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白紙婚の監査令嬢は、帳簿魔法で辺境を黒字にする  作者: 小竹X


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第三十六話 裏切り者の印章

 緊急差替命令の右肩には兵站印があるのに、印庫札番号がなかった。


 私は封を切る前の紙を机へ寝かせたまま、右上の余白を爪で押さえた。白い乾き砂。広すぎる右余白。そこへ本物の兵站印だけが、赤く重い。


「印を使うたび、箱の木札番号を右肩へ書きますね」


 下級文官は青ざめたままうなずいた。


「返納の時に同じ番号へ刻限を切ります。そうしないと、誰がいつ出した印か追えません」


 私は文面を読み下ろした。


『予備蹄鉄三十二組、灯り油四壺を北西砦へ即刻差替。白尾路線への追加は停止』


 三十二と四。戦場の腹ではなく、棚の数だとすぐ分かった。


「保管役と兵站副官を呼んでください。北門予備の朝棚卸し控えも」


 レオンハルトが一言も足さずに扉脇の騎士へ顎を振る。ガレスは剣帯に触れたまま、机の差替命令から目を離さなかった。


 先に来たのはミレイユだった。北門予備の控え束を抱え、息を白くしている。


「今朝の棚卸し、抜いてきました」


 束の一枚目を開く。最下段、予備蹄鉄箱一。三十二組。上段、灯り油四壺。欄外の確認印は、兵站副官の細い斜め線だった。


「白尾の請求札には雪靴底革二十、背負縄八、灯り油三壺でした」


 私がそう言うと、ガレスの指が棚卸し控えの数字へ落ちた。


「現地の請求じゃない。北門の棚を見て書いた数だ」


 保管役は震えながら入ってきた。胸に印箱の鎖を下げている。その後ろから、痩せた兵站副官が無表情で一礼した。


「兵站印は今、箱の中です」


 保管役が鎖を外し、机へ箱を置く。封革は掛かっている。だが、留め紐の結び目が新しい。先端だけ固く締め直され、革の曲がり癖と合っていなかった。


「今日、この印を開けたのは何刻ですか」


「二刻前に一度。兵站副官殿から、破損した荷印の差し替え控えへ押すよう言われまして」


「その控えはどこです」


 保管役の喉が鳴る。兵站副官はすぐに答えた。


「北門の荷組が慌ただしく、後で束ねるつもりでした」


「後で、ですか」


 私は印箱の蓋裏を見た。いつもなら封蝋の削りかすは左隅へ集まるのに、今日は白砂が薄く散っている。荷印の差し替えなら、ここに乾き砂は要らない。必要なのは封泥と小札だ。


 私は差替命令と棚卸し控えを並べた。


「北門予備の最下段、蹄鉄箱一つで三十二組。上段の灯り油が四壺。今朝、その数字を見たのは誰ですか」


「私と兵站副官殿、それに鍛冶場の親方です」


「白尾の追加停止命令が届いたのは、白尾から斧音の木札が戻るより一刻早い」


 私は兵站副官を見た。


「現地を知らず、棚だけを見た人間が書いた数です」


「推測でしょう」


「ええ。ですから、もう一枚要ります」


 ミレイユへ視線を向ける。


「空紙を一枚。題だけ書いて」


 彼女はすぐに炭筆を走らせた。


『北門予備差替控え』


 私はそこへ、わざと大きな字で書いた。


『火薬庫南壁用灯り油二壺、北門裏伝令箱脇で今夜二更受渡』


 兵站副官の目が、ほんの一度だけ跳ねた。


「ガレス」


「分かった」


 彼はそれだけ言って部屋を出た。重い足音が廊下で消える。私はその紙を乾かさずに畳み、封もせず、下級文官へ渡した。


「北門裏の伝令箱へ。見える場所に入れて」


「畏まりました」


 保管役の肩がさらに縮む。兵站副官だけは平静を装ったまま、手を後ろで組み直した。その右袖口に、砂が一粒だけ光っていた。


「印箱の鍵を」


 私が言うと、保管役はすぐに胸元を探った。ひとつ。革紐つきの真鍮鍵。箱に差すと、軽い音で開く。


「予備は」


「ありません」


 兵站副官の視線が、暖炉脇へ逸れた。


 私は差替命令へ帳簿魔法を通した。兵站印の赤は本物だった。けれど文面の数字の下で、三十二と四だけが棚卸し控えの斜め線へ黒く吸いつく。命令書ではなく、棚札を写した色だ。


「兵站副官殿」


「何でしょう」


「あなたは今朝、北門予備の棚卸し控えへ印を入れています。白尾の現地札は見ていない。なのに届いた差替命令は、白尾を止め、棚の数だけを北西へ動かそうとした」


「だから何です」


「保管役は数字を知りません。閣下はそんな命令を出していない。残るのは、印へ触る理由を作れて、棚の数を知っていて、紙の白砂を机で使う人だけです」


 副官の口元がかすかに歪んだ。


「紙肌だけで、人を縛れると」


「縛るのは紙肌ではありません」


 私は棚卸し控えの欄外を指した。


「北門予備は、箱を丸ごと抜けば白尾の足が死ぬ配置になっていました。あなたは現地の請求を読まず、棚の取りやすい段だけ抜こうとした」


 その瞬間、副官の右手が暖炉脇へ走った。火箸ではない。煉瓦の隙間から引き抜いた細い短剣だった。


 保管役が悲鳴を呑み込み、ミレイユの炭筆が床へ落ちる。


 副官は私へではなく、机の差替命令へ手を伸ばした。燃やすつもりだと分かるより先に、扉が開いた。


 銀の鞘鳴りが一つ。


 ガレスの剣が、副官の手首の前へ水平に入り、机の角へ叩きつけた。短剣が乾いた音で石床を滑る。副官が反対の腕で腰をひねったが、その襟をガレスが肘で壁へ押しつける。


「紙を燃やす前に、口を開け」


 低い声だった。けれど押さえられた副官の肩骨が、鎧越しでも軋んで見えた。


 もみ合いで、副官の袖口から小袋が落ちた。白い乾き砂。もう一つ、革紐のない真鍮鍵。印箱の鍵穴へ差すと、軽すぎるほど滑った。


「予備が、ありませんでしたね」


 私が言うと、保管役はその場へ膝をついた。


「し、知りません……私は、箱を胸から外していないと……」


「胸から外さなくても、型は取れます」


 ミレイユが震える指で、副官の机から回収してきた紙束を差し出した。六商会名義の細紙、北西砦の請求札控え、そして今朝の棚卸し控えの下書き。どれも右余白が広く、白砂が同じ粒で光る。


「引き出しの裏板にありました」


 帳簿魔法を通す。紙の青と灰の下で、同じ机の乾きが重なる。市場干しの一枚紙と、本陣の差替命令が、ここでやっと一つの色になった。


 ガレスが副官の腰紐を切ると、内側から小さく畳まれた紙片が落ちた。私は拾って開く。


『南火薬庫 北壁通風戸 留め金ゆるめ済み

 白尾の追加止まれば 三更 白い息を合図に入る』


 室内の誰も、すぐには声を出さなかった。暖炉の火が一つ爆ぜ、保管役の歯が小さく鳴る。


「白尾を止めさせて、火薬庫の見張りまで薄くするつもりだったのですね」


 副官は黙ったまま、口の端へ血を滲ませた。


 レオンハルトが紙片を私の手元で見たあと、印箱をそのまま机へ引き寄せた。


「もう胸には下げるな。この部屋で受ける」


「はい」


「セレナ」


 彼が卓上印を私へ寄せる。


「次の帳面を作れ。俺の印から先に縛る」


 私は空紙の裏へすぐ見出しを書いた。


 印章受渡帳。


 使用者、理由、刻限、立会人、印庫札番号、返納刻、行き先。ミレイユが線を引き、私は一行目を空けずに埋めた。レオンハルト・ヴァルグレイ。火薬庫緊急封鎖命令。立会人、セレナ・フォルティス、ガレス・ロウェル。


 レオンハルトは迷わず自分の名の横へ署名し、兵站印をその隣へ押した。今度は右肩に印庫札番号が入る。返納刻の欄を空けたままにはしないための、最初の赤だった。


「ガレス、南火薬庫へ」


「もう兵を走らせてる」


「私も行きます」


 白尾へ寄せた灯り油を守っただけでは足りない。今度は、燃やされる前の火を止めなければならない。


 私は印章受渡帳の乾かない頁を閉じ、火薬庫の紙片を袖へ差し込んだ。扉を開けると、外気が肺へ白く刺さった。


 三更まで、まだ少しだけある。

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