第三十三話 戦備先買控えと赤紐の売止札
朝の鐘が鳴る前に夜札受けへ集まった戦備先買控えは六枚だったのに、王家軍需局の達書には七商会許可とある。
私は執務室の机で六枚を扇のように並べ、付表の濁った下半分と見比べた。粗挽粉二十袋。灯り油十六壺。鍋台鉄輪三十。油皿留め金具四十。どれも前線だけでなく、共同竈と夜市と工房が今まさに使っている品だ。
「七つ目だけ、まだ名を出していません」
私が言うと、ミレイユが控えの端へ指を置いた。
「夜明け前の走り書きは六件です。でも、西粉挽き小屋から来た娘が『紙のない口約束の買い付けがもう一人いた』と」
「値は?」
「朝相場の二倍。荷を台へ出す前に、全部まとめて押さえると言ったそうです」
宣戦布告より早い。しかも市場が開く前を狙っている。
私は達書を畳み、上衣を羽織った。
「西粉挽き小屋から回ります。今日は台へ並ぶ前の品を先に見ます」
共同竈前は、昨夜の祝いの名残で板の継ぎ目にまだ細い粉が光っていた。けれど湯気の匂いはもう祝いではない。竈番の未亡人が粉袋を抱えて裏口を行き来し、黒パン台の子は灯り油の壺を数えながら、誰が先に来たかを早口で言い合っている。
西粉挽き小屋の女主人は、私を見るなり挽き臼の横から一枚の細紙を出した。
「これだけ置いていったんです。あとで王都の達書を持ってくるから、今朝の粉を全部よけておけって」
受け取る。青糸を混ぜた紙色だけ王都の様式に寄せてあるが、二枚組ではない。右下の余白が広い。帳簿魔法を薄く通すと、名を書き込むべき欄だけが灰でも青でもなく、ぬめるように黒い。
会計方御用達の紙だ。
「商会名は」
「最後まで言いませんでしたよ。『七つ目はまとめ役だから、出さなくていい』と」
女主人の声に、挽き臼の石音が重なる。まとめ役。商会ではなく、名を空けたまま物を吸う口だ。
次に寄った鍛冶通りでも同じだった。鍋台鉄輪を買いに来た男は、六商会のうちの一つを名乗ったのに、置いていった控え紙はやはり同じ折り目、同じ広い右下余白、同じ砂の散り方をしていた。灯り油の壺を押さえに来た使いも、油皿留め金具をまとめたいと言った若い書記も、みな別の顔なのに紙だけがひとつの机から出ている。
筆算工房の紙倉へ寄ると、朝番の娘が青くなった顔で麻紐束を抱えていた。
「帳面紙を半分、先に包んでおけって言われたんです。前線で使う紙だって」
棚には、契約印紙用の厚紙、見本札の写し紙、在庫札の紐束が並んでいる。私は娘の手の中の細紙を見た。やはり同じ右下余白、同じ会計方御用達系の透かしだ。
前線で紙も使う。けれど、この量は違う。帳面紙と麻紐を朝のうちに抜けば、共同竈や夜市より先に、こちらの記録の手が鈍る。
「品だけではありませんね」
私が言うと、ミレイユが紙棚の前で息を呑んだ。
「帳面ごと、遅らせる気です」
北市西通りへ戻るころには、私の手の中に六枚の細紙が増えていた。リゼットが共同竈の樽へ紙を広げ、口紅の先で順に押さえる。
「折り目が全部同じ。二つ折りにして懐へ入れて、右端だけ指で抜ける形」
「乾き砂も同じ粒です」
ミレイユが小瓶の蓋へ少しずつ払う。
「北市の帳場砂じゃありません。屋敷の会計室で使っていた白砂に近いです」
私は六枚を達書の横へ置いた。許可された六商会が、それぞれ自分の帳場で書いた紙ではない。七つ目の空欄を持つ同じ机から、商会名だけ差し替えて市場へばら撒いている。
「七商会許可、ではありませんね」
私は達書の濁った行を爪で押さえた。
「六商会を表へ立てて、七つ目の空欄で全部をまとめている。紙を持っているのは商人ではなく、後付けで買い手名を替えられる帳場です」
リゼットの目が細くなる。
「値を吊ったあと、売れ残りは慈善船へでも軍需倉へでも化ける。昨日の施船寄進札と同じ手ね」
止めなければ、共同竈の粉袋も夜市の金具も、朝のうちに名のない口へ吸われる。
ただし、全部を拒めばそれはそれで隙になる。本当に前線へ要る荷まで止めた、と王都は書く。
私は共同竈前の板端へしゃがみ、荷札用の厚紙束を膝へ引いた。赤い紐を六本、ミレイユから受け取る。
「売止札を作ります」
「売り止め?」
竈番の未亡人が湯杓子を止めた。
「達書だけで持っていこうとする荷へ、赤紐を下げます。品名、量、来た刻限、名乗った商会、払うと言った値、紙の有無。そこまで書いて札を下げた品は、相手が二枚組の受け紙と行き先を書き切るまで動かしません」
「台へ並べるぶんも?」
「並べます」
私は厚紙の上へ炭筆を走らせた。粗挽粉五袋。共同竈前。朝一刻。七つ目口。紙なし。赤紐。
「止めるのは町へ出すことではありません。名のない先買いへ吸われることです」
ガレスがちょうど北門裏から上がってきたところで、その札を見た。彼は一度だけ読んで、すぐに共同竈前の裏手へ視線をやる。
「兵を一人、裏口へ立てる。赤紐の札が下がった品は、相手が達書番号を言えても、その場では出さない」
「言えても?」
「紙を持たないやつほど、番号だけは先に聞いてくる」
北西砦で灰札番号を探りに来た浅車と同じだ。継ぎ目を噛まれたくないなら、番号だけ知っている口上を通してはいけない。
午前いっぱいで、共同竈前、黒パン台、鍛冶通り、灯り油小屋、筆算工房の紙倉へ赤紐の売止札が下がった。粗挽粉、油皿留め金具、鍋台鉄輪、帳面紙、麻紐。戦備先買控えの欄はみるみる埋まるのに、正規の受け紙を持って戻った者は一人もいない。
昼過ぎ、ようやく六商会のひとつを名乗る男が執務室へ来た。出してきたのはやはり一枚紙で、商会印だけが新しい。
「王家軍需局の緊急達書です。先に荷だけ押さえていただかないと」
「七つ目の空欄は、どこの帳場です」
私がそのまま聞くと、男の指が紙端で止まった。
「何のことで」
私は朝に集めた六枚を机へ広げる。折り目、乾き砂、余白、透かし。どれも同じだ。商会印だけが違う。
「六商会が別々に来たのに、紙は同じ机から出ています。しかも二枚組ではない。売り手控えを残さない買い方で、どうやって前線の受け渡しを証明するつもりです」
男は答えず、代わりに紙を引こうとした。私は先に赤紐の売止札をその上へ置いた。赤い紐が官紙の上でひどく目立つ。
「共同竈前の粉五袋、鍛冶通りの鉄輪十、灯り油小屋の壺四。もう控えに残っています」
レオンハルトが窓際から声を落とした。
「名を書けない荷は、一つも出さない」
短い声だったが、男はそれで紙を引くのをやめた。
去ったあと、執務室には赤紐つきの控えだけが残った。私は戦備先買控えの末尾へ新しい欄を足す。売止札番号。解除刻限。正規受け紙提出の有無。
「これで町は一日は守れます」
ミレイユが言ったが、私はうなずかなかった。守るだけでは足りない。相手はきっと、今夜のうちに「辺境が軍需を妨げた」と書く。
「ええ。でも、一日だけです」
私は達書の品目欄を指で追った。乾燥肉、灯り油、蹄鉄、塩硝、粗挽粉。混ぜ方が雑でも、前線で本当に要るものまで嘘ではない。
「止める札を下げるだけでは、明日には詰みます。こちらが先に、正しく通す量を書かなければ」
ガレスが腕を組んだまま聞く。
「どれだけ要る」
私は戦備先買控えの次頁をひらいた。
「七日で、前線千人分」
粗挽粉を何袋、乾燥肉を何箱、灯り油を何壺、蹄鉄を何組。町を干さず、兵を飢えさせず、先買いの口実を潰せるだけの数を、こちらが先に出す。
机の向こうで、レオンハルトがもう返事を決めた顔で言った。
「今夜から組むか」
「はい」
赤紐の札は、止めるための札だ。
次に要るのは、正しく通すための数字だった。




