第三十九話 大公の帰る場所
白尾下補給所仮受帳の返納刻欄は埋まったのに、白布六反の横には『半反裁断 止血用』と書き足す必要があった。
五更前、戸板が二度、短く叩かれた。
私は机の脇から立ち上がるより先に、ミレイユへ炭筆を渡した。外の雪を踏む足音は重い。引きずる音が一つ混じる。扉が開くと、冷えた闇と一緒に、革の濡れた匂いと血の鉄臭さが入り込んだ。
先に見えたのは、返り木札を束ねた麻紐だった。次に、白布を胸の下で強く巻かれたレオンハルトの外套。左脇が黒く濡れ、凍りきれない血が裾へ筋を引いている。
「木札から」
自分の声が、思ったより低かった。
ガレスがすぐに麻紐束を机へ置いた。指の節の皮が裂け、雪と血で赤黒い。だが返り木札は濡れていても枚数ごとに分けられていた。
「氷原回り、白布六、鉄鉤十二。継橇場の朝番用、灯り油革袋四、乾燥肉二箱、背負縄六。木札は全部ある」
「ミレイユ」
「はい。氷原回り、返り木札六。継橇場朝番、木札四」
私は仮受帳の開いた行へ指を置いた。昨夜、自分で立てた『未返納 返納紙のみ先行』の横だ。帳簿魔法を薄く流す。返り木札は青い。机へ置かれた荷も青い。今度は灰の膜がかかっていない。
「鉄鉤」
若い兵が籠を差し出した。鉤は十二本。三本は刃先が欠け、一番長い一本にはまだ青黒い氷が噛んでいる。
「白布」
ミレイユが数え、途中で息を止めた。
「五反と、半反です」
半反は畳まれていなかった。血止めに切られた端が荒く、外套の下からのぞく包帯と織りが同じだった。
「殿下の脇を巻くのに切った」
ガレスが短く言った。
「氷棚の下手で一人、鉤を投げた。継橇場の灯り壺へ掛けるつもりだったが、殿下が先に木枠ごと倒した」
私は白布の行へ書き足した。
『半反裁断 止血用』
血を吸った文字まで青かった。足りない分を隠した字ではなく、使った先まで残す字の色だった。
「十二人でしたか」
ガレスがうなずく。
「氷棚上から四、下手から八。半枠に切らせた木枠と、昨夜おまえが上で詰めろと言った革袋が利いた。連中は荷切り場の真ん中へ飛び込めず、上と下で足を止めた。六人生け捕り、二人は氷棚から落ち、四人は東尾根へ散った」
「継橇場は」
「朝番の切り分けは動かせる。灯り油も乾燥肉も浅橇へ分けた」
それを聞いてから、やっと私はレオンハルトのほうを見た。彼は机に手をついたまま立っている。顔色は紙みたいに白いのに、視線だけは仮受帳の行から外れていなかった。
「座ってください」
「先に返納刻だ」
「ええ。ですから座ってください」
机の前の丸太椅子を足で引く。レオンハルトは一瞬だけ私を見て、それから何も言わず腰を落とした。外套の脇が開き、白布の下から新しい赤がにじむ。喉の奥がきつく縮んだが、私は炭筆を置かなかった。
「返納刻」
「五更一刻」
ガレスが答える。私は時刻を書き、立会欄へ補給所番エルマ、ガレス・ロウェル、レオンハルト・ヴァルグレイ、自分の名を並べた。
レオンハルトが筆を取る。指先に力が入りきらず、最初の払いがわずかに震えた。私は紙の端を押さえた。彼の名が最後まで切れずに入る。
払いの終わりで、白布の端から血が一滴だけ落ちた。立会欄の外、余白のぎりぎりで止まる。私は砂をひとつまみ落とし、その上へ空いた指先を押しつけた。署名欄へ赤を入れずに済んだことに、妙に息が戻った。
そのとき、ガレスが血のついた革袋を机へ置いた。
「もう一つある」
中から出たのは、白砂を噛んだ細紙だった。折り目が浅く、王都の机で急いで畳んだ紙だ。開くと、短い三行だけが残っている。
『継橇場押え後
白尾戻り二荷 見舞名で下げる
札は南へ着いてから結べ』
見舞い。
河岸の施船寄進札と同じ手口だ。荷を先に動かし、善意の名はあとで結ぶ。今度は負傷兵への見舞いを隠れ蓑に、白尾戻りの荷ごと南へ抜くつもりだった。
「この紙は捕縛者の懐から?」
「綱頭を取っていたやつだ」
私は細紙を仮受帳の余白へ重ねた。帳簿魔法を通すと、『見舞名』の二字だけがぬめるように黒い。善意の顔をした偽装は、だいたいそこだけ筆が丁寧だ。
「ミレイユ、見舞受渡札を持ってきて」
彼女は目を上げた。
「ここで、ですか」
「ここでです。もう広まります。大公が傷を負ったと知れば、湯も薬も、いらない見舞いの口実も一度に来る」
ミレイユはすぐに帳場箱から札束を出した。監査室で使っていた札だ。私は一枚を取り、見出しの下へ新しく書き足す。
『白尾下補給所帳場奥受け』
「見舞いは全部この札を通してください。持込人、立会人、現物、刻限。人は入れず、品だけ外棚で受ける。治療、報告、警護以外は帳場奥へ通しません」
補給所番エルマの背が、そこで初めてしゃんと伸びた。
「はい。鍋湯も薬布も、札なしでは奥へ入れません」
「薬師だけ通す」
ガレスが戸口へ向き直る。
「それと捕縛者の口を割らせる場は別にする。ここへ喚く声を近づけん」
私はうなずき、もう一枚札を切った。湯一桶、薬布二巻、焼き石三、立会ミレイユ。次に、温麺壺一、外棚止め。書いているあいだにも外で足音が増えていく。見舞いの名は、静かな部屋をすぐ人のものに変える。だから先に札を立てる。
「セレナ」
名を呼ばれて顔を上げる。
レオンハルトが、椅子へ座ったままこちらを見ていた。いつもの短い声なのに、今は息が少し混じる。
「継橇場の朝番は動いた。白尾戻りも止まっていない」
「聞いています」
「なら」
彼はそれ以上を言わず、机の上の仮受帳へ視線を落とした。私はその意味を取り違えなかった。荷が戻ったことも、切り分け場が守れたことも、この行が閉じなければ誰かに書き替えられる。
私は返納欄の下へ、もう一行足した。
『敵使用後返納 鉄鉤十二本 うち刃欠け三
白布五反半返納 半反裁断止血用
証紙 見舞名偽装細紙一』
青が行の端まで通る。欠けた鉤も、血を吸った布も、嘘で磨いた数字よりよほどきれいに揃って見えた。
薬師が来るまでのあいだ、私は帳場奥の寝台へ毛布を二枚重ねさせた。火鉢を一つ寄せ、机を半尺だけ奥へ引く。仮受帳から寝台まで三歩。炭筆と包帯のどちらにも手が届く距離だった。
運び手がレオンハルトを支えようとしたとき、彼は立ち上がりかけて顔をしかめた。私は反射でその袖をつかんでいた。厚い外套の下でも、腕は驚くほど冷えている。
「奥へ」
自分で言ってから、ようやく手を離した。
「帳場の奥です。見舞受渡札は外棚で止めます。ここなら返納木札も、朝番の追記も、そのまま見られる」
レオンハルトは一拍だけ黙り、私の後ろの寝台と机を見た。
「……そうか」
それだけだった。だが彼は、屋敷へ戻せとも、評議を先に開けとも言わなかった。
寝台へ横になると、外套の下からまた赤がにじんだ。私は薬師へ傷の位置を告げ、ミレイユへ次の札を渡した。白尾戻り一便、灯り油革袋受け、木札照合済み。帳場の外では、見舞受渡札へ湯桶と薬布と黍粥の名が増えていく。札のない声は戸口で止まり、帳場の奥までは届かない。
薬師は包帯をほどき、裂け目を見て眉をしかめた。
「深くはありません。けれど冷えが早い。今ここで火を切らせれば、明日の指示が飛びます」
「切らせません」
答えたのが自分だと、一拍遅れて気づいた。
仮受帳の新しい青は、まだ乾ききっていなかった。
私は机へ戻り、寝台のほうを見ずに次の行を開いた。継橇場朝番、浅橇二、切り分け開始刻。けれど耳はずっと、奥で包帯が巻き直される布の擦れる音を拾っていた。
帳場机と寝台のあいだは三歩しかない。
今夜は、その三歩の内側から何も出さないほうがいいと思った。




