第三十二話 黒字祝いのダンスは予定外
黒字祝いへ回す床板は四枚で足りるはずなのに、共同竈前へ運ばれた在庫札は六枚ぶん揺れていた。
私は執務室から持ち出した暮刻売上帳と、余剰還元帳の灯り油控えを胸に抱えたまま、共同竈前の板を順に見た。甲二九の三、甲二九の四。ここまでは夜市設備の第一便で使った見本板だ。だが残り二枚は、今朝まで仮倉庫の壁へ掛かっていなかった。
「この二枚は、どこから来ました」
私が在庫札の紐を指で弾くと、ミレイユが肩をすくめる。
「兵舎の古い訓練台です。昨夜のうちに削り直して、角も落としてもらいました」
「祝いの支出へ、その行がありません」
「支出ではなく、ご厚意です」
横からリゼットが口紅の端だけで笑った。
「黒字の夜くらい、町にも勝手をやらせなさいよ。女たちが『最初の一曲を踊るなら、踊り場くらい真っ直ぐじゃないと困る』って」
最初の一曲。
そこでようやく、招き状の最後の一文と板の数がつながった。共同竈前の黒字祝いは、ただの帳面報告会では終わらないらしい。
「勝手をやるなら、戻り先まで書きます」
私は近くの荷箱を裏返して即席の机にし、在庫札の裏へ二欄だけ足した。祝い貸出。戻刻。ご厚意でも板は板だ。返らなければ黒字の夜に穴が開く。
「灯りも同じです。共同竈前へ足した油皿、風除け板、鍋台の脚、全部いったんここで受けて、戻り刻を残します」
ミレイユがすぐに別紙を広げた。
「では、私が読み上げます。甲二九の三、共同竈前中央。甲二九の四、楽師台脇。訓練台崩し二枚は踊り場外縁」
「返りは夜札受けへ」
私が言うと、彼女は少しだけ胸を張ってうなずいた。もう旧監査室へ戻る紙ではない。祝いの板まで、今夜のうちに執務室へ戻す。
日が落ちるころ、共同竈前は見慣れた売り台の並びなのに、いつもより火の色がやわらかかった。黒パン台の後ろには新しい風除け板が立ち、干魚台の脇には折り畳み台が一段増えている。筆算工房の娘たちは昼に書いた札を木杯の横へ立て、未亡人たちは鍋蓋の戻り数を声に出して合わせていた。祝いの夜だというのに、誰も帳面の外へこぼれない。
それが、かえって胸にきた。
十日前まで、この場所の灯りは試しだった。黒パンが何刻まで売れるか、鍋台を増やしても見回りが回るか、油代を誰が負うか。全部、灰色のまま始めた。
今夜は違う。暮刻売上帳の十日締めは青く揃い、共同竈も夜市も、筆算工房の書写賃まで黒字の中で戻り先を持った。女たちが銅貨を木盆へ落とす音も、兵が湯気の向こうで笑う声も、試しではない。
「大公妃様、帳面はあとで見ますから」
共同竈を切り盛りしている未亡人が、湯杓子を持ったまま私へ言った。
「今夜は、最初の一曲だけ先に」
楽師台の前では、例の六枚板がきれいに組まれていた。角を落とした古板に油を薄く引き、継ぎ目へ麻布を噛ませてある。踊り場としては簡素だ。けれど、雪と炭と鍋の匂いがするこの領には、たぶんちょうどいい。
人の輪がゆっくり開き、その向こうからレオンハルトが来た。軍装ではなく濃紺の上衣だが、肩の線はいつもと変わらない。共同竈の灯りが銀灰の瞳へ細く入る。
「嫌なら断る」
差し出された手を見たまま、私は一息だけ遅れた。
伯爵家で習った舞踏の手順は覚えている。けれど、それは磨かれた床と磨かれた笑顔のある場所のものだ。共同竈前の板は少し軋むし、黒パン台の子がいまにも身を乗り出しそうな顔でこちらを見ている。帳面より読みにくい。
それでも、私はもう誰かに席を決められるのが嫌だった。
「断りません」
自分でも驚くほど、声はまっすぐ出た。
「今夜は、私がここへ立つと決めます」
レオンハルトの指が、ほんの少しだけ強くなった。
「……分かった」
音が入る。笛一つ、弦一つ、太鼓はなし。筆算工房の娘が板端で木杯を抱えたまま息を止め、ガレスは腕を組んで黒パン台の前に立ち、リゼットは最初からこうなると知っていた顔で壁に寄りかかっている。
私は板へ足を置いた。継ぎ目は浅い。午後のうちに何度も削り直したのだろう。右へ半歩、引いて一歩。レオンハルトの手は冷たいかと思ったのに、共同竈の火のせいか、いつもより温度がある。
「足場は平気か」
「帳面よりは揺れません」
そう返すと、彼の口元がわずかに動いた。笑ったのだと分かるまで、一拍かかった。
輪の外では、共同竈の鍋がまだ湯気を上げている。夜市の灯り数を書いた札、貸出板の戻刻を書き込むための炭筆、筆算工房の娘が抱えた売上板。全部見える場所にあるのに、不思議と今は手を伸ばさなくてよかった。
「無理なら、途中で切る」
「切りません」
私は彼の袖口へ指を添え直した。
「離しません。今夜は」
言ってから、共同竈の火より顔が熱くなった。けれど、レオンハルトは何もからかわなかった。ただ歩幅を半分だけ私へ合わせ、次の旋回で板の継ぎ目を踏まない位置へ導く。
「終われば、また同じ机だ」
「ええ」
その一言で足が乱れなかったのは、たぶんずるい。
机の話なのに、今はそれだけで十分だった。終われば戻る場所が同じだと、もう疑わなくていい。河岸の札も、町の売上も、工房の紙代も、祝いの板の戻り刻まで、同じ部屋へ戻る。その真ん中に私の席がある。
一曲が終わると、拍手は貴族の広間よりずっと大きく、ずっと遠慮がなかった。黒パン台の子が跳ね、未亡人たちが木杯を打ち鳴らし、兵が笛吹きの背を叩く。私は礼を返しながら、踊り場の端へ目をやった。ちゃんと戻刻を書かせなければ、と思ったその時だった。
人の輪の外で、北門の急使札が赤く上がった。
楽の余韻がまだ空に残っているうちに、騎乗の使者が共同竈前へ駆け込んでくる。馬の首から白い息が噴き、泥はねが踊り場の端へ散った。使者は鞍から飛び降り、膝をついたまま封筒を差し出す。
「王都急達。王家軍需局より、北方戦備先買達書」
祝いの夜に似つかわしくない名だった。
レオンハルトが封を切り、私へ紙を渡す。厚手の官紙だ。王冠印も正しい。だが、帳簿魔法を薄く通した瞬間、付表の下半分だけが鈍く濁った。
先買い許可は七商会とあるのに、名がきちんと書かれているのは六つ。しかも品目欄には、乾燥肉、灯油、蹄鉄、塩硝、着火縄に混じって、粗挽粉、油皿留め金具、鍋台鉄輪まで後から押し込まれていた。
戦備の名で買い上げるには、町に近すぎる。
「共同竈と夜市の品まで入っています」
私が言うと、リゼットがすぐ紙を覗き込んだ。
「粗挽粉まで持っていく気? 戦の備えというより、先に市を干す気ね」
ガレスの顔つきが変わる。
「宣戦布告はまだだ」
「ええ。だから先に買い占めるのでしょう」
私は付表の濁った欄へ爪先を当てた。七商会のはずなのに六。正しい戦備なら、こんな雑な足し方はしない。しかも灯りと鍋の部材から削れば、兵より先に町の足が止まる。
レオンハルトが短く問う。
「どう動く」
「今夜のうちに帳面を一冊増やします」
私はミレイユへ向き直った。
「題を置いてください。戦備先買控え」
彼女はもう炭筆を出していた。
「欄は、品目、量、値、売り手、買い手、達書番号、断られた台、断られた理由」
「あと、見かけた刻限も」
リゼットが口を挟む。
「市場には私から流すわ。値を吊ってくる顔は、朝の鐘より早く広まる」
「北門裏と河岸は兵を一段増やす」
ガレスが続けた。
「達書を見せずに先買いを名乗るやつは、その場で止める」
私はうなずき、まだ温かい踊り場の板を見た。貸出札は返る。木杯も戻る。だが、明日からは品そのものが町へ戻らなくなるかもしれない。
せっかく青く立った黒字を、今度は戦備の名で食われる。
共同竈の火が揺れ、さっきまでの楽の余韻が薄く消える。私は急使の紙を抱えたまま、踊り場の端で新しい帳面の題を見た。
戦備先買控え。
敵軍より先に、値札を持った圧力が町へ入ってきた。




