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白紙婚の監査令嬢は、帳簿魔法で辺境を黒字にする  作者: 小竹X


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第四十一話 呼び戻された花嫁

 王都から届いた召還状には、私の机の名ではなく『大公妃セレナ・フォルティス』とだけあり、白尾と東谷をつないだ帳場の手がまるごと欠けていた。


 昼前の白尾下補給所は、勝勢内訳の写しを読みに来る兵と帳場補助で、朝より静かに騒がしかった。外板へ貼った『白尾・東谷勝勢内訳』の前で、老兵が縄数の行を指で追い、未亡人が自分の延刻欄をもう一度読み返している。その背後へ、黒漆の細箱を抱えた王都の使者が三人、雪を踏んで入ってきた。


 先頭にいたのは、薄灰色の外套を少しも乱していないアドリアン・セルヴァンだった。


「お加減を伺いに参りました」


 穏やかな声が、火の弱い帳場奥へ流れ込む。寝台ではレオンハルトが半身を起こしたまま、包帯の下へ手を当てていた。顔色はまだ悪いが、視線はすぐにアドリアンではなく、使者の箱へ向いた。


「それは見舞いですか」


 私が問うと、アドリアンは柔らかく首を振った。


「正式なご命令です。戦後整理とご夫君のご負傷を受け、王都が奥方をお呼び戻しになります」


 お呼び戻し。


 その言い方だけで、紙を開く前から指先が冷えた。花嫁が一時的に里へ返されるみたいな語尾だった。帳場机へ箱を置かせ、私は封蝋の数を見た。王家会計局の印が一、第一王子宮の慰撫印が一。軍務局の封はない。


「開封してよろしいですか」


「もちろん」


 封を切る。中から出たのは二枚。召還状と、薄い旅費支払札だった。


 先に召還状へ目を通す。


『白尾下補給所滞在中の大公妃セレナ・フォルティスは、戦後慰撫および国庫照会のため、速やかに王都へ帰還し、第一王子宮会計監督室へ出頭すべし。なお前線帳面その他の原本は軍務混乱回避のため当地保全とし、必要分のみ後送を許す』


 戦後慰撫。国庫照会。大公妃。後送。


 紙へ帳簿魔法を通す。宛名と命令部分は青い。けれど『当地保全』と『必要分のみ後送』の二句だけが、青の上へ薄い灰をかぶせていた。保全する気の色ではない。ここで原本を切り離したい人間の筆圧だ。


 私は二枚目の札を開いた。


『王都帰還旅費支払札

 白尾下補給所より王都まで六日

 馬車一、護衛四、厩銭・宿代込み

 到着後、第一王子宮慰撫費口より支払う』


 金額欄に置いた指が止まる。


 銀貨換算で、八日分の半分しかない。雪道の馬替えも、夜営の火代も、護衛の冬靴修繕も抜けている。夏の街道ですら足りない額だった。


「ずいぶん軽い旅ですね」


 私が言うと、使者の一人が気まずそうに喉を鳴らした。アドリアンだけが表情を崩さない。


「戦後のご不便をおかけしないよう、王都で手厚くお迎えします」


「白尾下補給所から王都まで、冬道六日では着きません。今朝ここへ湯桶を上げた浅橇の革紐代にも届かない額です」


 旅費札を机へ置く。ミレイユがすぐ横から覗き込み、小さく息を呑んだ。


「慰撫費口、ですか」


「ええ」


 第一王子の善意看板にぶら下がった旅費だ。軍務でも王家会計局本体でもない。


 アドリアンはようやく、勝勢内訳の貼り紙へ一度だけ目をやった。


「戦場近くに奥方を置き続けるのは、外聞がよくありません。殿下もご負傷です。どうか王都の配慮を」


「その配慮で、私は何の名義で出頭するのですか」


「大公妃として」


「臨時財務監査権保持者ではなく」


「今回は戦後慰撫ですから」


 私は召還状を裏返した。裏面は空白。添付目録なし。帯同原本欄なし。受渡刻限なし。


「査察受渡帳を」


 ミレイユがすぐに箱から帳面を出した。王都査察のときから持ち歩いている革綴じだ。白尾下補給所まで来てからも、勝勢内訳と見舞受渡札のあいだに挟んでおいた。


「ここへ書いてください」


 私は新しい頁を開いた。


『受取者名』『出頭名義』『帯同原本』『前払旅費現銀有無』『後送要求の根拠』


 炭筆で欄を足すたび、アドリアンの睫毛がわずかに動く。ミレイユは何も言わず、定規もなしに罫線を延ばした。


「これは召還であって、査察では」


「王家会計局査察課の封が押されています」


 私は紙を持ち上げた。


「しかも『国庫照会』とある。帳面を伴わない照会なら、ただの呼び戻しです。帳面を伴うなら、受け渡しの記録が要ります」


 使者三人のうち、年嵩の男が視線を落とした。旅費札の金額欄から、私の炭筆へ。自分でもこの命令の軽さに気づいている顔だった。


「さらに」


 私は机脇の革袋から、婚姻届送達控えの写しを出した。


 礼拝堂から回収したあの控えは、今も紙端の綴じ穴が一つ欠けている。けれど肝心の三行は、誰にも削れない。


『持参金勘定を軍務から分けること』

『別居希望を妨げないこと』

『冬明けの離縁申し出を妨げないこと』


「登録された婚姻条項には、夫の負傷時に妻を王都へ差し出す義務はありません」


 アドリアンの笑みが、そこで初めて薄くなった。


「そのような強い言葉は使っておりません」


「では、なぜ大公妃の名だけなのです。なぜ臨時財務監査権も、勝勢内訳の作成者名も、帯同原本の目録もないのです」


 帳場の外で、人の気配が止まった。貼り紙を読んでいた兵たちが、戸口の向こうで靴底の雪を鳴らさなくなっている。


 私は旅費支払札を受渡帳の横へ並べた。


「そして前払旅費現銀なし。王都が私だけを急ぎで呼ぶ命令なのに、足代は到着後精算、しかも慰撫費口。王家会計局は、自分で出した召還の足もとを現銀で持てないのですか」


 年嵩の使者がとうとう口を開いた。


「現銀は、王都でまとめて……」


「この雪道を、紙だけ持って下れと?」


 私が言うと、男は黙った。


 レオンハルトが寝台から立ち上がったのは、その直後だった。毛布が肩から落ち、白布の巻かれた脇がのぞく。ガレスが反射で一歩寄ったが、彼は手で止める。


「戻れ」


 短い声だったが、誰に向けたものかははっきりしていた。花嫁へ向けた里帰りの言い方を、ここで切る声だった。


 アドリアンはなお穏やかさを装った。


「殿下。奥方の安全を」


「安全なら、原本と切り離すな」


 レオンハルトは机へ近づき、私の受渡帳の空欄を見下ろした。


「行くかは、お前が決めろ」


 その一言で、胸の奥に溜まっていた冷えが少しだけ形を変えた。


 行くな、ではなかった。


 行け、でもない。


 白紙婚の初夜から、この人は大事なところで私を役割に閉じ込めない。だから今も、負傷を口実に私を置いて守ろうとはしなかった。


 私は炭筆を持ち直した。


「出頭は受けます」


 ミレイユが顔を上げる。アドリアンの目が細くなる。ガレスだけが何も言わず、戸口の外を塞いだ。


「ただし、大公妃としてではありません」


 受渡帳の『出頭名義』欄へ書く。


『ヴァルグレイ大公家臨時財務監査権保持者』


「帯同原本は、白尾・東谷勝勢内訳原本、見舞名偽装細紙、査察受渡帳、婚姻届送達控え写し、必要分の冬季命綱費束。後送ではなく私が持ちます。立会人はミレイユ・ノッテ」


「それは認められません」


 アドリアンの返答は速かった。初めて丁寧さより先に言葉が出る。


「前線帳面は当地保全と」


「ならば前払旅費現銀をここへ置いてください」


 私は旅費札の金額欄を爪で軽く叩いた。


「馬車一、護衛四、厩銭宿代込み。この額で冬道を六日。王都は本気でそう計算していますか。それとも、計算したうえで払えないのですか」


 雪明かりが、旅費札の薄い紙を透かした。紙質は悪くない。けれど裏の透き筋が粗い。急ぎで綴った札だ。王都の金庫前でゆっくり書かれた支払札ではない。


 帳簿魔法を薄く通す。金額欄は青い。だが支払口の『第一王子宮慰撫費口』だけ、乾いた灰をかぶっていた。あるはずの現銀に触れず、名目だけで走る札の色だ。


 空だ。


 少なくとも、この口には、私を急ぎで運ぶ銀が入っていない。


 私は受渡帳の余白へ補記した。


『前払旅費現銀なしにつき、当地出立は大公家立替。王都到着後、立替根拠として王宮主計簿と慰撫費口元帳の照合を求む』


 アドリアンの目元がわずかに強張る。


「主計簿、ですか」


「国庫照会のために呼ばれるのでしょう。ならば、こちらも照会します」


 ミレイユが、そこで初めて小さく笑うみたいに息を吐いた。怖いときほど細くなる声で、しかし読み上げははっきりしていた。


「受取者名、アドリアン・セルヴァン。前払旅費現銀、有無欄は『無』でよろしいですか」


 使者たちの沈黙が、答えだった。


 私は最後に、召還状の余白へ返書を短く書いた。


『受命。ただし花嫁としての呼戻しは受けず。監査権保持者として原本帯同のうえ出頭する』


 その下へ、自分の名を入れる。


 セレナ・フォルティス。


 花嫁でも夫人でもなく、今この机で紙を受ける名前だった。


 アドリアンは返書つきの召還状を受け取らず、受渡帳だけを見ていた。受け取れば、この条件ごと王都へ持ち帰ることになる。拒めば、拒否の記録が残る。


「明朝には出立準備を」


「今夜じゅうに原本目録を作ります」


 私は答えた。


「白尾へ上がる次便の邪魔はさせません。見舞受渡札も続けます。あなたの命令で帳場の火を弱めるつもりはありません」


 外では、次の背負い手たちが縄束を肩へ掛け直していた。勝った朝のあとでも、紙は減らず、湯気も減らない。


 アドリアンたちが去ると、補給所の空気が少しだけ動いた。戸口の向こうで止まっていた兵たちが、ようやく息をつく音がする。


 私は旅費札をもう一度開いた。白尾から王都まで六日。慰撫費口より支払う。薄い紙に書かれた数字は、雪道も馬の腹も知らない顔をしている。


 けれど足りない額は、よく分かる。


 王都は、私を呼び戻す命令の足代すら、もう紙でしか払えなかった。

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