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白紙婚の監査令嬢は、帳簿魔法で辺境を黒字にする  作者: 小竹X


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第四十八話 最初の黒字予算

 北方新年度本予算の黒字欄だけが、受取署名のないまま先に青く立っていた。


 王宮西棟の南窓から入る朝の光は、礼拝堂より乾いていた。仮卓に並んだ帳面は五冊。王宮主計簿、未済支払留帳、送達先受渡帳、北方新年度仮配表、そして今朝、東庭整理机から差し押さえ移送された封箱目録。


 私はいちばん上の目録を開いた。


「第三口の小箱だけ、箱数が合いません」


 老書記が眉を上げる。向かいにはレオンハルト、横にはミレイユ。少し離れて、王宮主計係、礼拝堂の老司記、傷兵扶持銀の受取人、北門外厩舎の番頭、南塔壁補修の石工頭が席につき、戸口にはアドリアンと第一王子シリルが立っていた。


 目録の末尾には、東庭整理机から出た封箱の内訳がある。


『第一口 寄付口 五箱』

『第二口 軍需口 四箱』

『第三口 口銭 四箱』


 けれど、実際に仮卓へ届いている第三口は五箱だった。最後の一箱だけ、目録の追記欄に薄く足されている。


『第二十八号連動 移し替え未了』


 私はその行へ指を置いた。


「婚儀前預り第二十八号です」


 アドリアンがすぐに口を開く。


「それは礼法側の確認物です。決算照合へ混ぜるのは」


「混ぜません」


 私は送達先受渡帳を引き寄せた。


「だから、今朝まで別便で封じていたのでしょう。でも、封箱番号が第九十六頁の第三口と一致している以上、ここへある銀は礼法の飾りではなく、未済返還に沈められていた現物です」


 シリルは昨日までの柔らかな顔のまま、けれど目だけを細くした。


「現物があったとしても、王都には春度の体面がある。いま開けば、施療院も献納も」


「体面の前に受取署名です」


 私は未済支払留帳を開いた。


「傷兵扶持銀四十。北門外厩舎冬藁代。南塔壁補修賃。大公家立替旅費返戻。持参金返還請求第二十八号連動。どれも、払った顔だけ先にして、受け取った人間が一人もいません」


 王宮主計係の指先が、膝の上で小さく止まった。


「黒字欄を消してください。開封前に青くする行ではありません」


 老書記はためらわず、北方新年度仮配表の見込欄へ赤い斜線を引いた。青い数字が一度、紙の上から外れる。


 それを見てから、私は封箱目録の一行目に署名した。


『西棟仮卓開封 立会 セレナ・フォルティス』


 ミレイユが横へ欄を足す。


『開封刻限』

『受取行』

『現物確認』


「箱を」


 レオンハルトが短く言うと、王宮側の兵が一歩迷い、老書記の頷きでようやく最初の封を切った。


 乾いた封蝋が落ちる。箱の中には銀束が二列、布紐ごと残っている。寄付口や軍需口の飾り札ではない。細い紙片に、古い行番号がそのまま差してあった。


『第三束』

『第五束』

『第八束』

『第十束』


 そして最後の小箱の底に、見慣れた数字が一つだけ伏せられていた。


『第二十八号』


 私は息を吐かなかった。吐く前に、帳簿魔法の黒が薄くほどけたからだ。


 ここにあるのは奇跡ではない。誰かの未払いを暗い抽斗へ押し込み、歓声に使うまで留めていた現銀だった。


「第三束を」


 傷兵扶持銀の受取人として呼ばれた片脚の元兵が、杖を鳴らして前へ出る。老書記が数え、王宮主計係が額面を読み上げ、私は未済支払留帳の行を指した。


「受取署名をお願いします」


 男は震える指で自分の名を書いた。最後の跳ねだけ強い。紙の上で、ずっと灰だった行がそこで初めて青へ変わる。


 次に、北門外厩舎の番頭が冬藁代の受取印を押した。南塔壁補修の石工頭は、石粉の残る親指で拇印を置く。大公家立替旅費返戻の行では、レオンハルトが手袋を外し、まだ動きの鈍い左手を机へ添えたまま、右手で自分の名を書いた。


 その荒い線を見て、私は持参金返還請求の別紙を引き寄せる。


「最後に第二十八号」


 礼拝堂の老司記と老書記が同時に立ち会い欄へ署名した。婚姻解消と切り分けた紙のまま、いまは返還請求の行としてここへ置かれている。


 小箱の底には、婚儀用の飾り紐ではなく、東庭整理机の封紙と第三口の古い番号札が一緒に残っていた。婚儀のために使われた金ではない。王宮の机で、別名義へ回される順番を待っていただけの銀だ。


「受け取ります」


 私はそう言って、別紙の受取欄へ署名した。


 セレナ・フォルティス。


 婚姻解消届と同じ名なのに、今度は終わりではなく返還の受取として紙に残る。老司記が箱の底札まで受取欄へ綴じ、ミレイユが送達先受渡帳に急使札番号を打った。


 シリルがそこで初めて、机へ一歩詰めた。


「それで王都の台所が軽くなると思うか」


「軽くはなりません」


 私は北方新年度仮配表を彼へ向けず、自分の前で開いた。


「ただ、誰かを沈めたまま黒字の顔をさせないだけです」


 返還受取後計上。筆算工房写し賃常置。冬季命綱費。白尾下補給所帳場補助。共同竈前春度炭代。北門予備補修。


 昨日まで仮配表だった行へ、私は受取済みの印を一つずつ移した。老書記が王宮主計簿の北方勘定頁を開き、王宮主計係が計上額を読み上げる。見込ではなく、受取印と現銀数を見てから青く立てる。


 ミレイユが清書頁の欄外へ、小さな補記を書いた。


『受取署名先行』

『後付札先計上なし』


 私は最後の合計欄を見た。


 大きくはない。銀貨十二枚と銅貨四十三枚。王都の宴一晩で消える程度の余りだ。


 けれど、その黒字の下には、もう誰の未払いも沈んでいなかった。


「これを本予算にします」


 老書記が静かに言う。


「王宮主計簿春度初頁、北方勘定。本日付、照合済み」


 王宮主計係は一瞬だけシリルを見たが、もう紙の順番が変わっている。彼は主計簿へ王宮印を置いた。青い残高ではなく、受取署名に裏打ちされた最初の黒字へ。


 そこで老書記は、北方勘定の下に挟んでいた王宮春度費の見積頁も開いた。


『東庭献納飾幕代』

『施療院歓待卓増設』

『春待ち施粥会先行見込』


 どれも、まだ集まっていない歓声を先に黒く見せるための行だ。


「こちらは」


 王宮主計係が言いかける。


「未回収は未回収です」


 私は答えた。


「寄進が集まったあとで払うなら、寄進帳と受取印が揃ってから立ててください。北方の未払いを戻したあとで残る額と、王都が本当に持っている額を混ぜないで」


 老書記は頷き、三行すべてを灰札欄へ移した。春度費の黒字幅はさらに痩せる。けれど今度は、誰の不足を踏んでもいない。


 シリルが低く言った。


「民は数字より、差し出された毛布を覚える」


「ええ」


 私は春度費頁と北方勘定頁を重ねた。


「だからこそ、その毛布の下に誰の未払いが敷かれていたかまで残します。受け取った人間の署名がある毛布なら、もう誰も奪えません」


 シリルは笑わなかった。


 窓の外では、春の鐘が鳴っている。けれどこの部屋で鳴ったのは、拍手でも歓声でもなく、受取印の木柄が机へ当たる乾いた音だけだった。


 私は送達先受渡帳の次頁を開いた。


『婚姻解消受理控え 送達先』


 昨日まで空欄だった行へ、ようやく筆を置く。


『ヴァルグレイ大公領執務室』


 礼拝堂保管の控えを、王都の礼法机でも伯爵家の応接間でもなく、あの執務室へ送る。愛のない結婚が終わった証明は、愛のないまま始まった場所ではなく、私が自分で働く席を取った場所へ戻すべきだった。


 その下に、私はもう一行足した。


『本人受取』


 老司記が小さく息を吐き、受渡帳へ控え番号を書き入れる。これで、婚姻の終わりの紙も、誰かの都合ではなく私の机へ届く。


 レオンハルトは何も急かさなかった。ただ、本予算の決裁欄をこちらへ向ける。


『執行』

『照合』


 昨日、仮置とだけ書かれていた欄だ。


「求婚の返事ですが」


 私が言うと、彼の視線だけがまっすぐ上がった。


「受けます」


 それだけで十分だったのに、私はもう一度、紙を見た。


「ただし次の婚姻は、王都や領の都合で急いで綴じません。条項も送達先も、私たちで引きます」


「ああ」


 レオンハルトの返事は短い。


「一行ずつ、お前と決める」


 私は本予算の『照合』欄へ署名した。セレナ・フォルティス。続いて彼が『執行』欄へ名を入れる。並んだ二つの署名は夫婦欄ではない。けれど、どちらかの下にもう一方が従う並びでもなかった。


 老書記がその下へ、必要以上に大きくない字で補記する。


『共同決裁』


 ミレイユが、こらえきれない顔で口元を押さえた。王宮主計係はさすがに何も言わない。けれど、筆先を置く位置だけは迷わなかった。


 老司記が婚姻解消受理控えを薄い革挟みへ戻し、送達先受渡帳の同じ番号札を結ぶ。決算の本予算は青い紐、婚姻解消受理控えは白い紐、持参金返還請求は灰の紐。別々の色で、同じ行き先へ向かう。


「急使へは別鞄で渡します」


 ミレイユがもういつもの声へ戻って言う。


「でも、受取欄は同じ机でいいんですよね」


「ええ」


 私は頷いた。


「そこは、私の机ですから」


 その答えを聞いてから、レオンハルトはようやく肩の力を抜いた。大きな動きではない。ただ、長く握っていた手袋を机へ置き、空いた右手で本予算の端を揃える。白尾下補給所の仮受帳を閉じた夜と同じ、紙を先にまっすぐにする手つきだった。


「帰ったら」


 彼は帳面を見たまま言う。


「執務室の右棚を空け直す。婚姻の紙と決算の紙で段を分ける」


「その前に、送達先受渡帳の見本を増やします」


 私が返すと、ミレイユがすぐ横で「三通で足りますか」と口を挟み、老書記は「王宮保管ぶんも要るでしょう」と当然のように続けた。


 そのやり取りに、もう誰も異を唱えない。


 王都の最初の正しい黒字は、薄かった。


 それでも、その頁はもう歓声のためにめくられない。傷兵扶持銀を受け取った男の署名、藁代を受けた番頭の拇印、石工頭の石粉まじりの親指、返戻を受けた旅費行、返還された第二十八号。全部が下の行に残っている。


 私は帳面を閉じ、窓際の光へ少しだけ目を細めた。


 次に書く婚姻の文は、まだ白紙でいい。


 そのかわり、私たちが先に閉じた最初の頁は、もう誰にも書き換えさせない。

 ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


 セレナが白紙婚の花嫁ではなく監査人として席を取り、最後にレオンハルトと

「共同決裁」へ辿り着くまでを書き切れたのは、追いかけてくださった皆さまのおかげです。


 数字と契約で居場所を奪われた人たちへ、数字と契約で居場所を返していく物語として、

 少しでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。本当にありがとうございました。

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