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白紙婚の監査令嬢は、帳簿魔法で辺境を黒字にする  作者: 小竹X


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第四十二話 王宮の金庫は空っぽ

 王宮主計簿の今朝残高は、金貨三百四十七枚、銀貨九十二枚だった。けれど主計係が三つ目の鍵で金庫の抽斗を引いたとき、天鵞絨の底で鳴ったのは銀貨十二枚ぶんの軽い音しかなかった。


 王都へ着いた翌朝、私とミレイユは第一王子宮会計監督室の奥、主計机のさらに内側へ通されていた。部屋は火鉢が多すぎて、白尾下補給所より暖かいのに息が詰まる。磨かれた床、香の強い封蝋、青紐で束ねられた紙箱。雪道を八日かけて下ってきた革靴の泥だけが、ここでは別の土地のものみたいに見えた。


 私は机へ、道中の立替束を順に並べた。馬車輪の鉄輪替え一、宿代二夜増し、厩舎で裂けた腹帯の取替え、護衛の冬靴底革、夜明け前に買い足した松明油。いちばん上には、白尾を出る朝にレオンハルトが左手で無理に書いた立替証がある。


『ヴァルグレイ大公家立替』


 右へ少し流れた、荒い署名だった。


「まず、これを精算してください」


 私が言うと、向かいに立つアドリアン・セルヴァンは昨日と同じ丁寧な笑みを崩さなかった。


「ご到着早々、実務のお話とは。少しお休みになってからでも」


「王都は急ぎで私を呼びました」


 私は旅費支払札を立替証の横へ置いた。


「白尾下補給所では『到着後、第一王子宮慰撫費口より支払う』とありました。ですから到着翌朝、最初にこの机へ来ています」


 主計係の喉が鳴る。年のいった男で、袖口は整っているのに、親指の爪だけ薄く欠けていた。昨日のうちに誰かの帳面をめくり続けた指だ。


「慰撫費口からの支払いは、ただいま手続き中でして」


「手続き中なのに、主計簿では『済』になっています」


 私が開いたのは、さっき見せられた慰撫費口元帳だった。『ヴァルグレイ大公家立替返戻』の行へ青い済印が押され、その右に主計簿頁番号まで振ってある。けれど金庫の抽斗には銀貨十二枚。馬一頭の飼葉代にも届かない。


「済とは、何が済んだのです」


 主計係は帳面と金庫を見比べた。アドリアンが代わりに口を開く。


「王宮では、金は口ごとに動かします。慰撫費口へ移した時点で、こちらでは済です」


「ならば慰撫費口の金庫を見せてください」


 一拍、沈黙が落ちた。


 ミレイユが横で羽根筆を握り直す。彼女は王都へ入ってからずっと早口を抑えていたが、いまは逆に静かだった。緊張したときほど、字を崩さない。


 アドリアンは笑みを薄くした。


「監督室の金庫は、献納預りとまとめて管理しています」


「では、その『まとめて』を見ます」


 私が返すと、主計係の肩が落ちた。拒めば拒んだで、査察受渡帳へ書かれると分かっている顔だった。


 案内された金庫室は、石壁より先に紙の匂いがした。鉄扉の内側に棚が三列、下段に現銀抽斗、上段に札箱。普通なら逆だ。重いものが下、紙が上。けれどここは、紙のほうが場所を取っていた。


 主計係が下段三つを開ける。銀貨十二枚、銅貨が少し、封を切っていない小袋が二つ。主計簿にある金貨三百四十七枚はどこにもない。


「上を」


 私が言うと、男はためらった。アドリアンがわずかに顎を引く。


 青紐の箱が下ろされた。蓋を開けると、中にあったのは硬貨ではなく折り畳んだ証文だった。香を移した厚紙へ、同じ書式が並んでいる。


『北巡施療献納茶会 第三束』

『第一王子施療院毛布寄進 預り』

『春待ち施粥会 後納分』


 紙端には、以前リゼットが持ち込んだ招待札とよく似た青い撚り紐。あの茶席の匂いが、石の金庫の中へまで入っている。


 私は一枚を開いた。金額はきれいだ。寄進者名も、受取人名も、数字そのものは青く立っている。けれど帳簿魔法を通したとき、紙の奥が薄い灰に沈んだ。まだ入っていない金だ。約束の顔だけをして、硬貨の重さを持たない。


「これを現銀欄へ入れたのですか」


 主計係が小さく答える。


「預り証文は、回収見込みが立っております」


「見込みは金庫へ鳴りません」


 私は青紐の箱を閉じた。


「ここへあるのは銀ではなく、茶会の席で書かせた後払いの紙です」


 ミレイユが、隣の棚から細い束を取り上げた。今度は赤紐。支払札の控えだった。傷兵扶持銀、北門外厩舎冬藁代、南塔壁補修賃、女官冬布代。どれも受取人欄が空白のままなのに、右上に『移済』と押されている。


「受け取りの拇印、ありません」


 ミレイユの声は細いが、響きは硬かった。


「こっちは傷兵扶持銀四十。こっちは厩舎藁代十八。南塔壁補修賃二十二。全部、『移済』です」


 主計係が言い訳みたいに手を出す。


「慰撫費口でまとめて払う予定で」


「予定は受け取りではありません」


 私は赤紐束を金庫前の小卓へ広げた。紙端の擦れ具合で、何度も行き来して戻ってきた札だと分かる。払われていない。けれど主計簿の本帳では、もう終わった顔をしている。


「王宮主計簿」


 私が呼ぶと、主計係は震える手で本帳を差し出した。


 前頁の期末残高、当日入金、当日支出。青い数字だけ見れば黒字だ。けれど内訳へ降りると、支出側で消えたはずの額が『慰撫費口へ移済』として抜け、入金側にはまだ回収していない青紐証文が『現銀相当預り』として立っている。未払いの札と未入金の証文で、底だけを帳尻合わせした形だった。


「黒字ではありません」


 私は頁の端を押さえた。


「払っていない金へ済印を押し、まだ入っていない紙を現銀の欄へ立てています。だから主計簿だけ黒くて、金庫は空です」


 アドリアンの声が一段低くなる。


「言葉が強すぎます。王都の資金は広く回っているのです」


「回っているなら、私の立替を今ここで払えます」


 私は銀貨十二枚しかない抽斗を示した。


「白尾下補給所から呼びつけた相手の足代すら出せないのに、どこが回っていますか」


 石壁の内側で、誰もすぐには答えなかった。


 暖かい部屋なのに、主計係の耳だけ赤くなっていく。ミレイユは青紐箱の束番号を順に控えていた。第三束、第五束、第八束。途中から『北巡施療』と『施療院毛布』と『春待ち施粥会』が交互に並ぶ。慈善の名前ばかりが、金庫の上段を埋めていた。


 私は金庫脇の空き机へ一冊の薄帳を引き寄せた。本来は封蝋番号控えに使うらしい、まだ白い帳面だ。


「新しい帳面を立てます」


 羽根筆を取り、見出しを書く。


『未済支払留帳』


 ミレイユがすぐに罫線を引いた。


『名目』『帳簿上の済印』『実際の現銀有無』『受取署名有無』『転記先』『立会人』


「何をなさるおつもりです」


 アドリアンの問いへ、私は顔を上げなかった。


「王宮側が済だと言い張る未払いを、未払いのまま残します」


 最初の行へ、自分の旅費を書き入れる。


『ヴァルグレイ大公家立替返戻』

『済』

『無』

『無』

『第一王子宮慰撫費口』

『セレナ・フォルティス / ミレイユ・ノッテ』


 二行目に傷兵扶持銀。三行目に厩舎冬藁代。四行目に南塔壁補修賃。主計係の指先がぴくりと動くたび、私はその札を次の行へ置いた。


「これは王宮の内部帳簿です」


「ええ。ですから、あなたの名で閉じてはいけません」


 私は筆を置いた。


「本日から、受取署名のない『済』は、この留帳へ移してください。青紐証文も同じです。現銀が入るまで、現銀欄へは立てない」


「そんなことをすれば、施療献納の予定が」


 主計係が口を滑らせ、慌てて黙った。


 私は青紐箱へ目をやる。


「やはり、そちらですか」


 アドリアンの笑みが、そこで初めて完全に消えた。


「第一王子殿下の慈善事業へ疑いを向けるおつもりですか」


「疑いではありません。金庫の棚位置です」


 私は箱のラベルを指でなぞった。


「王都の傷兵扶持銀より先に、青紐の献納証文が石壁の内側へ入っている。南塔の壁補修賃より先に、施療院毛布寄進の紙が現銀扱いになっている。順番が逆です」


 金庫室の戸口で控えていた若い書記が、思わず視線を伏せた。彼も未払いの札を何度も運んだのだろう。石壁の外で、遠くに鐘の音が鳴る。昼前の合図だった。


「署名を」


 私は未済支払留帳を主計係へ差し出した。


「あなたがこの金庫番なら、現銀不在の最初の立会人です」


 男はアドリアンを見た。助けを求めるみたいに。けれどアドリアンは止めなかった。ここで拒めば、拒否そのものが私の査察受渡帳へ移る。金庫を見せた以上、空だったことまで消せない。


 主計係は、震える筆で自分の名を書いた。


 続けてミレイユが、青紐箱の束番号を余白へ小さく並べた。第三束、第五束、第八束。緊張するときほど、彼女は数字を読み直す。書き損じは線一本で消せても、読み違いは消えないと知っているからだ。


 私は最後に、王宮主計簿の期末残高欄へ細い紙片を挟んだ。


『現銀照合未了』


 これで少なくとも、次に帳面を開いた人間は、青い残高だけでは頁を閉じられない。


 金庫室を出る直前、廊下の先を青紐の箱が二つ運ばれていくのが見えた。香を吸った紙箱の腹へ、黒字みたいに整った文字で札が貼られている。


『第一王子施療院 春設え分』


 ミレイユが小さく呟いた。


「金庫より、あっちの箱のほうが重そうです」


「ええ」


 私は未済支払留帳を閉じ、青紐の行き先を目で追った。


「次は、あれを開きます」


 王宮の金庫は空だった。銀貨の代わりに積まれていた青紐の証文が、次の帳面だった。

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