表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白紙婚の監査令嬢は、帳簿魔法で辺境を黒字にする  作者: 小竹X


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

39/48

第三十九話 大公の帰る場所

 白尾下補給所仮受帳の返納刻欄は埋まったのに、白布六反の横には『半反裁断 止血用』と書き足す必要があった。


 五更前、戸板が二度、短く叩かれた。


 私は机の脇から立ち上がるより先に、ミレイユへ炭筆を渡した。外の雪を踏む足音は重い。引きずる音が一つ混じる。扉が開くと、冷えた闇と一緒に、革の濡れた匂いと血の鉄臭さが入り込んだ。


 先に見えたのは、返り木札を束ねた麻紐だった。次に、白布を胸の下で強く巻かれたレオンハルトの外套。左脇が黒く濡れ、凍りきれない血が裾へ筋を引いている。


「木札から」


 自分の声が、思ったより低かった。


 ガレスがすぐに麻紐束を机へ置いた。指の節の皮が裂け、雪と血で赤黒い。だが返り木札は濡れていても枚数ごとに分けられていた。


「氷原回り、白布六、鉄鉤十二。継橇場の朝番用、灯り油革袋四、乾燥肉二箱、背負縄六。木札は全部ある」


「ミレイユ」


「はい。氷原回り、返り木札六。継橇場朝番、木札四」


 私は仮受帳の開いた行へ指を置いた。昨夜、自分で立てた『未返納 返納紙のみ先行』の横だ。帳簿魔法を薄く流す。返り木札は青い。机へ置かれた荷も青い。今度は灰の膜がかかっていない。


「鉄鉤」


 若い兵が籠を差し出した。鉤は十二本。三本は刃先が欠け、一番長い一本にはまだ青黒い氷が噛んでいる。


「白布」


 ミレイユが数え、途中で息を止めた。


「五反と、半反です」


 半反は畳まれていなかった。血止めに切られた端が荒く、外套の下からのぞく包帯と織りが同じだった。


「殿下の脇を巻くのに切った」


 ガレスが短く言った。


「氷棚の下手で一人、鉤を投げた。継橇場の灯り壺へ掛けるつもりだったが、殿下が先に木枠ごと倒した」


 私は白布の行へ書き足した。


『半反裁断 止血用』


 血を吸った文字まで青かった。足りない分を隠した字ではなく、使った先まで残す字の色だった。


「十二人でしたか」


 ガレスがうなずく。


「氷棚上から四、下手から八。半枠に切らせた木枠と、昨夜おまえが上で詰めろと言った革袋が利いた。連中は荷切り場の真ん中へ飛び込めず、上と下で足を止めた。六人生け捕り、二人は氷棚から落ち、四人は東尾根へ散った」


「継橇場は」


「朝番の切り分けは動かせる。灯り油も乾燥肉も浅橇へ分けた」


 それを聞いてから、やっと私はレオンハルトのほうを見た。彼は机に手をついたまま立っている。顔色は紙みたいに白いのに、視線だけは仮受帳の行から外れていなかった。


「座ってください」


「先に返納刻だ」


「ええ。ですから座ってください」


 机の前の丸太椅子を足で引く。レオンハルトは一瞬だけ私を見て、それから何も言わず腰を落とした。外套の脇が開き、白布の下から新しい赤がにじむ。喉の奥がきつく縮んだが、私は炭筆を置かなかった。


「返納刻」


「五更一刻」


 ガレスが答える。私は時刻を書き、立会欄へ補給所番エルマ、ガレス・ロウェル、レオンハルト・ヴァルグレイ、自分の名を並べた。


 レオンハルトが筆を取る。指先に力が入りきらず、最初の払いがわずかに震えた。私は紙の端を押さえた。彼の名が最後まで切れずに入る。


 払いの終わりで、白布の端から血が一滴だけ落ちた。立会欄の外、余白のぎりぎりで止まる。私は砂をひとつまみ落とし、その上へ空いた指先を押しつけた。署名欄へ赤を入れずに済んだことに、妙に息が戻った。


 そのとき、ガレスが血のついた革袋を机へ置いた。


「もう一つある」


 中から出たのは、白砂を噛んだ細紙だった。折り目が浅く、王都の机で急いで畳んだ紙だ。開くと、短い三行だけが残っている。


『継橇場押え後

 白尾戻り二荷 見舞名で下げる

 札は南へ着いてから結べ』


 見舞い。


 河岸の施船寄進札と同じ手口だ。荷を先に動かし、善意の名はあとで結ぶ。今度は負傷兵への見舞いを隠れ蓑に、白尾戻りの荷ごと南へ抜くつもりだった。


「この紙は捕縛者の懐から?」


「綱頭を取っていたやつだ」


 私は細紙を仮受帳の余白へ重ねた。帳簿魔法を通すと、『見舞名』の二字だけがぬめるように黒い。善意の顔をした偽装は、だいたいそこだけ筆が丁寧だ。


「ミレイユ、見舞受渡札を持ってきて」


 彼女は目を上げた。


「ここで、ですか」


「ここでです。もう広まります。大公が傷を負ったと知れば、湯も薬も、いらない見舞いの口実も一度に来る」


 ミレイユはすぐに帳場箱から札束を出した。監査室で使っていた札だ。私は一枚を取り、見出しの下へ新しく書き足す。


『白尾下補給所帳場奥受け』


「見舞いは全部この札を通してください。持込人、立会人、現物、刻限。人は入れず、品だけ外棚で受ける。治療、報告、警護以外は帳場奥へ通しません」


 補給所番エルマの背が、そこで初めてしゃんと伸びた。


「はい。鍋湯も薬布も、札なしでは奥へ入れません」


「薬師だけ通す」


 ガレスが戸口へ向き直る。


「それと捕縛者の口を割らせる場は別にする。ここへ喚く声を近づけん」


 私はうなずき、もう一枚札を切った。湯一桶、薬布二巻、焼き石三、立会ミレイユ。次に、温麺壺一、外棚止め。書いているあいだにも外で足音が増えていく。見舞いの名は、静かな部屋をすぐ人のものに変える。だから先に札を立てる。


「セレナ」


 名を呼ばれて顔を上げる。


 レオンハルトが、椅子へ座ったままこちらを見ていた。いつもの短い声なのに、今は息が少し混じる。


「継橇場の朝番は動いた。白尾戻りも止まっていない」


「聞いています」


「なら」


 彼はそれ以上を言わず、机の上の仮受帳へ視線を落とした。私はその意味を取り違えなかった。荷が戻ったことも、切り分け場が守れたことも、この行が閉じなければ誰かに書き替えられる。


 私は返納欄の下へ、もう一行足した。


『敵使用後返納 鉄鉤十二本 うち刃欠け三

 白布五反半返納 半反裁断止血用

 証紙 見舞名偽装細紙一』


 青が行の端まで通る。欠けた鉤も、血を吸った布も、嘘で磨いた数字よりよほどきれいに揃って見えた。


 薬師が来るまでのあいだ、私は帳場奥の寝台へ毛布を二枚重ねさせた。火鉢を一つ寄せ、机を半尺だけ奥へ引く。仮受帳から寝台まで三歩。炭筆と包帯のどちらにも手が届く距離だった。


 運び手がレオンハルトを支えようとしたとき、彼は立ち上がりかけて顔をしかめた。私は反射でその袖をつかんでいた。厚い外套の下でも、腕は驚くほど冷えている。


「奥へ」


 自分で言ってから、ようやく手を離した。


「帳場の奥です。見舞受渡札は外棚で止めます。ここなら返納木札も、朝番の追記も、そのまま見られる」


 レオンハルトは一拍だけ黙り、私の後ろの寝台と机を見た。


「……そうか」


 それだけだった。だが彼は、屋敷へ戻せとも、評議を先に開けとも言わなかった。


 寝台へ横になると、外套の下からまた赤がにじんだ。私は薬師へ傷の位置を告げ、ミレイユへ次の札を渡した。白尾戻り一便、灯り油革袋受け、木札照合済み。帳場の外では、見舞受渡札へ湯桶と薬布と黍粥の名が増えていく。札のない声は戸口で止まり、帳場の奥までは届かない。


 薬師は包帯をほどき、裂け目を見て眉をしかめた。


「深くはありません。けれど冷えが早い。今ここで火を切らせれば、明日の指示が飛びます」


「切らせません」


 答えたのが自分だと、一拍遅れて気づいた。


 仮受帳の新しい青は、まだ乾ききっていなかった。


 私は机へ戻り、寝台のほうを見ずに次の行を開いた。継橇場朝番、浅橇二、切り分け開始刻。けれど耳はずっと、奥で包帯が巻き直される布の擦れる音を拾っていた。


 帳場机と寝台のあいだは三歩しかない。


 今夜は、その三歩の内側から何も出さないほうがいいと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ