第三十八話 氷原の決算書
白尾下補給所の仮受帳には返納済とあるのに、返り木札を綴じる穴へ何も通っていなかった。
南火薬庫を出て半刻。白尾見張小屋のさらに下、雪庇の陰へ半ば埋まった白尾下補給所は、板壁の継ぎ目まで白く凍っていた。戸を開けると、湿った麻袋と獣脂と、乾ききらない布の冷たい匂いが鼻へ刺さる。棚は低く、背負子の木枠と雪靴底革の束が壁際へ寄せられ、帳場机の上には油染みのある仮受帳が一冊だけ置かれていた。
「原本を」
私が言うと、補給所番の老兵がすぐ両手で差し出した。指先が白く割れている。夜中に叩き起こされた顔だったが、眠気より先に怯えが立っていた。
「その一行です」
ミレイユが小灯りを寄せる。頁の下半分。
『氷原回り 白布六反 鉄鉤十二 返納済』
返納済の三字だけ、上から撫でたように黒い。けれど、それより先に目についたのは、行端の小穴だった。ここには戻った荷の木札を麻糸で留める。濡れた木札は乾くと反るから、頁の上で少し浮く。なのにこの行だけ、穴は空で、糸くずも残っていない。
「返り木札は」
「見ておりません」
老兵は帽子を胸へ押しつけた。
「氷原回りは危ない路でして、戻った荷はまず乾かし棚へ掛けます。木札はそのとき切って、帳面へ綴じます」
「乾かし棚はどこです」
「奥です」
振り向く。壁際の縄棚に、濡れた背布二枚と革手袋が一対。白布六反も鉄鉤十二もない。鉄鉤を乾かしたなら、縄の下へ赤錆びた水筋が落ちる。だが板床は乾いていて、昨夜の掃き跡まで残っていた。
私は仮受帳へ帳簿魔法を通した。白布六反と鉄鉤十二の文字は青い。返納済だけが、その青を塞ぐように灰の膜をかぶせている。返った物の色ではない。返したことにした字の色だ。
「鍛冶控えは」
ガレスがすぐ老兵へ向いた。
「鉄鉤を返せば、先を研ぎ直す。白尾で使った鉤は氷を噛むから、そのまま棚へは戻さない」
老兵は慌てて机下の薄板束を引き抜いた。研ぎ控え。今夜ぶんは空白だった。代わりに夕刻の行へ、雪靴底革二十、背負縄八、木枠補修三。白尾見張小屋へ朝に回した荷の後始末だけが並んでいる。
「白布は」
「洗い場か、裂け直しです」
今度はミレイユが帳場箱から布修繕控えを出した。こちらも空白。返ったなら濡れ、裂け、煤けのどれかが書かれる。氷原回りで何も傷まないはずがない。
私は帳場机の脇へ置かれた乾かし籠も見た。鉄鉤を戻した夜は、ここへ火石を一つ入れて、濡れ布と一緒に朝まで温めると老兵が言う。けれど今夜の籠の底には、昼のまま冷えた灰しかなかった。火を入れた灰は端から白く締まり、濡れた布を掛ければ脂の黒が落ちる。どちらの跡もない。
戸口の内側には、戻り荷の泥を落とすための短い木杓が立ててあった。先端は乾き、雪水の筋も凍りもついていない。返ったなら、誰かがここで氷を叩き落としている。帳面だけでなく、床も壁も、今夜は一度もその荷を迎えていなかった。
レオンハルトが外套の裾で机の端風を切った。小灯りの火が揺れずに済む。私はそのまま仮受帳の余白へ指を置いた。
「戻っていませんね」
「はい」
老兵の喉が鳴る。
「帳場へ来た紙には、返納済とありました。火急の追記だと」
「誰の紙です」
「兵站副官の随行兵です。白砂のついた、細い……」
六商会名義の細紙と同じ机だ。もう驚く段階ではなかった。
私は頁をめくった。前の冬の氷原回り。白布四反、鉄鉤八、返納刻、二更半。立会、補給所番エルマ。研ぎ控えへ二本。布修繕へ一反。戻り木札あり。
必要な戻りが全部残っている。今夜の一行だけが、決算だけ先に閉じていた。
「氷原回りは、どこへ出ますか」
私が問うと、ガレスが補給所の壁へ掛かった粗地図を引き寄せた。白尾見張小屋の先、南斜面のさらに下。風で雪が削れ、青黒い氷がむき出しになる盆地が描かれている。
「ここだ」
彼の指が東へずれる。
「正面からは見えない。氷棚を二段降りれば、東谷前陣の背の継橇場へ出る」
「継橇場」
「白尾と東谷へ上げた荷を、明け方に背負いと浅橇へ分け直す場所です」
ミレイユが息を呑む。
「今朝、白尾へ寄せた乾燥肉と灯り油も」
「そこで切る」
ガレスの指が、白尾と東谷のあいだを短く叩いた。
「継橇場を取られれば、白尾へ上げた荷も東谷へ回す足も、夜明けから詰まる」
私は白布六反と鉄鉤十二へもう一度目を落とした。雪靴底革や背負縄ではない。音を立てず、白に紛れて、氷棚を越えるための品だ。
「白布は、人と荷の影を消すため」
「鉄鉤十二は六綱分だ」
ガレスがうなずく。
「二本で一綱。六綱あれば、先に降りる手が十二人つく」
十二人。白尾を表から崩すには少ない。継橇場の火を落とし、荷の切り分けを止め、戻り橇を横倒しにするには十分だった。
私は補給所番へ向き直った。
「継橇場の今朝の予定は」
「夜明け前に白尾戻り一便、東谷向け浅橇二、乾燥肉の切り分け、灯り油の革袋詰め替え……」
全部、火薬庫へ釘づけにされていたら止め損ねる作業だった。
私は空紙を引き寄せた。
「ミレイユ、欄を足します。仮受帳の次頁へ」
「何を」
「返納刻、返納立会、戻り木札有無、鍛冶回し、布修繕回し」
彼女はすぐに炭筆を走らせた。細い手が震えていても、罫線は曲がらない。
私は元の行へ、返納済の三字を消さずにその脇へ書いた。
『未返納 返納紙のみ先行』
灰の膜の横へ黒い字が立つ。帳面の上で閉じられたはずの荷が、もう一度開いた。
「この一行は今から開きます。白布六反、鉄鉤十二、継橇場危急物資」
老兵の顔色が変わった。恐怖ではない。やることが見えた人間の顔だった。
「予備の風除け布なら二反あります」
「全部、継橇場へ。革袋詰め替えは下ではなく上でやってください。油壺のまま並べない」
「木枠は」
「倒されても道を塞がないよう、半枠に切っておきます」
ガレスがもう扉へ向いていた。
「俺は先に行く。継橇場の下手へ六、氷棚上へ四。降り口を塞げば、十二じゃ足りん」
「私も」
言いかけると、レオンハルトが小さく首を振った。
「今は違う」
彼の手が机の端へ伸び、私が書いた『未返納』の行で止まる。
「継橇場を守る兵は俺が動かす。お前はこの下の紙を閉じるな」
下の紙。仮受帳、研ぎ控え、布修繕控え、戻り木札の空穴。ここが閉じたままなら、たとえ継橇場を守っても、また別の夜に同じ嘘が立つ。
私はうなずき、次の行へ日付を書いた。三更過ぎ。白尾下補給所臨時追記。立会人、セレナ・フォルティス、ミレイユ・ノッテ、補給所番エルマ。危急先、東谷前陣継橇場。
レオンハルトはその横へ、自分の名を短く入れた。執務室ではない、凍った補給所の机の上で置かれる署名だった。
「戻ったら、返納刻を入れる」
その一言だけ残し、彼はガレスと外へ出た。戸が開く。まだ夜明け前の風が白く流れ込み、帳面の端をめくろうとする。私は左手で頁を押さえ、右手で小灯りを寄せた。
決算は、返ってきたものだけを閉じるためにある。
まだ氷原の向こうにある荷を、帳場の都合で先に終わらせはしない。
外では、馬ではなく背で上がる者たちの足音が続いていた。乾いた鉄鉤の代わりに、こちらは新しい縄と半枠の木と、切り分け前の灯り油を持っていく。
私は仮受帳の次頁へ、継橇場の受け欄をもう一つ立てた。夜明けが来る前に、あそこへ戻るべき数字の席を空けておくために。
空欄のまま待つ行は、暖炉のそばの帳場より冷たかった。けれど、まだ帰っていないものの席を残しておくほうが、返ったことにされるよりずっとましだった。




