すおつもりですか」
「潰しているのは帳面の順番です」
私は紙片を押し込んだ。
「払うべき相手へ払わずに、先に感謝を受け取る。その順番で積んだ慈善は、実績ではありません」
扉の外で、シリルがこちらへ一度だけ視線を寄越した。遠目でも、目元までよく整っているのが分かる。けれど、その背後で板札を書き換えていた書記の筆が止まったのも見えた。いま入れた補記が、もう外まで届いたのだ。
私は仮渡し控えを閉じかけて、最後の頁端に細い参照先を見つけた。
『国用整理簿 第九十六頁』
今朝の未済支払も、四年前の冬季命綱費差戻も、同じ頁番号で束ねられている。
「ミレイユ、これを写して」
「はい。九十六頁」
私は扉の向こうで微笑む第一王子を見た。善人の顔はよく出来ていた。だから壊すなら、顔ではなく、その後ろで同じ頁を指している帳面からだ。
次に開くべき本の番号は、もう出ていた。




